【ネタバレ感想】天気の子は現代日本批評であり、若者へのエールだった
新海誠監督作品 『天気の子』、とにかくすごい、すごく良い! 未来の若者のための映画だった。
あまりにもポジティブなメッセージを受信してしまい、この感動を言葉にしたい!という衝動のままにこの文章を打っている。
秒速5センチメートルで俺を鬱々とした気持ちに叩き落としてきた新海監督に、今になってこんなにも励まされるとはね、、、。
端的に言えば 天気の子は、「それでも生きてやる」という力強い宣言である。
社会に対する絶望や不信感と同時に、明日を生きる人々に対する希望と信頼を描いている。
その背景美術と動画の素晴らしさは言うまでもないが、俺にとって天気の子は、大衆娯楽作品の皮を被った素晴らしい社会派作品だった。
実際に本作で描かれている様々な要素は、奇しくも2019年夏の実際の気象状況や、この半年間に起きた様々な事件と驚くほどにリンクしてはいないだろうか。
天気=世間の空気
天気の子は、現代を覆う経済格差や労働問題、政治不信といった世間のどんよりとした“空気”を、いつまでもやまない雨という“天気”として表現している。
つまり天気の子は、この陰鬱とした空気感の社会にどう立ち向かい、どうすればこの社会に居場所を得ることができるのだろうか?という問いかけである。
アニメ作品には珍しく、本作の主人公である帆高と陽菜は、どちらも家庭環境、経済状況、年齢などの面で社会的なハンディキャップを沢山背負っている。
彼らは被虐待児、ネカフェ難民、低学歴・低年齢労働者、母子家庭、貧困家庭、セックスワーカーなど、現代日本において虐げられやすい立場にある人々の性質をいくつも併せ持っているのだ。
2人は物語の序盤・中盤に雨風を防げる場所を探して彷徨うことになるが、それは彼らのような立場の人々が現実社会で生きていく際にどのような困難に直面するのかを生々しく描写している。
だが興味深いことに、2人は天気をコントロールすることで収入を得る方法を編みだす。逆にこの天気の悪さを利用するのである。
陽菜の100%晴れ女としての活動は、まさにハレの場を明るく盛り上げる仕事であり、アイドルやYoutuberといった現代のネットを駆使した芸能活動や芸人活動に近いと感じた。
もちろん、アニメをはじめとしたエンタメ産業などのメタファーと捉えることもできるだろう。
雨乞いの際に空気の中からどこからともなく現れる透明なサカナの群れは、ネットのコメントの様でもある。サカナはこのジメジメとした天気を構成する要素でありながら、
うまく使えば晴れをもたらす存在にもなるのである。路上で“炎上”を起こすことだってできてしまう。
だが作中で何度も語られている様に、天気のコントロールには代償がある。
天気(世の中の空気)と同化して自己を喪失し、現実から乖離した存在になってしまうのである。そして陽菜は実際には、人柱として“選ばれていた”。悪天候をその超能力で抑えるヒーローではなく、悪天候を抑える為の全ての負担を、天気(世間)の勝手な都合で押し付けられようとしていたのである。
そもそも陽菜の雨乞いは、どうやら天気そのものを変えているのではなく、どこかに降るはずだった雨をまた別のどこかへ飛ばしてしまう能力のようだ。
一時的にどこかを晴れにしたぶんの歪みは突然、全く罪も関係もない誰かの頭上で一気に解放され、災害や事故の様な形で降り注いでしまう。
最終的にその天気は荒れに荒れ、社会を完全に麻痺させてしまうまでに至る。
諦めと決意
結局、登場人物たちはどの様にその“歴史的な”悪天候へ立ち向かうのか?── 結果的には何もできなかった。
というか、 帆高と陽菜は悪天候をごまかすことを止めたのである。誰かの自己犠牲によってこの社会が存続することを良しとせず、社会全体が悪天候によって破綻することを受け入れてしまった。
理想化された実態のない世界から現実世界へ文字通りに真っ逆さまに落ちていく2人は、悲劇的でもありながら、同時に幸福感と強い決意に満ち溢れているようだった。
3年後、東京はなすすべもなく海へと沈んでしまう。これは今後の社会に対する、とても暗い未来予測である。
だが、それこそが2人の選択なのだ。人間的な健全さを維持するために、社会の破綻を選んだのである。そして最後にはそれでも「大丈夫だ」と力強く言い切ってしまう。(かっこいい)
