人生の半分以上を過ごした君へ 前半
これは、子どもの頃に一緒だった犬の話です。
時系列そのままにノンフィクションなので、少し長いですが、よろしければお付き合いください。
1.出会い
その子が家にやって来たのは、私が小学六年生の夏でした。
――子犬がたくさん産まれたから、もらい手を探している。
そんな話が舞い込んできて、母が運転する車で下の兄弟たちと一緒に引き取りに向かいました。
車内でどんな話をしたのかは覚えていないのに、車がしばらく山道を進んでいた光景はよく覚えています。
山をひとつ越えた先で辿り着いたのは大きな家でした。
車を降りて坂道を上がる途中に、パトカーが停まっていたことがとても印象に残っています。パトカーがあったので交番も近くにあったのかもしれませんが、当時の私はそれどころではありませんでした。
何せ、どんな子が待っているのか。そればかり気にしていたからです。
家の扉をくぐって通されたリビングには、白い母犬と一匹の子犬がいました。
たくさんいた他の兄弟たちは、もう引き取り手が決まったらしく、その子だけが残っていました。
その子は、ほかの兄弟たちとはあまり似ていないと言われました。
折れた耳。真っ白の身体に、ちょっとだけ茶色い部分がある。耳の一部と背中の一部、そして尻尾の先が薄く茶色混ざり。
真っ白じゃないから残っちゃったんだね――なんて、言われていたことを覚えています。
眺めている私の足元で、ふわふわとした毛並みのその子が、ころんころんと転がるように走っていました。
そんな姿を見ているだけでも面白くて嬉しくて、私はずっとその子の動きを眺めていました。
手を叩いて呼ぶと、嬉しそうに尻尾を振って駆け寄ってくれた。
その姿を、今でもはっきり覚えいます。
思えば、その時からその子は人間がとても好きだったのかもしれません。
帰り道。車の後部座席。
座席の上ではしゃいで暴れていたその子を膝に乗せてあげると、とても大人しくなりました。
疲れているのかな。不安になっているのかな。
少しだけ鼻を鳴らしていたから、不安だったのかもしれない。
知らない場所へ行くのだ。お母さんと離れて。
きっと、さびしかったのでしょう。
その時の私は、この子が家に来るんだ!ということが、ただただ嬉しくて、その茶色混じりの白い毛を何度も撫でていました。
真っ白じゃないなんて、そんなのちっとも気にならない。
本当に、ふわふわとした可愛らしい子だったから。
家についたとき、まずは寝る場所を作りました。
新品はよくない。人の匂いがある方がいいと言われて、まだよちよち歩きの妹が自分のバスタオルを引っ張り出してきたことを覚えています。
すぐにはトイレを覚えてくれない。
なのに、おやつの場所はすぐにバレてしまう。
そんな子でした。
あの頃の小さな妹や弟たちと、転がるように遊んでいた姿をよく覚えている。あの頃、みんな、とても小さかった。
喧嘩をしたとき。
親に叱られたとき。
嫌なことがあったとき。
泣きながら廊下を歩く私の後ろを、その子は小さな身体で追いかけてきて、ずっと追いかけてくれて傍にいてくれました。
その子を抱き締めたら、悲しい気持ちはどこかに行った。
きっと、君が食べてくれたんだと思う。君はとても、とても食いしん坊だったから。
階段の下で、鳴いて呼んできたこともあった。
登りたいのかと思って抱き上げても尻尾を振るだけで階段を上がる様子はなくて、階段に下ろしてみてもこちらを見て尻尾を振るばかり。上に行こうなんて気配は全くない。
――私を探していたのかな?
