見出し画像

「過去は未来に影響する」という幻想と、こども観

(※)メルマガから来てくださった方は、「今、考えていること」パートよりお読みください。


本日の問い

今日はこども観をテーマに教育について考えてみようと思います。

こども観とは、「あなた自身がこどもをどのような存在として捉えるのかという考え方」のことです。

A)こどもは、自ら学び続ける存在だ。

B)こどもは、何かを教えられないと学ばない存在だ。

A)こどもは、大人となんら変わらない権利を持った存在だ。

B)こどもは、未熟な存在だ。

など、無意識的にでも「どのようなこども観を持っているか」で、あなた自身のこどもとの関わり方は当然変わっていきます。

この内面的な在り方としてのこども観を磨くことの重要度は、「こどもに対してどんな関わりをするか」というhow toを学ぶことの重要度以上です。教育に関するhow toは、“よいこども観”に紐づいてはじめて“よいhow to”になります。この順番が大切です。

そんな重要なこども観について、以下の切り口をもとに今日は向き合ってみましょう。

☆本日の問い☆
目の前の子の「過去」の延長上に、その子の「未来」を想像することを当然としていないか?


現在を生きる私たちの多くは、時間は過去→未来に流れていると感じながら生きていると思います。
この時間軸でいるからこそ、「過去が未来に影響をする」と当然のように捉えてしまいがちです。
しかし、「過去が未来に影響をする」というのは本当にそうなのでしょうか?

ここで大切なのは、「時間の流れは『過去→未来』、『未来→過去』どちらなのか、はたまた...」という問いを立てることではなく、「“よい教育”を思考・実践していくために、『こども過去』と『こどもの未来』をどのように捉えるとよいか」という問いを立て、条件解明的に考えを深めていくことです。(前者の問いは、現象学的にいうとエポケーするとよいものです。)


以下の例をもとに想像してみましょう。

こどもA)毎年、夏休みの宿題を最初の1週間で済ませてきた。
こどもB)毎年、夏休みの宿題をサボって提出してこなかった。

このようなこどもA・Bがいた時、どちらのこどもが来年の夏休みの宿題を全て提出する可能性が高いとあなたは考えるでしょうか?

きっと「こどもAの方が提出をする可能性が高い!」と考える方は多いですよね。
このこと自体には全く問題ないのですが、この認知を「当然」とすることによる“よい教育”に資さない弊害があると私は考えています。

例えばその弊害の1つとは、「こどもBの〈欲望-関心〉に関わらず、こどもB自身の『内部表現(自己認識や世界の捉え方など)』がホメオスタシスのフィードバックによって変容していかない要因の1つに、私たち大人自身がなってしまう」ということです。

少し分かりづらい文章になったのですが、ピグマリオン効果やゴーレム効果をイメージしていただけると分かりやすいかと思います。

私たち大人がどのようにその子を認識しているかによって、その子に対する声かけなどの関わり方は変わります。そしてこの大人の言動は、こども自身が「自分のことをどんな存在として捉えているか」いう認識に少なからず影響を与えていると言われています。

「あなたは、頑張れない子だもんね!」
このような言葉を受け取った時、「頑張らないことは、よくないこと」「頑張ることは、しなくてはいけないこと」「自分は頑張れない子」などの認識がこどもの中で形成されます。

そしてこの認識によってこども自身、〈欲望-関心〉の中心点が見えづらくなったり、頑張りたいと思った時にも「頑張れない自分の延長上に今の自分がいる錯覚」によって頑張りづらくなってしまったりする懸念があります。

これって、きっと私たち大人が望んでいることではないですよね。

ついつい、私たち大人は「その人の過去は、その人の未来に影響を与えている」と考えてしまいがちです。でも、それは本当なのでしょうか?
「目の前の子の過去を見て、私たち大人が想像したその子の未来が100%その通りになる」なんて、そんなこと実際ないですよね。なのに、私たちは「目の前の子の過去から、その子の今や未来を想像して、今この瞬間の関わり方を無意識に選んでしまっている(ことがある)」


