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ミスは捉え方次第でその後の結果が180°異なる

こんにちは!今日のnoteはこんなテーマで書いてみたいと思います。

8月が終わり社会人にとっても夏休みシーズンを終えるこの季節。皆さんはいかがお過ごしでしょうか?

私はというと、来月に迫ったグローバルが実施する業務監査に向けて、鋭意準備を進める毎日を送っております。私の部門は、外からもまた内側からも、監査を受けることが比較的多い仕事なんです。

そうなると、みんな普段から気にするのが、失敗しないということになります。きっちりやる。期限は守る。ミスはしない。こういうことに、ひときわ労力が注がれます。

これ自体は悪いことじゃないし、大事なことだとは思うんですが、いざ何かイベント悪い事態が発生した時に、対応に慣れていないというか、焦るというか、狼狽えるというか、、、そんな状況も得てして起こりがちだな〜って思いまして。。。

今日のnoteでは、そんないつもきっちりすることに意識が向いている方に向けて、私が普段から考えていることを書いてみたいと思います。


ルールの裏には必ず意図理由がある


きっちりされている方を見ていて私が率直に感じるのは、「ミス」=「悪いこと」「やってはいけないこと」という呪縛にかかっている方が多いということです。

  • マニュアルに書いていないことはやらない

  • オープンエンドの問い合わせが多い

  • 問い合わせに回答があるまでタスクを止める

  • 期限を異様に気にする

こういった行動がよく見られる気がします。一言で言えば木をみて森を見ずと言ったところでしょうか?目の前のイシュー、トラブル、処理期限などにのみ目が向きがちなんですね。

でもここで一歩立ち止まって考えてみていただきたいのです。そもそもそのタスクはどういった目的で設定されているのか?と。

タスクには必ず意図(理由やその背景)があるはずです。そこを常に考える癖・・・・をつけておくと良いと思います。

どういうことかというと、マニュアルには「Aの場合は◯◯せよ、Bの場合は◯◯せよ」と書かれている。今目の前にあるのは、AでもBでもないが他のファクターから考えると、おそらくパターンAと同じ処理が望ましいと思われる。なので、「Aの処理で良いですか?」と問い合わせよう、と言った発想を持つということです。

背景を考えて行動を予測する。これができるとできないとでは、圧倒的にパフォーマンスが変わってくるのですが、実はこれ、できるかできないかは癖(日々の習慣)のようなもので、できる人は当たり前にできるんですね。ですので、みんな面倒がらずこの癖をつけるようになってほしいなと日々感じます。

問い合わせで得られるものは合意であり、正解ではない


これもよく起こりがちな勘違いだと思うんですが、ミスを恐れる人は、立場が上の人(あるいは元請けの組織)に「正解(ここでのルール)を教えてください」と言わんばかりに問い合わせをしてくる傾向があります。

考えていただければわかると思うのですが、ビジネスの場合、必ずしも上の人や組織が正解を持っているわけではなく、多くの場合は妥当解なのです。ですのでその解答に従って進めても、やっぱり間違っていた、手戻りが必要、なんてことになることもそれなりにあるということは肝に銘じておくべきことです。

つまり大事なことは、盲目的に相手から言われたことを丸呑みしないということ。返ってきたのはあくまでも回答者が考える妥当解なだけ。それに「わかりました。そうします。」と答えるのは、あなた自身がそれに合意したこと(正解でも不正解でもその船に乗っかっただけ)に過ぎないのです。

そして、もし結果として正解が妥当解の逆だった場合、その影響を最も受けるのは、大抵の場合あなた自身、または組織だと思います。「あの人の言うとおりにやったのに・・・」と嘆いても後の祭り。なので、大事なことは妥当解を相手に提案させるのではなく、自分自身で提案するということだと私は思います。

ミスがあった場合、まず真っ先にすべきこと


そして、どんなミスであってもまず真っ先にすべきこと、それは原因究明や処理ではなく、まず事実を認める・・・・・・ということです。

特に自分自身・組織に非があった場合、「それを認めたくない」「事勿れに処理してしまいたい」という気持ちに苛まれることもあるかもしれません。ですが、それこそが危険なシグナル。

