みんなでつくろう絵画工学

遭難を前提とした表現の探求は変わるべき

コンテンポラリーアートは、未開の表現領域を切り拓くという意味で登山に近い。だがアーティストたちは地図やコンパスのようなルートを知るための道具を持たぬまま、半ば遭難することを前提に雪山へ突入していくようなところがある。
それでもほんの一握りの天才は表現の極みへと到達するだろうが、彼らを除く殆どのアーティストたちは途中で挫折してしまうか、今も答えが出ないまま山中を彷徨い続けている。この状況を少しでも変えることはできないだろうか?

実際の登山家たちはリスクに敏感だ。ルートを研究し、必要な技術を磨き、プランを練り、いざというときの備えを整えた上で未開の地に挑む。予測可能なリスクにはできるだけ事前に対処していないと、不可避のリスクを犯したり、不意のアクシデントを乗り越えるだけの余力を残しておけないのだ。アーティストもそれに倣い、日常的に精神と肉体を無駄にすり減らすのをやめ、合理性と効率性の力を借りて高度な領域に挑むべきではないだろうか。

“自分の表現を信じてまっすぐ進めば良い” という言葉には一理ある。しかし登山では『リングワンダリング』という現象もおきる。吹雪や霧などで視界と方向感覚が狂うと、まっすぐ進んでいるつもりでも重心や歩き方の癖の影響で除々に方向がずれていき、大きく円を描いて元の位置に戻ってきてしまうのだ。これはアーティストのスランプ状態と非常によく似ている。自分の主観だけに頼っていると、堂々巡りで行き詰まってしまう恐れがあるのだ。

絵画工学はそういった認識を踏まえて考案した、コンテンポラリーアート(特に絵画)の制作・分析を支援する思考ツールである。“〇〇すべき、〇〇でなければならない” といった押し付けがましい指南書ではなく、迷った時の判断材料として活用されることを目指している。

独学で絵画を勉強している自分にとって現代絵画はとても難解で、自分なりに理解できるようになるまで長い時間が掛かった。だからこそ、同じく絵画に挑む人々に“地図とコンパス”を手渡すことができれば、と思う。

批評・美術史と切り離された制作理論の必要性

コンテンポラリーアートを学び始めたとき、美大や専門学校は沢山存在するのにアート(特に抽象)に関する教材は極めて少なく、またそれを読んでもどうやって絵を描けば良いのか理解が進まないことに戸惑ったが、今ならその理由が分かる気がする。現代美術の教育は、絵の描き方よりも評価のされ方を教えているのだ。

コンテンポラリーアートが未知の表現領域を切り拓く前衛なのだとしたら、アーティストが最初に習得すべきであろう技能が3つある。
先入観や既存の価値観に惑わされずアイデアを見極めるための分析手法、積極的に失敗して効率的に多くの知見を得るための実験手法、アイデアと知見を作品化するための設計・計画手法だ。
また、前衛的な作品の価値は本来、時間をかけて証明されていくものだろう。真に優れた革新的アイデアは多くの人々に影響と恩恵を与え、次世代の新しい常識となってコミュニティの発展に貢献する。その美術史に刻まれた功績こそが作品とアーティストの揺るぎない実績であり、そこに評価が付いてくる。

しかし、実際のコンテンポラリーアート業界の人々は美術史と批評を中心に思考している。批評家、コレクター、美術史家、美術機関などの作品を評価する側の人々の影響力がとても強く、作品の価値と存在意義の検証に特化した理論が先導しているのだ。アーティストもこの理論を内面化しており、ものづくり的視点よりもブランディング的な視点を重視して作品を制作する傾向にある。

結果的にアーティストにとって、制作で最も重要なのは価値と文脈を作品へ付加することになりつつある。そのためには既存の価値体系に基づいている必要があり、革新的になりすぎてはならない。美術史や同時代の文化と作品を強く結びつけることで、コミュニティの遺産を消費しながら価値を積み増すのである。

しかしそれでは周囲のアイデアを消費するばかりで、アーティスト側から独自のアイデアや文化を生み出し、発信することができなくなるのではないか?
そういったコミュニティの先細りを生みかねない状況を打開するために、アーティストは批評の理論や美術史の文脈から切り離された、作品制作に特化した理論を独自に構築すべきではないだろうか。
また具体的な制作理論があれば、才能や環境に恵まれないアーティスト志望者たちにも知恵を分け与えることができ、コミュニティの戦力増強とレベルの底上げに繋がる。これは業界の継続的な発展においても重要なはずだ。

天才だけを掬い上げる、あまりに目の粗いフィルター

アートは実物の名作を観なければ分からない。
アートは本質的に教えることができず、個々人が試行錯誤するしかない。
アートは理解するものではなく、感じるものである。

こういったアートの規範は、ある意味では正しい。だがこのような認識のままでは、制作に時間とお金を割くことができない人、美大に通ったり美術館に行ける状況にない人など、地理的・経済的・能力的に不利な状況にある人々のほとんどが初期段階で絵画制作からふるい落とされてしまう。業界の間口を狭めるこういった考え方は、才能の芽をいくつも潰してしまうかもしれない。
アーティストの教育システムを、環境や才能に恵まれたほんの一握りの天才だけを掬い上げる目の粗いフィルターにしてしまうのではなく、ブルドーザーのように地盤を根こそぎ押し上げ、多くの人々に成長の機会を与えるものにできないだろうか?

