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【感想文】Inverted Angel【神ゲー】
「他人のプレイしているところが見たい」と友人に乞われてプレイしたゲーム。その友人はこのゲームをプレイしている配信者の配信を巡回してるらしい。曰く、人によって考え方が違ってて面白いとのこと。
読み応えあり考察しがいありな重厚なテキスト、伏線や矛盾を幾重にも仕掛ける巧みさ、そして何より彼女ちゃんがカワイイ!こういう会話ができる彼女いいよね……作者に対してはただただ感謝の念に堪えない。
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以降はネタバレ注意でお願いします。
素朴な感想
友人とプレイについて話して「自分の考え方は普通だ」という考えがいかに馬鹿げているかを実感する。自分が最初にたどり着いたエンド『Higher Girl Pudding』は最初にしては珍しいルートらしいことが判明したり、友人はすぐに正解した問いに自分は手こずったりした。ちなみに最後にたどり着いた通常エンドは『Cheesecake Hallucination』でした。他のルートとごっちゃになったりしてなかなかたどり着けなかった。
「私悪い子じゃないのに」って言うの、すごく好きなんですよね。自己像を曲げるほど相手のことが好きみたいな……彼女ちゃんみたいなビジュアル(地雷系?)に言わせてるのがまた良い。BGMと演出も好き。不穏な音楽にグリッジが走る。
ひとつだけ文句をつけるとしたら彼女ちゃん=弟ルート、男の娘ルートがなかったこと。絶対あると思ったのに、あって欲しかったのになかった🥺
個々のシナリオで彼女ちゃんは別人なのだけれど、同一のビジュアルを維持することでプレイヤーは彼女の中に多層的な人格を錯覚する。これは一種の演劇なのだ。ヨルゴスランティモス監督の映画『憐れみの3章』を思い出した。
好きなエンド
一番好きなエンドは『Rusty Caramel Cage』(電波)。一番ピンとこなかったのは『Scarlet Icecream』(培養肉)。
友人曰く、2つのエンドの差異を見いだせない人もいるらしい。どっちも彼女ちゃんが狂っちゃう。が、自分はこの二つは決定的に違うと思う。偏執的な想いに事物が介在しているかしていないかを最重要視する。
思うに、自分は肉体的なものに対するフェティッシュが弱いんだな。
培養肉を食べたからといって本物の味が気になる心理も、自分の培養肉を食べてもらった事実が最も深い理解ないし愛し方になるという心理にも納得できない。だってモノはモノじゃん!
培養肉を食べるという行為を、好きな人が吸ったタバコの吸い殻とか、鼻かんだティッシュ、果ては爪、髪の毛、血液への執着の延長線上にある概念として捉えている。その人が使った物とその人自身(の構成物)の隔たりは程度の問題に過ぎないと思う。
「肉体を食べる/食べさせる」を言語を超えた理解へ至る道程とみなす視線の存在を、認識はできるが共感できない。
原体験がないんだな。きっかけの不在とその帰結としての想像力の欠如。
フェティッシュといえば小川洋子を連想する。氏の小説は結構好きなのだけれど(お気に入りは『バタフライ和文タイプ事務所』)、逆にそれは自分には想像もできない景色への憧れなのかもしれない。
『Rusty Caramel Cage』ではそういった事物は介在しない。彼女ちゃんと時分は行為でつながっている。彼女ちゃんは自らの頭の中で作り上げた自己幻想に執着している。共同幻想を憎んでいるが同時に利用している。その幻想に対幻想以外は必要ない。わたしとあなただけでいい。畢竟論理はその役目を放棄し、はたから見れば狂気と映る。これがいいんだな。電波な文章好き好きドラゴン🐲
考察
自由入力形式であることに意味を見出す
最後のエンド『Inverted Angel』は、作者の告白(Confession)である。
