ユアサエボシによるイメージの編集と演出
ユアサエボシとは、大正生まれのシュルレアリスムに影響を受けた三流画家という設定を持つ架空の人物、およびそれを演出しているアーティストである。ユアサは美術史の隙間に存在したかもしれない架空の作家史を創作し、彼が描いたという設定の絵画を制作している。
だがその一方で、彼は近代美術史に基づいた厳密なロールプレイ(役割演技)をする訳ではない。制作の方法論も一般的なシュルレアリスト像とは微妙に異なっている。
レトロな作風に見えるユアサの根底に流れている現代的感覚を、編集と演出というキーワードを元に紐解いていきたい。
参考までに、ニコラ・ブリオーの著書 “ポストプロダクション”(編集)の一節を意訳して引用しておこう。
90年代初頭より、今まで以上に既存の作品を元に制作されたアート作品が増えている。より多くのアーティストが再解釈、再制作、再展示、あるいは他者の作品や入手可能な文化的創作物を利用して制作するようになったのだ。これらのポストプロダクション的アートは、情報時代を迎えて更に混沌としてきたグローバル文化への反応だろう。供給される作品数の増加、今まで無視・軽視されてきた作品様式をアート・ワールドが取り込み始めた点がその特徴である。
これらのアーティストは、生産と消費、創造と模倣、既製品とオリジナルといった概念を隔てる伝統的定義を破壊しようとする流れに、自分の作品も加わえようとしている。
彼らの扱う素材は一次的ではない。基礎的な素材から形式を生み出すことはもはや重要ではなく、文化的な市場で既に出回っているオブジェクト:他のオブジェクトによって既によく知られているオブジェクトを使った制作が重視されている。
オリジナリティ(何かの起源であること)と創造(何かをゼロから作ること)の概念は、新しい文化的背景の中で徐々に曖昧になっている。
特徴的なのはDJとサウンドプログラマーだ。この両者は文化的オブジェクトを選択し、それを新しい文脈に差し込む役割を担っている。
イメージのコラージュ、あるいは編集
ユアサはシュルレアリスト的技法の中でも特にコラージュを好んで用いる。彼の扱うモチーフは、戦前・戦後の雑誌、新聞、広告などに見られる、フラットではっきりとした輪郭を持つ商業的イラストからの引用が多い。それらを組み合わせて不可思議なイメージを構成するのが彼の手法だ。
しかしそれはシュルレアリストがコラージュにおいて志向する、“支離滅裂な偶然の組み合わせによる理性を超越したイメージの創造、意味や目的の解体”とは方向性が微妙に異なっている。
ユアサは既存のイメージを組み合わせてた上で、そこに架空の文脈と物語をコラージュするのだ。
この方法論はユアサエボシの偽史にも通底している。彼は歴史上の事実を嘘でねじ曲げる訳ではなく、美術史や記録の中に空白や解釈の余地を見つけると、まるでパズルのピースを埋めるように、本当にあったかも知れない架空の物語をはめ込んでいく。(だがその結果、ユアサエボシは美術史に全く影響を与えなかった存在:三流画家という設定になるのだろう)
例えばユアサはこの様に作品解説(解釈)している。
黒い紙芝居シリーズ《娼家 》
25.7㎝×36.4㎝ 1965年頃
売春宿の壁にはフェリシアン・ロップスのエロティックなドローイングが貼られている。ベッドに横たわっているドラゴンは外を見つめているのか。女性をドラゴンに見立てユアサの女性に対するトラウマを含めた畏怖の念を表した作品とされている。
娼家の小屋のベットに、縮尺のあっていない記号的なドラゴンが横たわっている絵画である。ユアサがコラージュした個々のイメージが持つ意味が画面上で衝突すると、なにか別の文脈や解釈可能性が生まれるのだ。
この方法論はシュルレアリストよりも、どちらかと言えばロバート・ラウシェンバーグらのネオダダ作家に近い。ラウシェンバーグは一見あべこべなオブジェクトの組み合わせによって、具体的な表現をすることなく、鑑賞者に文脈を想像・解釈させることで政治的メッセージを間接的に伝えることを得意としていた。
ただし、最終的な解釈は鑑賞者に委ねるラウシェンバーグと異なり、ユアサは作品解釈までも架空の文脈や意味を組み合わせて制作し、キャプションという形で作品にコラージュしようとしている。
作家イメージの演出
彼は上記のように、制作者という立場からの作品解説をせず、第三者による解釈という体裁で作品のキャプションを書いている。架空の物故作家を紹介するという設定によって自身の作品に対する説明責任を躱し、個々の絵画のコンセプトに対する批評的判断もなんとなく不問とされている。
作品を通じて作家としてのバックグラウンドやアイデンティティを表現することもない。この、偶像を演じることでプライベートとパブリック・イメージを絶縁するかのような立ち振る舞いは、顔出しないまま活動して人気を獲得している、近年の若いミュージシャンやVtuberを彷彿とさせる。
現実の自分から切り離されたアーティストとしてのアバター(分身)を生み出してそれをプロデュース・プレイ(演出・演技)する、プレイヤーと裏方の側面を併せ持った活動形式である。
現代において作品制作という言葉の意味は変わりつつある。ブリオーが指摘するようにオリジナルとコピー、制作と編集の境界線はずっと前から曖昧だが、現代はリアルと虚構の境界線すら誰も気にしなくなってきている。真実を知ることよりも、想像の余地が残されている方が魅力的に映るのだ。そのため偶像的なキャラクターの演出も、今や作品制作とブランディングにおいて重要な要素となりつつある。
このようにユアサエボシは、近代日本美術史を参照しつつレトロなイメージ扱っている一方で、2020年代における作家像という概念の変化を同時代的に体現しているアーティストのひとりだと言えるのではないか。
※ニコラ・ブリオー著:ポストプロダクションを引用した部分の原文
Since the early nineties, an ever increasing number of artworks have been created on the basis of preexisting works; more and more
artists interpret, reproduce, re-exhibit, or use works made by others or available cultural products.
This art of postproduction seems to respond to the proliferating chaos of global culture in the informationage, which is characterized by an increase in the supply of works and the art world's annexation of forms ignored or disdained until now.
These artists who insert their own work into that of others contribute to the eradication of the traditional distinction between production and
consumption, creation and copy, readymade and original work. The material they manipulate is no longer primary. It is no longer a matter
of elaborating a form on the basis of a raw material but working with objects that are already in circulation on the cultural market, which
is to say, objects already informed by other objects. Notions of originality (being at the origin of) and even of creation (making something from nothing) are slowly blurred in this new cultural landscape marked by the twin figures of the DJ and the programmer, both of whom have the task of selecting cultural objects and inserting them into new contexts.
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