勝手にそう思っただけなのに、それでも何だか妙に嬉しくなりました。
少し大きくなった頃、門からすぐには飛び出せないように仕切りを入れて、庭一面がその子の遊び場になりました。
みんなが学校に行こうと玄関から出る度に、仕切りの柵を乗り越えようとしていたのも覚えています。
後ろ足で立って、前足を柵に置いて、ぶんぶんと尻尾を振っていた。一緒に行きたかったのかもしれない。
そんなお見送りは、私がランドセルを背負わなくなっても毎日のように続きました。
2.事件
私が中学校に入って最初の夏休み、終業式から三日目のこと。
家が火事になったことがありました。
あのとき、門を開け放って柵を倒してその子を外に出して妹たちを連れて道路に出て、そうやって人間がわたわたしているのに、近所の人に連れられたその子いつも通りに元気よく駆け寄ってきました。
本当に緊張感のない子だなぁ、というか。
人間が慌てているのも、遊びのひとつくらいにしか思ってなさそうな、そんな様子だった。
サイレンを鳴らした消防車が何台も来て、続けて救急車、それから少し遅れてパトカーが到着しました。周囲は物々しい雰囲気で、急にたくさんの音に囲まれたその子は当時の私よりも、もっと不安だったのかもしれません。
それなのに、その子は大人しくしたままで近所の人に連れて行かれた。
あのとき、何を思ったのだろう。何を感じていただろう。あの子もきっと、心細かっただろうと思う。
家が燃えてしまったあと、私たちは母方の祖父母宅へと一時避難しました。でも、祖父母の家には猫がいるから――と、その子は近所のおうちに預けることに。
あの子が家に来てから、初めて離れ離れになった日でした。
しばらく近所の人にお世話になっていた君は、毎晩のように大声で鳴いて仕方がないと言われていた。とてもさびしかったんだと思う。
実はそのとき、あの子を手放そうかという話がありました。
まだしばらく一緒にいられないから、よその人にお願いしようかと母に言われて、でも、そうしようとは言えませんでした。
兄弟で決めたわけではありませんでしたが、母はひとりずつに聞いていて、きっとみんなの意見も同じだったのでしょう。何も決まらないまま、話はうやむやになりました。
それから、ほどなくして、祖父が車庫の奥に犬用のスペースを作ってくれました。また一緒に暮らせる。でも、私たちが学校に行っている間は、ずっと鳴いていたそうです。
あのとき、あの子が何を思っていたのか。
言葉がわかるのなら知りたいと、今でも思っています。
3.迷子
ある日のこと。学校から帰ると、あの子はいなくなっていました。祖父の話によると、気が付いた時には既にいなかったそうです。
近所を探し回ったけど、やっぱりいない。
お散歩に行ったことのある公園も一緒に走った川辺の道も、兄弟で手分けをして探したけど、姿は見えない。
もしかしたら、前の家に戻ってしまったのかもしれない――母はそう言いました。
しかし、前の家から祖父母の家までは車で30分は掛かります。私たち兄弟はどうすればいいのか。途方に暮れました。
しかし、次の日になって警察から連絡が来ました。
首輪につけていたプレートから、連絡先が判明したとのこと。
あの子はコンビニにいて、吠えもせずご機嫌だったそうです。店員さんも「何もしないからどうしようかと思ったけど、お客さんがいるから」と通報した、と。
これは完全に親バカなのですが、本当に人間大好きのいい子だなぁと思いました。
そこにいたら、誰かが来てくれると思ったのかもしれない。
一緒にそのコンビニに入ったことはないけど、散歩中に前を通ったことくらいはある。
警察に連れて行かれたあとは、とても元気がなかったそうです。
あんなにも食いしん坊なのに食欲がなくて、ご飯どころかお水にも口をつけなかった、と。
初めて会った日のように、母が運転する車に乗って迎えに行きました。
その子が保護されていたのは、火事になった家の近くにある警察署。
ばかだなぁ、もうあのおうちはないんだよ。
ばかだなぁ、おばかさんだなぁ。
そんな話をしながら警察署に入って、案内されながら奥に進んでいくと、ドックフードとお水の入ったお皿の前にその子はいました。
垂れ耳を更に下げて、尻尾もしょんぼりとお腹の下。
そんな子が、こちらの姿に気づいて舌を出して駆け寄って来た様子は、まるでぱぁっと光が差したみたいだった。
さっきまでは、あんなにも元気がなかったのに。
警察の人と母が話をしている間、私は外のベンチでその子と待っていました。足元に座るその子は、やっぱり鳴くでもなければ吠えるでもない。
持って来たリードをつけてはいたけど、君は私の傍から離れなかった。コンビニでも、きっと、とても大人しかったのだろう。
