いつのまにか「やらなきゃいけない」の沼
私はこの国に滞在するにあたり学校に通うことが条件だったので通っている。
鬱になり社会との関係も希薄になるため、学校にきちんと通うことは私にとってリハビリであり、この社会から孤立しないための生命線でもあった。
最初の半年は満足に通うことができなかった。薬も最大量で飲み続けており体力が持たず気分が落ち込んで通えなかったり、半日の授業で頭が痛く痛くなり家に帰って倒れ込んで寝たりした。
ものの覚えも悪かった。頭に何か浮かべて考えることができなかった。
動詞を活用させる時自分が今どの人称を言っているのか追いかけることができなかった。
綴りも覚えられなかった。「ei」なのか「ie」なのか。似た単語はどのように異なるのか比較ができなかった。
語順を考えるのも厳しかった。こういうことを言いたくて日本語をドイツ語の単語に変換することはできる。でもそれを頭の片隅においてドイツ語の語順に並び替えていくことがどうしてもできない。
机に向かって勉強するのもつらかった。余計な心配や不安が浮かんでくる中謎の言葉を解読する集中力がなかった。
そもそも自分がドイツに逃げてきたことを認められないのか新しいことを覚えることに無意識のうちに抵抗があったように思う。
友達と知り合うことも嫌でなるべく黙っていた。ただお節介ゴコロは働くため親切な奴という位置付けで何とかしのいでいた。
最初から授業についていくのは厳しかった。それでも負けず嫌いの心で週末のテストは一夜漬けで乗り切った。
こちらにいる友人からも「学校に通っても言葉はできるようにならない」と聞いていたが、せっかくこの地にいるのだからしゃべられるようになりたいと通い続けた。
一度日本に帰る必要があり、最初は飛び出してきたこともあって不足しているものを取りに帰国した。これが私の第一の逃亡。
次に日本での労災手続き書類の作成で精神が病んで学校を休んだ。これは第二の逃亡。
そして今第三の逃亡中。
夏に素晴らしい友人に恵まれちんぷんかんぷんながらに通い続けた。この頃私は原因不明の低血糖症になり、頭の中のドイツ語が全て消えた。聞いたことを覚えられない。頭にドイツ語が浮かばず何も言えない。全身が痛い。
一週間通えなくなることもあったが私の不在を皆心配してくれた。皆で宿題の情報を共有したりごはんを一緒に食べてグチったり。それが支えで続けて通えたし、その仲間が卒業するまではがんばろうと思っていた。
次から次へと出てくる新しい単語に吐き気がした。やっても右から左に通り抜けていくだけのような気がして無駄だった。学校のテーマも「仕事」で履歴書の書き方や就職面接、労働法の読解など。自分の仕事や将来の希望について話さなければならず私は日本でのことばかり思い出して暗い気分になっていた。
テストで半分も取れなくなりとうとう先生に「難しい」と言ったところクラスを落とすことになった。また新しい仲間の中で今まで苦労してやってきた教科書を振り返るのが億劫で、さらに張り詰めていたものがプチっと切れて学校に行けなくなった。
こんなに苦労して通い続けたのに何も身についていないと愕然とした。逃亡生活も長くなりそれに結果がついてきていないことに恐怖を覚えて辛くなった。激しい挫折。
私は休みを取ってしばらく勉強から離れることにした。気づけば何とか勉強についていかなくちゃと一日中勉強していて息抜きもお出かけにも行けなくなっていた。街中に溢れるドイツ語を無意識のうちに見ないようにして歩いていた。トラウマもいいところ。「これはパワハラで追い詰められながら会社に行っていた時と同じ!」ここまできて私は日本の苦しみを自ら再現し一人で溺れていた。
ハードルを落としたり止まることもまた難しい。
でも自分の現状を正しく把握してできることできないことを判断するのは大事なことだ。
意識の高い留学ブログを読むと自分はダメな気がしてしまう。でもがっつり落ち込んでる自分を見ると「私は私」と思える。いやぁドイツ語難しい。
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