なぜアーティストは色んな意味で不安定なのか

一般的に教育とは、若者の未来に対する投資である。知識や技能を生徒に授け、各々が素質や能力を発展させてゆく手助けをするのだ。教育機関は生徒の能力を短期間で最低限度のレベルにまで加速的に引き上げるカタパルト(射出機)のような役割を果たしてくれる。

一方で美術教育を受けることは、結果的に人生を賭けたギャンブルになってしまう側面がある。若いうちから評価されて作品が売れ続ける、美術教員になる、両親やパートナーなどに経済的に依存できる、などの極めて恵まれた環境を勝ち取れば作品制作を継続できるが、そうでない大多数の者はどうすればいいのだろうか。

作品制作には相当のお金と時間と労力を消費する。時間の都合が付きやすく収入も多い仕事に就ければ作品制作とも両立可能だが、そういった仕事の多くは高度な専門知識を必要とするため、アートに本気で没頭していればいるほど、そういった職に就ける機会は減ってしまう。ましてやアーティストがお金と時間を掛けて美大生時代に習得する知識と技能は、業界外の仕事に応用しにくい傾向にある。

とはいえ物価が上がった現代では、バイトや派遣といった、自由は効くが低賃金の仕事で生活費を賄うのがそもそも厳しい。その中から制作費、スタジオ賃料を捻出し、奨学金を返済するとなると、制作費のために昼夜問わずに仕事しているので制作する余裕がない、という本末転倒な状況に陥りかねない。ここに結婚や出産といった状況が重なれば、活動の継続は更に困難となる。
それでも自分の好きなこと、今までの努力、キャリア選択を自ら否定したくないので制作は諦めたくない、、、、

こういった経済的に不安定で、将来への不安も尽きない状況に追い込まれてしまえば、真面目で熱意のあるアーティストほど精神を病んだり問題に巻き込まれやすくなるのは当然だ。
狭い業界において、批評家、コレクター、ギャラリスト、有名アーティストといった人々からの評価と人脈はキャリアにとても強い影響を与えるため、アーティストは無配慮な言動を受けたり横暴な対応をされても、我慢して関係性を維持しようとしてしまう。そういった人間関係の拗れが積み重なれば容易にハラスメントへと発展するだろう。

アーティストの、アーティストによる、アーティストのための制作理論

そういった観点からも、アーティストはアートワールドの価値評価システムに絡め取られず、絵画制作の知的興奮へ素直に没頭できるような学習環境と理論の整備が必要ではないだろうか。究極的には独学でもコンテンポラリーアートの美学に準じた作品を制作できる人々を増やすべきである。
例えば漫画・イラストのコミュニティでは、作家が自分の技術を積極的に共有し合う互助の文化が構築されており、教育機関などに頼らずとも優れた作家を生み出せる土壌が整ってきている。アーティストもこういったコミュニティを見習って、業界の間口を拡げつつレベルを底上げする努力をすべきなのではないか。

歴史に残るアーティストとして評価されることを渇望している以上、その活動は『〇〇でなければならない』という強迫観念に常に縛られ続ける。少しのミスや失敗も、自分に大きく失望する要因になる。TPOによって無限に変化する曖昧な他者の評価に一喜一憂し、振り回されてしまう。
だがアーティストの本来の仕事は、『〇〇でもよいのだ』と、表現の可能性・多様性・許容範囲を押し拡げることだ。その作品は行き詰まっている人々に希望とインスピレーションを与えるはずのものだ。それは表現の探求を通じた確かな積み重ねによってのみ可能となる。

コンテンポラリーアートが本来持っているはずのこういった拡張可能性を再発見するためには、アーティストはもはや単に作品を作るだけでなく、作品のつくりかたを創ることで業界の価値観と規範を刷新していくべきだと思う。絵画工学に関しても、できるだけ様々な人々の意見や専門知識を取り入れて改善し、その一端を担うことができれば、と思う。

コメントやご意見などあれば、ぜひ気兼ねなく送って頂けるとありがたいです。みんなでつくろう絵画工学。

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