見出し画像

英語を武器にメシを食う | 英語嫌いだった私が想像していなかった未来

「あなたの嫌いな科目は何ですか?」と聞かれ、学生の頃まず真っ先に思い浮かんだのは「英語」だった。

毎日課される英単語の小テスト、音読・和訳を繰り返すだけの授業、日本語とは異なる文法。今思えば重要な学習要素ではあるのだが、当時は「こんなこと繰り返したところでなんのためになる?」「頑張ったところでどうせ自分には英語を話せるようになる日なんてこないんだし・・・」そう思っていた。

理系科目偏重でなんでも理屈で考える癖のある私にとって、この"根性論"とも言える叩き込みの勉強法は、私自身をさらに英語学習から遠ざけた。

英語なんてなければいいのに。

そう感じたのは一度や二度ではなかっただろう。

しかし、そんな私の気持ちとは対照的に私が通う高校では、英語教育に重点が置かれた受験対策が行われていた。「英語を制すものが受験を制す」とも言わんばかりの詰め込み型の宿題とテスト対策。小テストで毎日不合格を取り続けていた私にとっては、当然授業についていけることもなく、日々教師から見放された存在になっていた。

結果として大学受験において英語は足を引っ張る存在となった。英語が全ての原因とは言わないまでも、志望していた大学への切符はもらえず、いわゆるすべりどめとしていた大学に進学することとなった。

英語さえなければ

この時もそんな感情が渦を巻いていた。


大学でも英語は授業の一環としてカリキュラムに組み込まれていた。理系の学部生だった私にとって、英語の単位取得が学位に大きく影響したわけではないが、それでも単位取得のスレスレのラインでなんとか乗り切ったのを覚えている。

しかしそんな私にもこの頃から少しずつ英語の捉え方に対する変化の芽が見え始めていた。つまりは英語を"独学で"学習したいと思うようになってきたのだ。

この頃の私は旅や洋楽に興味を持ちはじめていた。「どこかこの閉塞的な学生生活から、日本という社会から解放されたい」という想いがあったからだろう。そんな私は、自らの足で小さな一歩を踏み出すこととなる。それが当時流行っていた"駅前留学"だった。

スクールカウンセラーさんの"巧妙な"サポートも功を奏して、私の英語力は亀の歩みながらもようやく少しずつ良い方向に流れていくようになった。少人数での40分の英会話レッスンをなんとか乗り切る。そんな時間を週に1~2回繰り返していた。

しかし、どんなにスクールに通い続けても、私の英語力は低空飛行し続けるばかりだった。「英語で何かする」には程遠い状況だ。

大学2年生の夏、私は人生で初となる海外旅行に行くこととなる。スクールが提供していたホームステイプログラム。今思えば仮免ドライバーの初めての公道走行のようなものだ。私が座る運転席の脇には教習官が座ったような、ガチガチにサポートが組まれたパッケージツアーだった。

それにも関わらず、私はこの経験の中で、自分の英語力が想像以上に歯が立たないものであることを思い知らされた。入国ゲートでの英語も全くわからない、マクドナルドでもオーダーを聞き取ってもらえない。戦闘力の低さを存分に痛感させられた。

しかしこの経験は良い出来事として私の心に残されていくこととなった。「海外へまた行きたい!」という想いだけは消え失せることはなく、その後私を突き動かすこととなる。

広々とした家に馬鹿でかいテレビとソファーを置き、裏庭にはバーベキューコンロ。塀のない家のエントランス。広々とした住宅街のストリート。そこに路駐された自家用車。これぞアメリカといった景色が私の心をときめかせたのだ。


社会人になると状況は変化しつつあった。英語どころではなく営業活動に追われる日々を過ごすようになった。アメリカで見た経験は遠い過去の記憶となり、英語学習からも学ぶことからこなすことに焦点が置かれはじめた。頻度も週末1回から月1回、数ヶ月に1回と徐々に下がっていった。

