『正三角関係』 観劇記録
野田地図 新作発表 ロンドン公演も予定
出演:松本潤、長澤まさみ、永山瑛太 ......
チケット争奪戦も納得の発表。
初日の公演を観劇しに行ったが、当日券にチャレンジした方は500人を超えていた模様。
そういった理由あってか19時開演予定だったところ、少し時間が過ぎた頃に開幕し21時半手前に終幕した。
運良く手に入ったチケットは後ろから3列目の席。『兎、波を走る』を観劇した時が前から2列目だったことを思い出すと、先着抽選の取り扱いは範囲がかなり広い気がする。前回、床に映る模様が見えなかったことなどを考えると、後ろは後ろで舞台全体を観るには良い席だった。
初めての初日観劇
先日は初めて大千穐楽の観劇をして、今回が初めての初日の観劇。予測はしていたけれど、初日って舞台の中でも特にナマモノ感が強く感じた。
率直に言うと明らかにわかるミスが複数あった。それを良いと褒め称えることはしないけれど、この初日の雰囲気は嫌いじゃない。
3兄弟が舞台上で三角を描きながら動くシーンで1人動き損ねていたのをさりげなく教えていたり、
時間の波を泳ぐ場面で波を表現するテープが何度やっても上手く貼り付かないのを笑ってやり過ごし、
助詞を間違えた台詞は言い直したりと他にもミスはあったけれど、臨機応変に対応していくさまを楽しめるのは舞台ならではだと思う。
『カムフロムアウェイ』のインタビューを追ってた時に「2日目は張り詰めていた緊張がほどけてミスをしやすい」といったニュアンスの発言があった気がするが、今回観劇した『正三角関係』は前日がゲネプロ。ある意味、初日ではあるけれど2日目の感覚になってしまっていたのかなとも考える。
ストーリー構成/あらすじ
前作の『兎、波を走る』は "現実" と "妄想するしかない国" と"もう、そうするしかない国" の現在と過去を行き来する複雑な設定となっているのに対して、今作は更に場面設定(裁判所、唐松家、ウワサスキー夫人宅、チンチン電車で向かうグルーシェニカのいる歓楽街、生方莉奈の家 等々)が増え、あらゆる場面で過去と現在を行き来し、なおかつ現在となる位置が移り変わる速度が速く、"誤解を促す単語" をあえて利用してきたりと更に複雑な構成となっている。可能ならば野田さんから解説を受けたいくらい。
残念ながらそれは叶わないため、ざっくりストーリーを振り返りつつ、自己解釈と感想を交えながら記していく。
※まだ観劇していない方はネタバレを含んでしまっているため、観劇後にお読みいただけますと幸いです。
◆ ◆ ◆
序盤
花火師の家(唐松家)にそれぞれ違う母親から産まれた兄弟について紹介がある。
長男の富太郎(松本潤)は花火師、次男の威蕃は物理学者、三男の在良は聖職者(を目指す教会のご飯係)だ。
そして地面に落ちた赤い花びらについて舞台上に三角を描くようにして3人が正面を立ち替わり、それぞれの視点で話を始める。
富太郎は空に上がった勝利の祝い花火を大勢と共に空を見上げる情景が描かれる。富太郎は在良に皆が笑顔で空を見上げることが出来るような花火師になると話す。このシーンがあることでラストの印象をより強めてくれた。
威蕃は必死になってノートに数式を書き連ねていき、それがリアルタイムに上方から撮られた映像がバックスクリーンに投影される演出があった。『兎、波を走る』の時は恐らく録画したものを途中から使っていたけれど、今回は多分だけど全てリアルタイムに映していたように思う。
その側で難しいことは苦手な在良は眠くなって寝てしまい、黙示録の夢を見ている。黙示録の夢というのはよくわからなかったけれど、在良が「数学のxでさえ眠くなっちゃうから、最近はTwitterもダメになってしまった」はつい笑ってしまった。
数式に夢中になっている威蕃の裏で踊る量子は分裂反応や融合反応を表すような弾けた動きが印象的だった。
在良が作る最初の晩餐のシーンはとても美しかった。物語にはあまり影響していなかったように思うが、レオナルド・ダ・ヴィンチの描く『最後の晩餐』そっくりに配置された演者たちと、教会に設置されているのを表現していただろう十字架に架けられたイエス・キリストの表現が大変素晴らしかった。1人1人の細かい手の位置や身体の角度など、この部分の稽古にそれなりの時間を割いたのではなかろうか。
