存在Xに出会いたい自分とそうさせてくれないクソみたいな人間社会
1週間一緒に生活すれば、学校で会ってた仲のいい友達でも、合う合わないがわかる。
これは高校3年生の時に仲良い友達と免許合宿に行って感じたことだ。
本当に合う友人は1週間いても居心地がいい。
でも仲がいいと思っていたけど合わない友人は1週間いるとわかりだす。なんか居心地が悪いなと。
自分で言うのもなんだが、誰でも素を出せるし、誰とでも仲良くなれる。
でも、一緒に生活しながらという条件がつくと、誰でもではなくなる。当たり前なことだが。
石垣島に1週間きている。
部活を4年間、一緒に頑張り続けた部活仲間だ。これからでいうところの仕事仲間というべきなのだろうか。
そんな彼らでもプライベートで喧嘩をする。でもその喧嘩は何かと気持ち悪い。
仕事仲間同士のプライベートの喧嘩は言いたいことは言えない。真正面からはぶつからない、というかぶつかれない気がする。
恋人・友人の喧嘩と仕事仲間の喧嘩。何が違うんだろうか。
恋人と友人はプライベートの喧嘩で、もし亀裂が入ってもそのまま平行線でも最悪生きていける。別に今後一生交わらなければいいから。失うものはその恋人と友人だけだ。
でも仕事仲間は違う。
仕事に支障をきたすから嘘でも仲のいいふりをしておかなければいけない。人間は社会的動物なので、社会からはみ出ることを極端に恐れる。
もし仕事仲間と亀裂が入ったとすると、そのどちらかが何十人もの仲間を失い、社会からはみ出る。仮に失わずに済んだとしても彼らの周りは気を使い、課長はしれっとどちらかを転勤させるだろう。
だから結局、そういう仕事で合わない人は、関わるべきじゃないんだと思う。
この社会の奇妙なところは、本来関わるべき人じゃない人を「仕事仲間」として受け入れなければいけない部分だ。
恋人も友人も選択権はある。別に一緒に居たくない人と無理に恋人や友人になる必要がないし、だからこそ遊びに誘わない。
でも、仕事仲間は選択権がない。上司に同期に飲みに誘われたら、いやでも行かないといけない。
そして仕事仲間っていうと急に会社の人全員が仲間になってしまう。
中には関わらない人、嫌いな人がいる。そんな人を仲間とは呼ばない。そんな誰でもかんでもなれるような存在ではない。
というかそもそも仲間って抽象的で曖昧だなと思う。
だから、僕たちの考える仲間は仲間という一言には表さず、存在Xという名前のない存在とするべきだ。
わざわざ言語化する必要のない存在だと思う。
そもそも、僕は
遊びは友人と、デートは恋人と、仕事は仕事仲間と、
するものだと思う。
仕事仲間と遊んだり、友人とデートをしたり、恋人と仕事をしたり、
というふうに、この3つのいずれかが重なることはなかなか難しいのだ。
だが、たまに、重ねても何も衝突が起こらない人がいる。
冒頭に述べた1週間居ても居心地がいい人だ。
そして、その存在こそが存在Xの正体だ。
もし恋愛だけならば、好きピなだけかもしれない。
もし仕事だけならば、最高のビジネスパートナーなだけかもしれない。
もし遊びと重なっているならば、大親友なだけかもしれない。
でもいずれかが重なれば、それは名前のない存在Xとなる。存在Xという存在は自分の人生を色とりどりにしてくれる。自分の生きる意味を見出してくれる。
だからこそ存在Xに囲まれて生きていきたいな。という社会に出る直前の学生のアマイアマイ夢物語でした。