まずすべきことは、事実を認め、しかるべき部門あるいは上長に報告することです。またその際に大切なことは、報告には事実のみを伝える(あなたの感情は別においておく)ことです。

報告を見ていると言い訳のように長い弁明が書かれていることがありますが、それは最初の報告には不要(むしろ邪魔)です。それは後からでも聞かれたら伝えれば良いことであって、トラブル対処に向けて最も大事となるのは、「いつ」「誰が」「何をどうしたら」「どうなった?」を明確に、大局観を持っている人(つまり上長や元請け組織)に伝えることだと思います。ひいてはそれが解決への第一歩となるのです。

ミスを恐れる人(組織)は、ベクトルがそういった外向きの発想ではなく、内側(つまり、自分自身)に向きがちです。

  • 自分がミスるわけがない!

  • 上からの指示が間違っていたんじゃないか?

  • 怒られたくない。指摘されたくない。

  • まだミスがあったと言い切れないのではないか?

これらはすべて自分自身に意識が向いた思考です。こう言った思考は結果として、より大きな組織における決断を遅らせることにも繋がります。

事実のみを迅速に伝えることは、原因解明を早め、根本原因(route cause)の特定や大局観を持った解決策の提案にも寄与すると私は思います。

ヒューマンエラーでもシステムエラーとして捉えることの大切さ


そして、ミスというと、どうしても人的なものが多い(◯◯さんが悪い)というイメージが強いかと思いますが、私はここにも疑問を感じています。

そもそも多くの人は、ミスをしたくてしているわけではありません。そんなことしたら、結果的に自分の首が飛んだり、お給料に跳ね返ったり、不要な残業に繋がったりしますからね。基本的には誰もミスなんてしたくないのです。

だけど多くの場合、咎められるは特定の個人や組織です。◯◯がちゃんとチェックしていないから問題が起こったんだ。◯◯の怠慢だ。そう言い切ってしまえば、言う側・・・は何もしなくて良いのでラクなもんです。

ですが、本当にそうでしょうか?"◯◯がちゃんとチェックできない"のは、本当にその組織のせいなのでしょうか?実はチェック事項が細か過ぎたり、指示が曖昧だったりしないでしょうか?本当にその労働者は十分なトレーニングが受けられていますか?過剰な労働負荷にはなっていないでしょうか?

そこまで見ていくとより真の問題がより見えてきます。実は教育の不十分さにこの問題は端を発していたとか。休みなく働いていたので、チェックの仕組みが機能していなかったとか。

ヒューマンエラーの裏には実はシステムエラーが絡んでいた、なんてことザラにあると思うんです。でもなぜそうしたがらないのか?それは影響範囲が広くなりがちで、最悪の場合その指摘する側にも影響があるから。

「なぜあの人の問題なのに、こちら側も被害を受けなきゃいけないの?」「こっちも改善しないといけないの?」となりがち。だから人のせいにしておきたいと思うのは人間の性なんだと思います。

ですが、それをグッと我慢し、全体最適を考えること、これって大事じゃないですか?って私、思うんですよね。

そうすればある意味みんな救われるし、みんなが平等に痛みを分かち合えるじゃないですか?双方に問題を捉え、痛み分けによりより理想の仕組みを構築する。これこそが一番理想的なトラブルシューティングだと思います。

ミスは起こるもの、それくらいの認識がちょうどいい


ここまでミスについて私の意見をつらつらと書いてきましたが、まぁ一言で言うと、ミスを許さない文化というのが特に日本社会やビジネスシーンには強くあるように思います。

ですが、本来人はミスをするもの、くらいに捉えておけば、大抵のことは想定内になるし、何より他人のミスを許せるようになります。

反対にミスを許さない文化が社会を窮屈にし、ルールを厳格化させ、相互監視社会を作る気がしてならないんですよね。そして結果として人々の幸福度を下げるといった具合。

私、個人的にはこんな社会はうんざりです。もっとミスを許容し、ミスについてみんなで考え、みんなで改善し、みんなでより良くしていける社会にしたいなって、むしろミスを認め合えるようになれれば、もっと生き生きと働けるのにと思うほどです。

ミス。聞くと嫌なことのように聞こえますが、これからも私は、ミスと日々共存しつつ、うまく改善へのきっかけとしていけるよう、これからも仕事をしていきたいです。

今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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