下記の写真はそのシーンの前後に当たる部分。後ろに薄らイエス・キリストの姿も見える。
富太郎は父親である兵頭(竹中直人)を殺害した疑いで裁判にかけられる。裁判に出頭した富太郎は「元花火師。今は花火を上げちゃいけないんだ。火薬まで取り上げられて。」「仕事をくれませんか?裁判長でいいや。」とひねくれている。
証言に立つ予定だったロシア領事館のウワサスキー夫人(池谷のぶえ)は引越しのため出廷せず、カセットテープで登場。そして何者なのかがよくわからない墨田麝香(森田真和)は昨日急死したとわかる。
裁判の途中では空襲警報が何度と鳴り響き、生牡蠣裁判長がお腹を壊してるのもあって休廷を繰り返す。
盟神探湯検事(竹中直人)が集めた証言や過去を振り返る中で富太郎と父親が1人の女性グルーシェニカ(長澤まさみ)を愛していたことがわかる。
しかし、富太郎の語るグルーシェニカは女性の話のようで火薬の話だったり、火薬かと思いきや女性の話になっていたりと、あえて誤解させるような形で話は進んでいく。
YouTubeでは序盤の大事なところを沢山切り取ってくれているから、観劇前に観ておくと理解を深めやすい気がする。
冒頭〜0:13「仕事をくれませんか?」の一言が、のちに幸せとは真逆の最悪な仕事に繋がるから辛い。
1:21〜1:33「あの女のためになら誠実な人間になろうとさえ思っていた。あの男が俺から盗み取ろうとした女です。」と言いながら花火筒に火薬を詰めるのを見ると、ここで出てくる女性は火薬のことを言ってるように思われる。
9:20〜9:44 単語の意味がかなり入り乱れた会話劇になっており、このよくわからなくしてしまう感じが野田地図ぽい気がする。
10:00〜始まるスローモーション親子喧嘩もとても良かった。親子喧嘩と言えど富太郎が一方的にファイトしていた訳だけど、速度を落とすことで殴り殴られるさまがダイナミックになり、見応えが出ることを知った。
中盤
空襲警報が鳴り渡っていた時点で戦争の雰囲気は漂っていたが、ウワサスキー夫人が明るく語る言葉で更にきな臭くなっていく。この明るいのに、きな臭くなる感じがゾクゾクして惹きつけられた。
ウワサスキー夫人は最高だったけど、途中に出てくるロシア人の付け鼻は差別的表現に感じてしまったため、出来ることなら他の表現で観れたらと思う。
グルーシェニカの登場シーンは在良が舞台上に上がっているまま出てくる。客席に背を向けているシーンが長いことに違和感を覚えたけれど、まさか入れ替わっているとは……。なんとなく『兎、波を走る』ですり替わっていた薬漬けアリスを思い出す。
その後の長澤まさみさん、何度もグルーシェニカと在良の役を行き来して早いと3秒くらいで変わっていたから大変な役どころ。物理的にも大変だろうし、役柄としても性別も性格も違うから、役の切り替えをミスしないようにするのは緊張したと思う。
この女性であるグルーシェニカを身請けしようとしていたのが兵頭。必要な金銭を工面するために、国に奪われなかった火薬 "グルーシェニカ(好きな女性の名前を命名)" を売る。富太郎は布で作られたチンチン電車に乗ってグルーシェニカに会いに行こうするも、なかなか会えず生方莉奈(村岡希美)と取引をする。この生方莉奈、肝が座っていて格好良い。ただグルーシェニカのが一枚上手で在良も生方莉奈も手玉に取られてる感じがした。このあたりの時系列がよくわからなくなってしまったため解説が欲しいところ。
裁判の合間で富太郎は怪しい所に連れていかれる。そこで本作の根幹に触れることになる。威蕃の紹介で富太郎は爆弾を作るかどうかを迫られることになるが、1人の父親を殺した場合は尊属殺人罪に問われるのに対し、大勢を殺すことになる爆弾を作ることは罪に問われないことに苦悩する。
在良も威蕃も富太郎のために動くが報われない。
終盤
証言や弁論、ましてや事実と関係無しに判決がくだることになる。有罪となった富太郎は長崎から逃げることになるが、その時長崎に原爆が落ちる。
客席に刺す光の眩しさは明らかに爆発による光を意識されたものだったように思う。その後の死の灰の演出は恐怖を内包した美しさだった。
