VTuber とリスナーの関係ついて
はじめに
VTuber は生身の人間が仮想の身体(アバター、イラストや3Dモデル)で仮構することで成立する。典型的な VTuber は名前と設定を持ち、その設定に従ってなんらかの行為(配信などの活動)をする。設定に従ってふるまうことは、一般にロールプレイ(以下RP)と呼ばれる。原理的には VTuber の活動はすべてお芝居ということになる。
この記事では、VTuberの設定についての考察からひとつの構造を提示し、その構造を通じて VTuber とリスナーの関係の説明をこころみる。以下では、その VTuber を演じる主体(人間)をライバー、その VTuber を鑑賞する主体群をリスナーと呼ぶことにする。リスナーが集団としてのリスナーであることに注意してほしい。また、ライバーは基本的に一人の人間を想定するが、第三者(箱の運営など)を含めたライバーを想定しても基本的には変わらないはずである。
設定の存在が意味するところ
設定に従って行う演技であるということは当然、演技ではない行動も想定される。ここで2つ重要な指摘を行う。
まず、「演技ではない行動」はリスナーからは判断できない。リスナー側から見えるのはあくまでも演技でないように見える行動である。
つぎに、設定とは一義的なものではない。例えば、「清楚」というのは、そういうふるまいや雰囲気を一単語であらわしたもので、人によってそのふるまいは微妙に異なる。
活動を続けていると、必ずライバーの考える設定とリスナーの考える設定が異なる場面が発生する。このとき、VTuber という幻想に対して、ライバーとリスナー双方から解釈をこころみている。重要なのは、ライバーだけが幻想を書き換えうるのではなく、ライバーとリスナー両者が幻想を書き換えうるということである。ライバーとリスナーの関与の度合いは非対称的であることに注意してほしい。引き続き幻想という言葉を使うが、幻想=概念=キャラと読み替えてもよい。
初期設定の更新
VTuber 活動とは、「その VTuber 」という幻想をライバーとリスナーが結託して書き換えていく運動と見做せる。活動当初に「清楚なお嬢様」と文で書かれていた設定は、ライバーとリスナーによって「清楚」の文字が消されたり、あるいは別の設定文が付け加えられたりする。この更新は暗黙のうちに行われ、初期設定の文が更新されることは(ほぼ)ない。新しくリスナーに加わった主体は、その暗黙のうちに更新された設定に戸惑うかもしれない。
また、前述の通りライバーのほうが関与の度合いが大きいので、活動を続けるにつれ幻想はライバーの影響を大きく受けることになる。リスナーのうち、ある主体はその更新に異議を唱えたり(いわゆるお気持ち)、リスナーから抜けるかもしれない。
VTuber、ライバー、リスナーの関係
以上を踏まえて、ライバー、リスナー、 VTuber の三者の関係を以下のように図示できる。これはモデルであって、現実がこの通りなわけではないことに注意してほしい。VTuber を<>で囲んでいるのはそれが幻想であることを表している。矢印は関与をあらわし、太さを度合いに見立てている。
ライバー → VTuber
VTuber の身体(アバター)や初期設定をつくるのはライバーである。ライバーは VTuber の身体を直接操作する。VTuber の声はライバーの声である。活動で何をするかのイニシアチブをもつのもライバーである。従って VTuber という幻想の大部分はライバーによって形づくられる。
リスナー → VTuber
ライバーと違って直接 VTuber を操作することはできないが、リスナーがいないと活動は成立しない。活動の感想を送ったり、ファンアートを創ったりして幻想に関与する。それはライバーに向けての行為ではないのかという疑問があるかもしれないが、これは、「 VTuber という幻想に向けての行為で変化しようとする幻想をライバーが受容/拒絶する」と解釈する。現実にはどちらに向けての行為かを厳密に区別することは難しいことが、それについてはまた別に論じたい。
ライバー → リスナー / リスナー → ライバー
ライバー → リスナーの行為についても同様に「 VTuber という幻想に向けての行為で変化しようとする幻想をリスナーが受容/拒絶する」と解釈する。
