穏やかな人生【数年前のarchive #1】
多くの人は皆、青年期になると「生きる意味」について考え出す。青年期にこれにぶつからなかったものでも、遅かれ早かれこの問いに対して思索を深める。
就職や資格試験など、目の前のタスクをこなしていけばゴールに達し、一定の満足を生じさせるものは「救済」のシステムであると言える。「生きる意味」を見つけられなかったものから余暇を奪い取ってくれる。そして、「生きる意味」を提供してくれる。
余暇とは何か。私たちが追い求めてやまないが、手にすると途端に手放したくなる厄介者である。余暇を手にすると、我々は必ず生きる意味について考え出す。趣味やゲームなどのタスクに耽る余暇は余暇ではない。取り組むタスクがすり替わっただけの繁忙そのものである。
我々現代社会に生きる多くの人間は、余暇を手にすると大いに持て余す。そして、何かしらのタスクを遂行しようとする。趣味の上達?資格試験の勉強?副業?どれも立派なタスクである。これらをやると同時に、余暇は余暇で無くなる。
となると、「人間」について一つの推察が成り立つ。
我々の行動原理はただ一つ、義務に対する従属であると。
その義務は、誰かが課してくれるものと、自分で課すものの二つが存在する。現代社会で言えば、前者は会社員、受験勉強といったものが挙げられ、後者は起業や自発的な読書といったものであろう。もちろん、それらに対する取り組みの姿勢や取り巻く環境によって前者が後者に、後者が前者に転じることもあるだろう。
ここで声高にして言いたいのは、それぞれの義務に優位性は存在しないということだ。一見複雑で、かつ秩序だって見える人間社会だが、この思想に沿って立つと、全てが義務とそれによってもたらされるアウトプットの集合体であると考えられる。そうなると、現代社会に生じている一切の義務に優位性が存在しないと解釈できる。
義務の喪失は虚無感を生み出し、我々に義務を欲させる。勉学、恋愛、金稼ぎ、昇進、趣味、子育て、自分探し、哲学、ボランティア。取り組むべき対象はなんでも良い。とにかく、自身を納得させられる理屈を持ち合わせた義務が必要なのだ。
現代ではFire(Financial Independence, Retire Early)だの自己実現などといった、誰かが課す義務から逃れることが渇望の眼差しを向けられるが、本当にそうだろうか。
皆例に漏れず、真隣に存在する間暇から逃れようとするだけだというのに。
確かに、自分自身で義務を生成し、それを課す行為は称賛されるべきことであろう。しかし、偉くはない。偉くはないし、優れてもいない。
同様に、誰かが生成した義務に従っているだけのものも、称賛されて然るべき存在である。
人間はただひたすら、何かの義務に従って生きるだけの存在である。そう言われると、空虚で、悲しい。しかし、人間の接するあらゆるシステムは元を辿れば誰かの思索の賜物か、工夫の産物である。そんな人間社会の中で、揺るがない人間としての存在意義があるとする方が不自然ではないだろうか。
私はこの「義務」の存在と、それぞれの義務の間に優位性が存在しないことを前提とすることで、現代社会に一筋の光明を見て取ることができる。
誰もが何かしらの義務に従属することを求める。古今東西、老若男女、一見偉く見える人、一見貧相に見える人、その誰もが、である。
だからこそ、皆が各々の生き方を尊重し、称賛し、時にはくっつき、時には離れ、のらりくらりと生きていく。そんな人生が、「幸福」であるかはさておき、「穏やか」な生涯であると言えるのではないだろうか。
余談-対話の価値
自分の「生きる意味」を探す方法として、有効かもしれない手法を紹介したい。それは、自身の中にある確固たる価値観、自分の中では「事実」と読んでも差し支えないほど確立している価値観を探すことである。そのためには、自身の持つあらゆる常識に疑いの眼差しを向けなくてはならない。
その点において、対話を繰り返し、多様なバックグラウンドを持つ人との思索は大いなる意味を持つ。価値観の相違に触れることで、自身の価値観の輪郭をはっきりと浮かび上がらせることができるからだ。
(書物に触れることも有効であるが、答え探しにならないように気をつけなくてはならない。あくまでも、価値観の相違に触れることが主目的である)
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