半透明の柔らかな質感の布幕がゆっくりと時間をかけて落ちていき、静かにとても静かに役者の上に被さっていった。その反面、BGMはかなり大きめの音量で鳴っていて、うるさく思うほどだった。
布幕が落ちる速度の調整はどんな仕組みになっていたのかわからないが、もしかしたら送風機などを使っていたのではと推測する。だからこそ大きな音で送風機の音を隠していたのではと考えたけれど、送風機じゃなかったとしてもこのギャップは凄く良かったように思う。静の演出と騒々しいほどのBGMが余計なものを取っ払ってくれる気がした。かなり矛盾しているけれど "うるさい静寂" という相反するものを同時に感じることが出来た。
最後、長崎から逃げていたお陰で原爆に巻き込まれず、生き残った富太郎が出てくる。絶望した表情で1人空を見上げて、在良と話していた時と同じ希望の言葉を紡ぐ。
感想・考察
今作は『カラマーゾフの兄弟』をモチーフに作られた舞台とのことだったが「ネットであらすじを読んだりアマゾンで漫画を買って読んだりして、わかった気になって観にくるのが、心に最も危険」という野田さんの注意を受けて、全くといって良いほど知らない状態で観劇した。
ついで言うと本作で野田地図の観劇は2作目だけど、野田さんの作る舞台は理解できなくても問答無用で自分の世界に連れて行く力がある気がする。
そして、今回は「長崎原爆」と「どこからが罪か」といった、普段は深く考えないことを考える機会を与えてくれた。観劇して私が感じ取ったテーマはこの2つだけど、もしかしたら人によっては違うかもしれない。
原作では誰が父親を殺したのかは明らかにしていないらしいが、本作では犯人は墨田麝香だと思われるような話作りとなっていた。(明示はしていない)
富太郎は父親に対する殺意を持っていたが実行には移さなかった。しかし殺意を持ってしまっていたことについては罪の意識を持っていたように思う。
そして富太郎は皆が笑顔で空を見上げられるように花火を作りたかったが、意図せず(殺意なく)大量殺人兵器を作ることを命じられる。富太郎は1人の殺人容疑で裁判に掛けられたが、大量殺人兵器作りの容疑で裁判に掛けられることはない。
それとは別に盟神探湯検事の立ち回りの難しさにも目を向ける。検事の仕事は被告の有罪を立証することであるが、被告を弁護する役割を担う都会出身の不知火弁護士に何度かごまをすっている。その理由を考えてみると、盟神探湯検事が被告の有罪を立証するために集めたはずの証言が富太郎の有罪の証拠はさておき、近い将来に戦争の火蓋が切られるだろう未来予想図と富太郎が戦争のキーマンになるかもしれないという不確定の事実があったからだと考える。そう考えると裁判の勝ち負けなんかよりも、これから始まる戦禍を生き抜くために行動するのは当たり前だと思う。
この原作に無いオリジナルキャラクターがいるせいで、裁判が引っ掻き回されて観客も翻弄された気がするから、野田さんとしてはこれこそ「してやったり」なのかもしれない。
富太郎は爆弾を作ることを拒否したから有罪(尊属殺人のため死刑か無期懲役)になったと推測すると、自分1人の命で大勢の命が死なずに済むトロッコ問題に似た状況だったと考えられる。それなのに他国の爆弾で自分の家族を含む大勢の命が奪われた結末を見てしまうと居た堪れない。しかし、富太郎が爆弾作りに協力したからといって、それが抑止力として働くかは未知数であり、更なる被害を生む恐れがある。1945年8月9日に長崎に原子爆弾が落とされてから約80年が経つが、武器や兵器、戦争も紛争も無い世界になることを強く願う。
言葉遊びと小ネタ
終わりに本作に散りばめられた言葉遊びや小ネタについて記載する。今回は原作に倣っての差し替え名称がいくつもあった。どれも微妙な似せ具合。
その他、舞台に詰め込んでいたと思われたものや印象に残ったことは以下の通り。
・赤字国債
・つみたてNISA
・論点のすり替え:今**の話してました?
・適切なタイミングで使われていた教会音楽
(『主よみもとに近づかん』『血潮したたる』)
・尊属殺人罪(日本は1995年に廃止)
・1918年(ロシア革命)
・日露戦争(1904年2月6日-1905年9月5日)
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