未来をつくる言葉を読んでみて感じたこと
私がドミニク・チェンさんの書籍を読んだのは、本書が初めてである。
読み始めてすぐに、文章のあまりの美しさに目眩を覚えた。本書の冒頭。
それはいつも、何かの「はじまり」であると同時に「おわり」をあらわしている。
中略。それまで蓄積されてきた経験の皮膜が一度に無化し、未知の時間が始まる予兆で満たされる瞬間がある。
中略。いま、自分とこどもを覆っていた泡の皮膜が弾けようとしている。娘がある時から、自分だけの感覚を獲得して、自由に問いを発しはじめた。
言葉のセレクトに繊細さが感じられる。私自身も似た感覚をかつて得た事を美しく思い出せた。いとうせいこうさんの「一緒に言葉の岸辺を歩く本」と言うのは、言い得て妙だ。
環世界(それぞれの生物に立ち現れる固有の世界のことを意味する用語)
ドミニクさんは、日仏英の言葉を切り替えて使う。それぞれの言葉の環世界を感じながら、言葉をチョイスしている。本書でドミニクさんは吃音を告白している。伝えたいことが伝えられないもどかしさに苦しんだ時期があったそうだ。たとえどんなに言葉を尽くしても、完全な形で他者に思いを伝えられないと言うのは私も身体知として十分にある。私の場合はボキャブラリーが足りないと言うことも否めないのだが…。同じ日本人に対しても、100%の思いを伝えられないのだから、異国の人にも完璧にマッピングするような意味での翻訳などできるはずがない。ある種、誤解を容認しながら、家族や友人、仕事仲間と協働しているのが実態なのかもしれない。
内側の温度
思いを言語化して文章を書くことは、とてもスキルが要求される。解像度の粗い言語というメディアは、互いの意識的に主観的に感じたり経験したりする質の最大公約数をつなぎ止めるものでしかない。そこを認知できると、案外他者との揉め事が減るのかもしれない。
ドミニクさんは娘さん(小学生ぐらいだろうか?)が何かを伝えようとして、言葉が見つからずもどかしそうにしている時にも、じっと待つようにしているらしい。娘さんに対する深い愛情が感じ取られるし、言葉はすぐに飛び出すものではないということを熟知されているからなのだろう。
そして娘さんが使う言葉の初々しい語感を聞くたびに、ドミニクさんの中で言葉の意味が再定義される。我々が普段何気なく使っている言葉に対して、子供が「それはどういう意味?」と聞かれて、ハッとすることがないだろうか。その言葉に対して自分自身が実は浅い理解で満足していたことに気がつかされてしまうのだ。
他者との関係で知性を増幅させる
テクノロジーは人間の孤独を癒すために使われねばならないし、実際その方向に進んでいると思う。ドミニクさん達もタイプトレースと言うソフトウェアをを開発して、文字や文章に作者の温度が感じられるものにしている。タイプトレースとは、入力する時間によって、文字のフォントが変わるものらしい。すらすら出てくる文字は、小さい文字で、熟慮した文字は大きな文字になるものらしい。それを可視化することで、無機質な文字が温度を帯びるように感じられることを狙っている。
学校教育も他者の温度を感じるという点が抜け落ちているような気がする。基本的に教室の学習は、個々人による教科の勉強のスキル習得にある。一見すると集団で学習をしているので、孤独感とは無縁なように見える。しかし、その実やっている事は個々人による孤別学習である。個々人が内的に進め、誰も干渉できないので、当然、学習習熟度に差が生まれるのは避けられない。学習習熟度を公平に保つことが是か非かは判断が難しいが。
人の知性を増幅させるために、他者と協働する事があってもいい。習熟者同士で教えあったり教わったりする。その方が、とても魅力的であるし健全なような気がする。結果、全体の学習習熟度はおそらく上がるのではないだろうか。
生命的な思考
グレゴリー・ベイトソンが一貫して考えたのは、「人間が機械的な思考ではなく、生命的な思考を持つにはどうすればいいか?」と言う問いだった。
STEM教育が、STEAM教育に変化しているように、機械的な思考だけでは限界があるという事は徐々に認知されてきていると思う。だが実生活において、生命的な思考が優先されたりするケースが少ないような気がする。
個人と言う概念は近代に生まれてきた発想である。個人よりも集団を優先する事が遠い過去の時代からDNAによって受け継がれてきたのではないだろうか。ホモサピエンスは集団生活ができることで、ネアンデルタール人などの他の人類が地球上から消しても生きながらえてきた。
集団生活を営むために、機械的思考を優先するようにプログラムされてきたのだろう。そして農耕時代が始まってからは、そのプログラムをさらに強化されてきた。命をつなぐために、個人の想いは優先順位として、低くならざるを得ない。
その後産業革命が起こり、情報革命が起こり、人々の生活はマクロ的に見ればとても安定している。
21世紀の現在では命に関わるような危険の頻度は、狩猟生活のそれとはレベルが異なる。よく言われるように現代は飽食の時代だ。
機械的思考で幸福感を得られる時代は既に終わっているという事だ。
菅付雅信さんは『動物と機械から離れて』でAI時代の到来で増えると予想される余暇の時間を恐れずに楽しもうと説いている。
外の状況に反応するだけの動物性を抑え、人間らしく思考する。
白か黒かの単純な二項対立が最近はよく目立つ。しかし人間の営みはそんな単純なものではない。この世界は、もっと複雑だ。グレーもあれば黄色か赤かもしれない。もしくは目に見えないような色(それは色と呼べるかはわからないが)かもしれない。
現在地球上にある生物は、バグによる変化の集大成だ。細かいシステムエラーをアップグレードしていくと、古いものには想像のつかない進化の結晶が詰まっている。
人と人とは完璧には、わかりあえない。そのまどろっこしさを面倒だと思わずに、言葉であったり表現だったりをつないでいく努力の美しさを本書が教えてくれる。