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答えがないのではなく、すべてが答えになる
フィンランドでの大学院生活の中で、ChatGPTの威力と恩恵を毎日のように感じています。英語のエッセイから専門的なリサーチ、日常的な調べ事まで瞬時に「答え」を出してくれます。もちろん、授業で出される課題は「答え」がないので自分で考える必要はありますし、回答が間違っている場合もあるので自分で確認、検証する必要はあります。とはいえChatGPTがない生活がもう考えられなくなりました。あらゆる疑問に対する答えを出すことがこれほどまでに価値がなくなった今、私たちは何を価値として考えていけばいいのか。そんな話もいろいろニュースや記事で目にしますが、そもそもの前提として答えを探そうとしている時点で何かが違うような気がしています。今回は、その「答え」について自分の考えをまとめたいと思います。
1. 答えを出すことに価値があると思っていた
幼少期から絵を描くのが好きでした。小学校で通っていた絵の教室では石膏をデッサンするのが得意で、小学校の夏休みの絵の課題では先生にお願いをしてあらゆるコンテストに応募して10個以上の賞をもらい、家ではひたすら新しいポケモンやデジモン(懐かしい)を考えて自由帳に描く。そんな、とにかく絵を描くことに夢中な小学生でした。しかし、中学校になった途端にテストが始まり、学力の順位がつけられるようになりました。幸い内申点が高かったため、県立の進学校に入学できたのですが、高校では大学受験のために役に立たない美術は真っ先に不要になり、少しでも良い大学に合格するためにひたすら受験科目の勉強です。受験校を選択する際に、幼少期の体験が残っていたことから大学は美術系に近い理系のデザインの学部に入学できたものの、「問題には答えがある」「答えを迅速かつ正確に出すことに価値がある」「価値があるのは役に立つこと」という教育を叩き込まれてきたため、そのモヤモヤがずっと続きました。頭で分かっていながらも、何かが違う、というそんな違和感です。新入社員の頃、大学5年生のような「問題を出して」と言わんばかりの姿勢だった感覚があったのも確かです。
そんなモヤモヤの状況に一筋の光を見つけたのが2017年のこと。山口周氏の「世界のエリートはなぜ『美意識』を鍛えるのか」に出会った時でした。久しぶりに「これだ!」と思いました。その本の主張の中に「役に立つから意味があるへ」というフレーズがあり、こういう言葉が欲しかった!と思ったのを今でも覚えています。仕事はもちろん、誰かのために役立つものだからこそ報酬をいただけます。ただ消費者側に立つと、役に立つものだけが必ずしも良いとは限らない、ということに多くの人が気づいていたタイミングでもありました。
「より便利に、より安全に、より安く」という誰もが疑わない価値が「役に立つ」につながる。しかし、それは健全な競争を生む一方で、消費者側が望まない便利さを目指してしまうような無意味な競争も生む側面もある。答えは一つだった「役に立つ」世界から、人によって答えが異なる「意味がある」世界は、私にとって新鮮でした。
2. 「答え」とは何か? ーそれしか ないわけないでしょうー
「りんごかもしれない」で有名な絵本作家のヨシタケシンスケさんが好きです。絵のタッチも好きなのですが、中に込められているメッセージが大人にも考えさせられる深いことが多いため、購入して子供たちとよく読んでいました。その中の一つに「それしかないわけないでしょう」という作品があります。読まれた方も多いと思いますが、公式にショートビデオが公開されていたので合わせて載せておきます。
この本の説明を読むと「考え方ひとつで楽しい未来がたくさん見えてくるはず」という解説が書いてあります。確かに、一般的にこれからの未来が明るいと思っている人が少ない状況では響く言葉です。ただ、個人的にはもう少し違うメッセージが込められているのではないか、と思っています。それは「答え」に縛られている呪縛を解くこと、なのではないでしょうか。私が好きなのはこのページ。
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大人はよく「コレとコレ、どっちにする?」とかいう。
ここでいう「大人」は「社会や経済」のこと、「コレとコレ、どっちにする?」は「答えがあるよ」ということが示唆されているように思えます。つまり、「社会や経済には答えがあるよ」とまるでその選択肢以外は存在しないかのように子供に問いを投げかけている、という(恐ろしい)場面です。
この構図には、実際の社会が作り出している無言の圧力と似たものを感じます。もちろん、立場や状況によって選択の範囲が限られることは多く、必ずしもこの考え方が間違っていると思いませんし、毎回の選択でこのことを考えていたら大変です。ただ、自分にとって大きな選択をするときに、一度立ち止まって考えてみても良いのではないかと思います。客観的な基準で導き出された「答え」だと思っているものが、本当に自分にとっての「答え」なのか。
物語の中では、女の子が壁の後ろにあるモノを見つけて「あたらしいものをじぶんでみつけちゃえばいいのよ!」と言って、大人を悩ませます。「選択肢の中には必ず答えがある、そこから選ばなければいけない」という無言の圧力から、解き放たれる瞬間です。同時にこのやり取りから「答えを求めて必要以上に不安になることはない」というメッセージも伝わってきます。結局、「答え」とは他者から与えられるものではなく、自分自身で作り出すものなのだ、ということに改めて気づかされます。
3. 答えがないのではなく、すべてが答えになる
最近は当たり前すぎて聞かなくなった?VUCA(※)という言葉があります。
一時期は「答えのない不透明な時代」を象徴するような言葉として使われていました。ただ、個人的に注意しなければならないと思うのは、VUCAという言葉の主語が「社会」や「経済」であることです。つまり「仕事」に関すること。特に「自分の人生=仕事」と考える傾向が強い世代においては、この言葉をそのまま受け取り、自分の人生に当てはめてしまい、答えがないこと不安を感じている人を何人も見てきました。「答えのない時代」と言われると、「答えはどこにあるのか?」と不安に駆られ、流行やすぐに役立つ情報、高額なスキルや仕事に飛びついてしまう。自分の存在意義を確かめたいという気持ちから来ている行動かもしれませんが、変化のスピードがこれほど速い今、この負のループは無限に続いてしまうのではないかと思います。
改めて大切だと感じるのは「自分で問いを立て(アート)、自分で答えを出す(デザイン)」こと。フィンランドで多くの人々と出会う中で、この考え方を自然に自分の人生に取り入れ、行動している人たちをたくさん見てきました。「自分の人生やキャリアは自分でデザインする」という当たり前のことが難しく感じられるのは、「答え」というものの捉え方が違うからかもしれません。
「答えがない」と感じるのは、自分で問いを立てていない、何かに疑問を思っていない、好奇心がない、ということにもなります。大事なのは「答えが何か」というのを探すのではなく、「自分は結局何が好きなのか?」「何がしたいのか?」を考えること。それは一人ひとり違うもので、社会も少しずつその多様性を受け入れるようになってきています。だからこそ「答えがないのではなく、すべてが答えになる」のだと思います。さらに、その答えを自分らしいものにするための手段としてのテクノロジーが驚くほど手軽に利用できる時代になりました。そんな素晴らしい時代に、自分が生きていることを改めて感じながら、今日も私はChatGPTを使います。
※VUCA:Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)の頭文字をとった現代社会を表す言葉
最後まで読んでいただきありがとうございました!
(カバー写真:すべての場所が美術館になるフィンランドの美しい雪景色)