もう一度英語で挑戦してみたい気持ちがある一方、日々の仕事で認められたい想いが交錯した。あと1年、あと1年。そんな想いで英語を忘れ、仕事と向き合っていた。

でもどうしても、20代のうちに最後に1つだけやっておきたいことがあった。それが年間を通した海外での生活だった。留学も考えたが、資金面でも不安がある。選択肢として持ち上がったのがワーキングホリデーだった。

ワーホリは私にとって最後の英語挑戦だった。これで伸びなければ社会人として今まで培った元の鞘(製薬会社の営業職)に戻ろう。そんなふうに思っていた。

ワーホリを決断したのは28歳、挑戦は29歳の時だった。滞在先はカナダを選んだ。あの時アメリカで見た景色が想起されたからだ。

英語力はすっかり衰えていた。約10年ぶりとなる海外で、20歳の頃の甘酸っぱい思い出が頭をよぎった。ブレイクスルーが起きそうな予感は微塵もなかった。しかし、留学という最後のカードを切ったという緊張感だけは心にあった。仕事を辞めて単に海外で1年間ゆっくり過ごしただけではなく、何かしら通用するものを日本に持ち帰らないと後悔するだろうなと。

ワーホリ期間中はとにかく自己投資を惜しまなかった。語学学校、インターンシップ、外国人との交流、海外での仕事経験。自分がこの1年間やってきたのは休暇ホリデーではなく、留学なのだと言えるよう自分自身の行動に意味を持たせた。

ブレイクスルーが起きるきっかけを作ってくれたのは英文法の学習だった。理系脳の私にとっては、とにかく「理屈がある」という前提が大切だった。文法という考え方は、その論理を埋めてくれるのにとても"都合の良い"ツールだったように思う。

文法を理解したことで私の英文読解力は格段に伸びた。それまで読めなかった長い文章がスラスラとまでは言わないまでも、分解して意味を理解できるようになった。英会話のポッドキャストと文法学習の併用で、少しずつではあったが英語が聞ける、話せるようになっていった。

ワーホリ終盤、私は3ヶ月ほどTOEICに特化した語学学校に通うこととなった。この頃から日本に帰った後は英語を使った仕事に挑戦してみたい、そのためにまず面接機会を与えてもらえるだけのチケットを手にしておきたい、そう考えるようになったからだ。

29歳で日本を離れた頃のTOEICスコアは500点を下回っていた。3ヶ月のスクールでの訓練から"攻略法"を学び、スコアはなんとか800点を超えるまでになった。高校当時の英語力を考えると相当な成長だったと思う。

このチケットを持って日本へ帰国したのは30歳。また無一文、無職からの人生がスタートした。


結論から言うと、TOEIC800点は面接のためには有効なチケットとなった。しかしそれがビジネスで通用するレベルを証明するものとはならなかった。自分の英語力をビジネスで通用するものにするためには、スコアではない何か別の要素が必要だ。そう感じた再就職活動だった。なお、これ以降現在に至るまで。TOEICを再度本気で受験したことはない。恐らく今受験しても800点も取れないのではないか?と思う。

ありがたいことに就職先の職場では、今までの私の英語力を少し活用できる機会に恵まれた。バイリンガルが多い職場で日々英語を話す声がどこかから聞こえてくる。そんな環境が適度に私に緊張感を与えてくれた。

職場で私の英語は武器にならなかったものの、私が20代の頃に得たヘルスケア業界での経験や知識は、部門のビジネス成長に大いに貢献した。私がチームにもたらす知識が同僚の英語力と合わさり、ビジネスを成長させていく。この時はじめてビジネスにおける英語の位置付けがわかった。

英語はあくまでもツールである。仕事で英語を活かすには、業界やビジネスに関する広い、あるいは深い経験や知識があってこそ。主従関係で言えば、「主」が経験・知識、「従」が英語となることをこの時明確に感じ取ることができた。

一方で、その「従」である英語をどう自身の中でうまく使いこなせるか。そこで個人の総合力は決まる、そう思った。だから英語力こそ知識や経験を持ったビジネスパーソンこそが最も身につけるべきポータブルスキルなのだと理解した。