「(昨日まで〜してこなかったから、)今日も〜しないよね。」

この無意識の思考・認識によって、「こどもとの関わりの中で何か抜け落としてしまっている大切なもの」は、あなたの中にないでしょうか?
少し時間をとって、ぜひあなたなりの考えを深めていただけますと幸いです。

考えてみたパート

その前にいつもの注釈

このnoteは、僕の配信しているメルマガのおまけパートです。

メルマガの大切にしていることから考えると、言ってしまえばこれ以降の文章は蛇足です。

ここからは、ただ僕自身が書きたいことを綴ります。
気の向くままに言葉を綴っていきますので、よろしければお付き合いください。

〈いつもの注釈 : メルマガで大切にしていること〉
“よい教育”について考える時、「問いを立てるという行為」にこそ価値があります。
AIなどの発展により、「問い」があれば「答え」を見つけてくれる存在が私たち人間のすぐそばに現れました。今はまだ「答え」が不正確なこともあるかもしれませんが、この精度はどんどん高まっていくでしょう。そして近い未来にはまるで「ドラえもん」のように、私たちの欲求を叶えてくれる存在になっていくでしょう。

このような未来を想像する時、人間にとって大切なのは「そもそもの問いを見つけること」だということが分かります。「自身の欲求に向き合い問いを見つけること」こそ人間にできることであり、人間にとって自由に生きる営みの土台となるものです。問いが見つかれば、あとは「ドラえもん」と一緒にその問いと向き合い、つくりたい未来をつくっていくことができます。

のび太のように、「助けてドラえもん!」「〜したいよドラえもん!」と表現できる存在。
そんな存在こそ、きっとこれから求められる人間像です。
これは社会的にという観点でもそうですし、一人ひとりが自由に生きていくためという観点に立っても北極星となる人間像だと思います。

この「求められる人間像」を踏まえ、本noteでは「仮の問い」を発信するにとどめています。「仮の問い」から、ぜひ「あなただけの問い」を発展をさせてください。そして「あなたのつくった問い」から、素敵な未来をぜひつくっていってください!

そんな風に、当メルマガをつかっていただけますと幸いです。素敵な物語があなたを起点に紡がれていくことを、私自身心から願っています。

今、考えていること

「無意識」って、すごく奥が深いなって思う。今さらだけど。
自分自身その時々の「自己認識」の通りに、悩んだり、頑張れたりしているなって思う。

例えばちょっとしんどいなって時、「〜できない自分」に目が向いてしまいがち。自分のことを「できない自分」って認識するから、その認識をもとにした言葉を自分にかけて、さらに「できない自分」って認識が強化されていく。

上手くいってる!頑張れている!って時には、その逆がおきる。
ずっと、「できる自分」でいられる感覚。

自分の在り方が他者の自己認識に影響を与えているって、当たり前なのかもだけど不思議。ってか、怖い。他者のことをなんとなくそれぞれ「〜って存在」って僕たちは捉えていて、それがその人に影響を与えているのかもしれなくて、しかもそれがお互いに無意識だったりする。ポジティブな認識だったらいいじゃんってのも違って、それは「何かをポジティブでよいもの」って刷り込みを他者にしていることと同義だから本質的には同じだったりする。

「今この瞬間から自己認識を変えて、自分を変えていくことはできる」って言葉は、しんどい人にはしんどいし、救われる人には救われる言葉だと思う。

この言葉はきっとその通りなんだと思う。
過去が未来を決めているなんてなくて、今、僕たちは未来を選択することができる存在ではあるんだろう。

こうした言葉ってあんまり好きじゃなくて自分の血肉になっていくことはなさそうなんだけど、少なくとも僕の中で確かにあり続ける言葉だと思う。

誰かが必要としている時に、この言葉を裏にあるロジックも含めてとどけられるような、そんな存在でありたいなって思った。


さいごに

🔻「教育」をテーマにしたメルマガを配信中です。
よろしければぜひご登録ください!


いいなと思ったら応援しよう!