これは、未来をつくるのは政治でもなく社会でもなく人間である、という宣言である。
政治や社会には全く期待も信用もしないが、それでも人間を信用し、愛を優先すれば強く生き抜ぬくことができるはずだ、
という人間に対する明るい未来予測であると俺は思った。
だが作中の老人たちが語るように、この現在の社会状況は確かに最悪だが、歴史的に見れば史上最悪とは言えないのかもしれない。
例え経済が衰退しようとも、社会に綻びがあろうとも、それは少し昔に戻ったということであり、例え生活が大変だったとしても、
我々が当時の人々と同様に強く生き抜いていくことは不可能ではないはずだ。
ましてや世界の不平等や諸問題は、ときに一歩後退することはあっても、少しづつだが改善に向かっているものも多い。
「世界なんてどうせ、もともと狂ってるんだからさ」とはまさにそのとおりである。
時代や政治がどうなろうとも、我々は自分なりに精一杯生きていくしかない。それは時代や立場が違っても同じである。
大事な物があるのなら、 社会という名の電車が止まってしまっても、
邪魔されようとも笑われようとも、そこに向かって自分で走っていくしかない。
帆高はその名前の通り、逆風に吹かれても帆を広げ、ジグザグに前進するヨットの様なヤツなのだ。
セカイ系ではなく社会派
まさか大衆娯楽作にこのような社会派なメッセージを埋め込み、パンクでアナーキーな結論へと至るとは思いもしなかった。
セカイ系作品は基本的に、思春期の若者たちの恋愛、心理的葛藤、身近な事件が世界中に影響を与えて拡大していく、という展開が起きる。
まだ社会との接点が少ない若者にとっては身の回りで起きていることが世界の全てである。その感覚が物語として誇張表現されているのだ。
だが天気の子において登場人物達が直面している問題は、少なからず現実の社会問題とリンクしている。
天気という抽象的なメタファーによって、現実の社会問題を主人公たちの私的な感情や葛藤と結びつけ、感覚的に理解できるように表現しているのである。
登場人物には実在感があるし、劇中に登場する様々な実在の食べ物や、異常なまでに忠実に再現された新宿の描写などは、
この映画が我々の世界と地続きの話であることを強く印象付けてくれる。
そして日々我々が行っている個人的な人生の選択は、世界には何の影響も与えていないかの様に感じるが、帆高が言うように、少しだけだが確実に世界を変えることにつながってるのかもしれないな、などとラストシーンを観て思った。
※余談だけど
・天気が現代日本の社会状況のメタファーだと考えると、後半の大雨も雨が3年間止まない事態も元々起きるはずだったものだと考えられる。陽菜はそれを止めるために犠牲になることをいつの間にか任命されていた人柱であると俺は解釈する。(これは現在の日本経済を支えるために既得権益層から負担を押し付けられ、搾取されている労働者:ワーキングプアやプレカリアートを連想させる。)だが、陽菜と帆高がお金を得るために行った天気操作によってあの災害が起きたと解釈した場合は、2人の最後の選択が身勝手に感じる、という真逆の印象を受けるのかも。
・須賀の娘が雨の日になると喘息の発作を起こしてしまうのは、現代が親と子供、両方にとって生きづらい、息苦しい時代であることを示唆している?
・ラブホで欲望のままに食料を買い、それをシェアする感じは、間接的なセックス描写に思える(本作は人や猫との繋がりが生まれる瞬間が、全て食事によって描写される)
・というか本作はものすごく食事の描写が多い。それらは単純な作品内広告としてだけではなく、キャラクターの経済状況や性格、関係性の深まりを非言語的に説明してくれている。
・陽菜が体を売ろうとしたシーンから付け続けているチョーカーはまるで首輪の様で、自分の人生の主導権を失っている状態を示唆している気がする。それは人柱の役目を拒否する時まで外れない
・本作がエロゲ的で、あるはずのない選択肢が見えるかのようだ、という感想はとても興味深い。というのも俺には、登場人物の重要な選択の多くが“仕方なく”行われていると感じたからだ。帰れない、仕事が無い、お金が無い、親がいない、親権がない、就職できない、腕力で勝てない、責任が重くて断ることができない ── 彼らは弱者側の立場だからこそ、他に選択肢がない状況に追い込まれがちだったように思う。