まず、それはこのゲームに関して当然ありうべき意見──自由入力じゃなくて選択肢でいいじゃん──への回答である。その意見は作者も当然認識している。彼女ちゃんに「いつの間にか、選択肢なんか与えられちゃうみたい」「大体の場合は、なんとなく自分の頭の中で選択肢みたいなものを無意識に持ってる気がしない?」と言わせているし、なにより彼女ちゃんは天使になりたいのだ。白い羽根はあらゆる思想、関係から自由であること、ゲーム的には従来のノベルゲーム的選択肢から自由であること、転じて従来のノベルゲームにはない体験をプレイヤーに与えることを指す。彼女ちゃんを天使にすることは作者の挑戦なのだ。この挑戦は成功しているだろうか?彼女ちゃん(作者)は天使になれないことを知っている。関係から、選択肢から逃れられないことを認識している。
しかし、私は自由入力形式に意味を見出したいと思う。
このゲームは従来のノベルゲームとは違ったゲーム体験を与えてくれる。それは友人がそうだったように「他人のプレイを見たくなる」ことだ。他人はどう考えるかに目を向けさせてくれるのだ。これは自由入力形式ならではだと思う。そして従来とは異なった意味でとても実況向けなゲームだと思う。
「従来とは」の説明のため、ここで現在のゲームを取り巻く環境についての私見を述べる。昨今のゲームは配信や動画で実況されることを織り込んで作られている。実況されることが売上に少なからぬ影響を及ぼす。実況者のリアクションを引き出す仕掛けが随所に散りばめられており、エフェクトは画面映えするように設計されている。ゲームは実況者の魅力を引き出し、引き立たせるものでなくてはならない。このときゲーム─実況者─視聴者の3者関係は閉じている。視聴者はその実況者のプレイを楽しみ、他の実況者のプレイを見ることはしない。よしんば見るとしても、それはその実況者が好きだからでゲームプレイが見たいわけではない。
Inverted Angelのプレイ体験は他者に開かれていると思う。他人がどのように考えるかを知りたくなる。上記はいささか乱暴な論理であることは自覚した上で、そう思う。他人がどう考えるのかをかなりあからさまな形で発見できる。自由にテキストを入力させることがこの効果を生む。そしてこの効果は従来の選択肢に基づくノベルゲームの形式よりも強い。この意味で作者の挑戦は成功していると思う。
ヤンデレの超克
彼女ちゃんは言う。
……でもさ。
同じ世界なんて見えないって分かりきった上でね
それでも誰かが、例えば君が
君が、私の見ている世界を分かったつもりになろうとしてるって信じられて
私が、君の見ている世界を分かったつもりになろうとしてるって信じられたら
その上で、その果てでも私の羽根が何色でもないままで生きていられたら
私、死んじゃってもいいなって思えるの
この告白をした彼女ちゃんは通常「愛」と聞いて想起されるもの──お互いがお互いを理解し尊重しているような──を断念している。
我々は理解し合えない。同じ世界を見ることはできない。それでも自分のことをわかってくれる、自分を受け入れてくれる運命の人なら、"あなた"なら……
『Inverted Angel』以外のエンドでの彼女ちゃんは、大きくはこの認識のもとにある。私は『Rusty Caramel Cage』が好きなので、ざっくりヤンデレと言うことにする。
『Inverted Angel』では、その他のエンドの外側に立ち、各ルートでの彼女ちゃんとプレイヤーの関係を相対化している。特別で唯一だった関係は、ありえた関係のひとつに過ぎなくなる。『Inverted Angel』において、彼女ちゃんは「愛」を断念せざるを得ない。それは地面がなくなるような、深い闇の中に落ちていくような感覚かもしれない。
しかし……しかし、"それでも"彼女ちゃんは関係を諦めない。
「決して分かりえないことをお互い了解しつつも分かろうとしていると信じ合っている関係」に望みを託す。同じ認識の地平に立ち、その上で信じ合っていると確信する(これはおそらく同じ意味である)。ヤンデレを断念し、それを乗り越えたのだ。この後に続けて彼女ちゃんが言うように、これは「恋愛感情」ではない。きっと「恋愛感情」の先にある。いわばネオヤンデレと言っていいだろう(?)。
この告白は実存に深く切り込んでくる。彼女ちゃんは中途半端に哲学をかじったような厭世的自意識過剰系陰キャキモキモオタク(私)のファムファタルなのだ。彼女ちゃんが画面から出てきてくれたらオヂサン死んじゃってもいいヨ😜むしろオヂサンがそっちに行っちゃおっカナ🤩❗❓