誰かと住まう、変わりゆく家族の形と他者との関わり方。
66の母と会うと、このところ「断捨離」と「おひとりさま」の話ばかり。
もっぱらの母の悩みは「一人暮らしの気楽さ」と「一人でしか生きられない劣等感」がテーマだ。
母の生きた時代は、核家族化と夫婦ご一緒、がしあわせの形、という強烈な社会の刷り込みがあったから、そこに染まれない母は随分気苦労あったことだろう。
かくいう娘も、気楽なおひとりさまで、のんびり過ごす休日、淹れたてのコーヒーが何よりもの幸せなもんだから、困ったものである。
母は先日上野千鶴子先生の出ていた何某の番組を観たそうで、随分と「女の生き方」に考えを巡らせているようだった。
これからの残りの人生を、どのように過ごすか模索する母は、この歳にしてモラトリアムの真っ只中にいるようで、元気なものだと思いながらランチ後のジェラートを私は頬張って聴いていた。
母の選択肢は、いつも二つだ。高齢者施設か、一人で暮らし続けるか。
正直、悩んだところでなるようにしかならないんだから、と娘としては思うのだが、本人にとっては深刻な問題なのである。
とはいえ、私も一緒に暮らす人の重要性は理解している。
先日「マダムたちのルームシェア」という漫画を目にした。
https://www.lettuceclub.net/news/serial/12760/
妙齢のマダムが3人でルームシェアしている、という設定なのだが、それは私にとっては新しい発想だった。
「そっか、一人暮らし以外は同棲か結婚、って時代じゃないんだ」と。
気がついたら私自身も、随分「これが家族」に染められていたもんだ。
都内ではルームシェア専用のアパートも作られるようになっていて。
誰かと暮らす、というハードルは、これからどんどん下がるのかもしれない。
個人的には、同世代で集うばかりじゃなくて、多世代とルームシェアを楽しみたい。楽しむ大前提にあるのは、健康的な境界線を保つだけの自分自身の安定と、いつまでも他者に寛容であることであろう。
母としては、「寂しいけれど他人とは住めない」そうで。
「どっちにするかは自分で決めて、自分で決めたことには愚痴を言わないことじゃない?」とどこまでも娘は冷たく。
陽射しと参道で飲む珈琲はどこまでも温かいのでありました。