活動が成立するためには「対リスナー・対ライバーの矢印は存在しない」とする。繰り返すが、これはあくまでモデルであって、現実にはこのような厳密な区別はできない。
いくつかの具体例
ここまで抽象的に論じてきたが、いくつか具体例をあげて現実に起こりうる事象の説明をこころみる。この構造が最も前景化するのは、二者のもつ幻想が大きく解離しようとしたときである。例えば問題が起きたときである。
RP が「崩れる」こと
俗にいう「RP が崩れた」場合を考えてみる。これは「(設定ではない)ライバーの行動形式が露呈した」と言い換えられる。リスナーの側から記述すると、「演技ではない(ように見える)行動を観測してしまった」となる。
リスナーは、これを歓迎する場合もあれば否定する場合もある。前者ではそれは面白さやVTuberの新たな魅力の発見として消費されるだろう。常態化すれば幻想を更新することになるだろう。後者では幻想の変化に対する拒絶反応がリスナーの「お気持ち」として表出するだろう。
リスナーに歓迎されることを期待して、意図的に「RPを崩す」こともありうる。「VTuberが現実の生身の身体を仮構すること」、いわゆる「超美麗3D」も広義の「RP 崩し」に相当する。「超美麗3D」については以前に別の観点で説明をこころみたので参照されたい。
ライバーの交代
ライバーが交代するような事例を考えてみる。これは十中八九許容されない。それまでにライバーとリスナーが共有していた幻想と新たに提示されるであろう幻想が違いすぎるからだ。新しいライバーが配信した瞬間、あるいは交代発表の報道に触れた瞬間、それまでの幻想が別の幻想へ変化しようとする。これに強い拒絶反応を示した結果が炎上となる。
リスナーのガチ恋
リスナーのガチ恋について考えてみる。問題が表面化するのは、リスナー → ライバーの矢印が、ライバーから認識されてしまったときである。リスナーが表出する情熱が、 VTuber という幻想に向いているとライバーが認識する(できる)場合は問題ないが、その情熱が自分というライバーに向けられたものであると認識してしまったとき、構造が崩れる。おそらくライバーが拒絶するか、他のリスナーが当人を排除するだろう。
おわりに
まとめ
「VTuber とはライバーが設定に従って演じるものである。」という認識から出発してひとつのモデルを提示し、それを用いて VTuber 周辺で起こりうる現象の説明をこころみた。3例のみ論じたが他の現象も規模の大小にかかわらず説明できるとおもう。
今後の展望
ひとまず提示したモデルを軸にVTuber まわりで生じうる事象に説明をこころみたい。それを通じてモデルを補足したい。
「幻想」という言葉でピンときた方がいるかもしれないが、このモデルは吉本隆明の共同幻想の概念に由来している。この記事は、<VTuber> という共同幻想と、<ライバー>と<リスナー>という共同幻想(自己幻想ではないことに注意!)の関係を論じたものであるということもできる。ライバーとリスナーを自己幻想ではなく、共同幻想としたのは、それが、ライバー/リスナーという役割であると考えるからだ。わたしの考えでは、リスナーから VTuber を鑑賞するとき、<VTuber>、<ライバー>、<生身のライバー(身体性)>と3つの幻想に目線が向く。これが VTuber 流行以前のアニメ、マンガ、アイドルをはじめとする「オタク」文化との決定的な違いであり、この重層性によって、「VTuber」文化が「オタク」文化と、どのように接続されるのかという文脈で批評の対象になるとおもっている。というわけで、これについても書きたいとおもっている。
また、山野弘樹氏が展開している「VTuber の哲学」をはじめたとした先行研究との関連についても書きたい。現時点でのわたしの関心は、主に「 VTuber 文化のサブカル史的な位置付け」と「VTuber とリスナーの(良好な)関係」にある。哲学とは一見無縁に見えるが、必ず通じる部分があるはずである。サーベイが苦手なので、上のテーマで、すでに何か文献や記事があればコメントで教えてくださいお願いします。
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