いい子だったねと撫でておやつをあげると、すぐさま完食された。
食いしん坊のくせに、ガマンしていたのか。それとも、緊張していたのか。お腹が減っていたのでしょう。小袋に入ったジャーキーは、すぐになくなってしまいました。
どこに行こうとしたのでしょう。どこに帰ろうとしたのでしょう。
もしかして、学校に行った私たちを探そうとしたのでしょうか。
あの子の言葉がわかるのなら、
私には聞きたいことが本当にたくさんあります。
4.平穏
火事から半年が過ぎた頃、新しい家に引っ越すことになりました。
前の家よりも庭は少し狭くなってしまいましたが、家の裏側にある庭は、すべてその子のものです。初日から我が物顔で庭を駆け回っていました。
あの子には言いたいことがたくさんあります。
うまく言葉にできないので、あの子に向けたい言葉を書いていきます。
君は、お風呂が苦手だった。
君をシャンプーすると、いつもこっちが泡まみれ。
水で流している間も容赦なく身体を揺らしてくる。
おかげで、ずっとずぶ濡れ。
君は、猫が苦手だった。
庭に入り込んだ野良猫に驚いて、
たすけてぇ~と言わんばかりに鳴いていた姿をよく覚えている。
君はタヌキには、これでもかと吠えていた。
びっくりしたのかな。怖かったのかな。
私が庭に出ると、けろっと駆け寄って来た。
妹が君とお散歩ができるようになった初日。
君は、リードごと走って逃げた。
追いかけても、止まりもしない。
でも、泣き真似をして背中を向けると、すぐに駆け寄って来た。
――なんだよ、もう。いい子なのか、おばかさんなのか、わかんないよ。
泣き真似をすると、すぐに捕獲できる。
だから、君の脱走なんて遊びのひとつだったんだろうね。
捕まえられても嫌がりもしない。
だったら、お散歩中に妹から逃げないであげてよ。
なんて、君はちっとも分かってくれない。
君は車が好きだったし、知らない場所も平気だったし、
知らない人にもぶんぶんと元気に尻尾を振った。
人懐っこいわんちゃんですね。なんて、よく言われた。
カットしてもらうときは、車でお迎えが来てもらっていました。
最初は大喜びで車に乗ったくせに、みんなが行かないとわかったら悲しそうにしょげていて、でも、ご機嫌で帰ってくる子でした。
垂れ耳にリボンまでつけてもらって、男の子なのに可愛くされちゃって、もう。
何度ワゴンのお迎えが来たって、ちっとも警戒なんてしない。そして、いつも連れて行かれるときはクンクン鳴いていました。
いやいや、そろそろ慣れようよ。
でも、そういうところも好きでした。
庭で木の剪定をしていると、いつでも近付いて来た。
危ないからだめだよと言っても、まるで知らん顔。
君はすぐに寄って来る。
仕切りを置いて作業をしても、ずっと仕切り柵の向こうにいた。
待っていたのかな。何をしているのか聞きたかったのかな。
毎年毎年、初夏の剪定作業には君がいた。
君は、トイレはすぐに覚えなかったけど、
お手とお座りはすぐに覚えた。
だけど、おやつを取るのは下手だった。
どうして、いつも鼻先で飛ばしてしまうの。
そして、飛ばしたあとに、どうしてキラキラした目でこっちを見ているの。取りに行ってよー。
普段は「待て」と言ってもできないのに、おやつとご飯のときはできるんだ。わざとやらなかったんだろ。知ってるんだから。
君は、ボール遊びも好きだった。
投げると追いかけて、勝手に向こうで遊んでいた。
いや、だから、そこは持ってきてよ。
結局はこっちから取りに行って、ボール遊びを続ける形になる。
ふと思い立って、ブーメランも追加してみた。
ブーメランは、ちゃんと持ってくる。おいー、わかってやってるだろ。
君は、とてもマイペースだった。
家の近くにあった公園のすべり台を、君は覚えているのかな。
反対側から登れるのに、下りられなくて鳴いていた。
勝手に登ってそりゃないよ。
呼ばれてすぐに下ろしてあげると、また登る。
構ってちゃんかよ。いや、おばかさんなのかな。
そんなところが、可愛かった。
お風呂という単語だけで逃げ出した。
待って待って。君のお風呂じゃないよ。
本当は人間の言葉、完全に理解してるんじゃないの。
君の反応は、いつも面白い。
本当に本当に、大好きでした。
毛がたくさん抜けて、もふもふしちゃうところも。
食いしん坊で食い意地が張っているところも。
知らない人にでも構ってもらおうとする人間ラブなところも。
でも、出会いがあったら別れがあります。
動物は、私よりも早く虹の橋を渡ってしまうものです。
後半は介護の話も入りますので、苦手な方はここでおしまいにしてくださいね。