#1 “よい教育”を定義する営みって、画一的な教育を生む営みなんじゃないの?について
“よい教育”は定義できる。
“教育の本質”は存在する。
こうした言葉に、あなたは違和感を覚えますか?
かつての私は違和感を覚えていました。
というよりも、
「よい教育なんて、定義できないよね。だって人それぞれだもん。」
という、まさに思考停止状態にあったなと感じています。
私たちは無花果(いちじく)という名前で様々な教育事業を展開していますが、次のような旨の言葉を直接届けられることもよくあります。
しかし、教育について実践者として学んでいくにつれて、
これまでの人類の紡いできた哲学に触れていくにつれて、
“よい教育”を定義し“よい教育”を実践しようとする営みは、なんら批判される必要のない素敵な営みなんだと確信するに至っています。
「なぜ“よい教育”を定義する営みは正当な営みなのか」について詳しく触れると大変な文量になっちゃうので、今日はよくある批判の1つ
を主題にお話をできればと考えています。
“よい教育”を定義することは「画一的な教育を推進すること」では決してないこと。
むしろその真逆の、素敵で“よい”営みだということをまずは感覚からでもあなたに感じ取っていただけると嬉しく感じています。
“よい教育”とは?
導出過程を省いてここでは結論だけを提示し、
主題である「“よい教育”の定義」と「画一的な教育」の関係性に話を進めていきます。
“よい教育”の定義に関しては、苫野一徳さんの提言されている以下のものが、最も底の底まで落ちた本質的なものだと私は確信しています。
ちょっと難しい言葉も並んでいるのでできる限り簡略的に解説をすると、
「子どもたちが他者の自由を尊重しながら、自身も自由に生きていくための力を育むこと」を実質化すること。またそれと同時に「自由が相互に承認される社会」を実質化することこそが、教育の果たすべき本質的な役割だと言われています。
つまり、〈自由〉と〈自由の相互承認〉こそが“よい教育”のキーワードです。
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補足としては、
「これが必ずよい教育なんだ!何があっても普遍的なものなんだ!」
ということでは全くないということです。
導出過程は全て公になっており、もしここに1つでも誤りがあれば「よりよい本質」に書き変わっていきます。
この定義に納得できない…などという場合には、ぜひさまざまな文献等で学び指摘をしてください!
この定義した意味や価値を検証し続ける営みこそ、哲学的な営みです。
なお“よい教育”の定義の導出等に関して学びたい方には、まずは以下の書籍から学び始められることをおすすめしています。
なぜ、 〈自由〉 と 〈自由の相互承認〉 ?
そもそもなぜ“よい教育”のキーワードに〈自由〉と〈自由の相互承認〉があるかというと、
「人間は〈自由〉を求める存在」、もっと言うと「人間の本質は命を賭してでも〈自由〉を求める存在」というところからきています。
私たち人類の歴史は、〈自由〉を求めて争い合ってきた歴史と言い換えることもできます。
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