私が自分の英語力を本格的に武器にし始めたのは、その次の転職(2014年)からだった。この頃から私の履歴書レジュメは英語になった。外国人の転職エージェントともやり取りをはじめ、面接でも英語のコミュニケーションやプレゼンテーションがあるもの(つまり仕事上で英語力が求められる職種)に応募できるようになった。

転職先の職場でも次第に「彼には通訳は不要。」「英語での仕事を渡しても大丈夫。」といった認識が進むようになった。

そんな中、ある1つの出来事が私の英語熱を再燃させることとなる。シンガポールのポジションへのショートタームアサインメントだ。実は不運にもこのアサインメントは実現しなかった。しかしこの出来事がきっかけで始めたDMM英会話は、その後数年にわたりほぼ毎日受講されることとなった。その結果、私のスピーキング力は大幅に向上することとなった。


2021年11月。今から3年前のちょうど今頃、私は深夜の面接に臨んでいた。人生3回目となる転職の最終面接。相手はイギリスに住む面接官だった。面接は終始穏やかなムードで進み、その2ヶ月後、私は今の会社へ入社を決める。

転職は私に更なるビジネスでの成長機会と英語の向上機会を与えてくれた。日々の活動の3分の1から約半分は、海外の同僚とのコミュニケーションに費やされることとなった。英語でのチャット、ミーティングにも度胸と安定感が生まれ、海外の同僚とのやり取りから学ばせてもらうことが多くなった。

人生とはわからないものだ。

苦手としていたものが今や特技へと変わり、自分自身の成長や原動力にもなっている。

しかし、曲がった見方かもしれないが、もし学生時代から英語が得意だったら案外こうはならなかったんじゃないだろうか?とも感じる。

英語とビジネスでの経験や知識は自転車の両輪だ。どちらかが大きすぎても、また小さすぎても回転速度が上がらない。両者がバランスのよい大きさ、性能を持っていて、それがうまく回せて初めて力が最大化されるものだと。今となってはそう思う。

ビジネス経験を前輪、英語力を後輪に例えると、私の人生はこうだ。

社会人になるまでは、後輪の強化に取り組んだ。

その後社会人となり前輪を鍛えることに専念した。

その後1年間の留学で後輪の再強化。

程よくバランスの取れた前輪と後輪を30代から徐々に温める。

最初は前輪、次に後輪。

前と後ろをうまくバランスを取りながら両者を少しずつ強くしていく、そして満を持してフレーム会社を載せ替えた。これによって走行できるフィールドがチェンジし、更なる加速がつけられるようになった。

計算してやってきたわけではないけれど、今思い返せばビジネスと英語力がうまくバランスをとりつつお互いに良い刺激を与え続けていたのかもしれない。

英語。ここまで私の人生を変えてくれたものはない。しかし今でも思うのは、いったい高校での詰め込み教育とはなんだったのか?ということだ。

受験に勝つことはある側面からはとても大切だ。一方で、受験がもたらす功罪もあるように私は思う。詰め込み一辺倒の英単語学習。英語から日本語への和訳を主とした授業。(和訳が目的ではなく、本質的な意味を理解することが本来の目的だ。その観点から和訳は必ずしも必要か?と今の私は感じている。)これは受験対策にはもちろん近道だ。一方で本来若者が持つべき海外への憧れ、成長へのきっかけとして、このような教育方法は悪影響を及ぼさないものかが気になる。

私は幸いにも留学やオンライン英会話といったテクノロジーに支えられ、独学で英語を勉強することができた。しかし多くの日本人が未だに英語学習を回避し、それを使わない職種の範囲内で活躍しようとするのにはこういった学生時代の経験が影響しているのではないだろうか?

英語はツールであり、本来は楽しんで学習すべきもの。そして自分らしく学習を実践すれば、誰もが使いこなせるようになるものだと。そしてその力は日本人のポテンシャルの高さを証明し、ひいてはこの国の未来を助けるのだと。私はそう信じている。

この記事を読んで、一人でも多くの悩める英語嫌いの学生が自分らしい英語学習の第一歩を踏み出してくれることを願っています。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集