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自分のいままでのキャリアを振り返ってみたら、「ポートフォリオキャリア」だった件。

ブルーハーツの「夢」って曲に「あれもしたい、これもしたい」って歌詞があります。
これはいまも昔も変わってません。

そうすると、今後このnoteを自分のやりたいことをまとめ、ディレクションの手段として活用していこうかなと思ったのです。

なので、今一度自分のいままでの経緯をある程度の時系列に沿って振り返ってみてもよいのかなと思い、プロフィール兼内省の意味も込めて書いてみました。

そうしてわかったことは、自分のキャリアは「ポートフォリオキャリア」ってものだったんだなとの発見。

やっとしっくり来たのです。


2004年: 作業療法士として働く(すぐにバンドを組む)

 2004年、21歳で作業療法士として働き始めました(3年制の専門学校卒なので)。資格を取って、一般病院に就職。「よし、これから医療職としてバリバリ頑張るぞ!」なんて思ったのも束の間、業界の真面目すぎる雰囲気に早くも違和感を覚えます。

「なんか堅苦しいな…この空気、俺には無理かも?」と感じたんですよね。

 そんなある日、近所の音楽スタジオで見つけた「バンドメンバー募集」の張り紙に運命を感じます。
これだ!とばかりにすぐに連絡を取り、3ピースパンクバンドを結成。日中は病院でリハビリ業務に励みつつ、夜はスタジオに入りびたりでギターをかき鳴らす生活が始まりました。
 今思うと臨床1年目で脇道に逸れるちょっと不真面目な医療職だったと思います。
そして、勢いで自主制作CDを作ったり、小さな野外フェスに出演したり。すでに「本業なんだっけ?」状態でした。
 でも、この時期はとにかく楽しかった!「自分が本当に好きなことに夢中になれる」ことがどれだけ大事か、肌で感じた時期でした。


2006年: 家庭と仕事と音楽活動の三足のわらじ(でもほぼ音楽活動)

 そんな生活も2年くらい経過、結婚(&妻の妊娠発覚!)を機にバンドを解散しました。さすがに家庭を持つとなると音楽活動も一旦ストップしなきゃ…なんて思ったのもつかの間、長女の誕生で一時父親モードに切り替わりつつも、やっぱり音楽への未練が断ち切れない。

「もう一回だけバンドやりたい!」と妻に土下座で頼み込み、再びバンド活動を再開しました。

 新しく組んだバンドはスクリーモ・ポストハードコアバンド。今度はリーダーとして、方向性の決定からメンバー募集、曲作り、ライブのブッキングや演出プロデュースまで全部自分で仕切るスタイル。
 作業療法士の仕事をこなしながら、土日にはライブ活動、平日はスタジオで練習。家庭と仕事と音楽を両立する「三足のわらじ生活」に突入しました。
 結果、このバンドでは自主制作CDを2枚リリースし、地元ラジオや深夜テレビにも出演。家族がいるにもかかわらず、全力で突っ走る姿に、周りからは呆れられつつ、「好きなことを全力で」のスタイルは良くも悪くも崩さず…。とはいえ、妻に家のことをかなり任せていたので、いまだにちょっと頭が上がりません(笑)。


2008年頃: インディーズレーベルを立ち上げる(DIY精神のみで)

 バンド活動が盛り上がるにつれ、「自分たちの音楽をもっと広めたい」「良いと思ったバンドを売り出したい」と考えるようになり、ついにインディーズレーベルを立ち上げることにしました。今考えると、「事業計画は?マネタイズは?マーケティングプランは?」って当時の自分に突っ込みたい気持ちもありますが…。音楽業界のことなんて全然知らない状態からスタートしたので、調べものと手探りの連続でした。

 まずはCDをプレスするために必要な業者を探し、商工会議所に行ってバーコードを取得。そしてHMVやタワレコに置いてもらえるよう、流通業者と契約交渉を進めました。何もかも初めての経験でしたが、「面白いことをやりたい!」という気持ちだけで突き進む毎日。もちろん日中は作業療法士として働いているので、夜な夜な作業をするのが日課でした。

営業活動では地元のCDショップを回り、都内の店舗リストを片手に片っ端から電話交渉。この頃は、家庭・仕事・音楽のどれかが崩壊しないか心配になるくらいのスケジュールでしたが、なんとか乗り切りました。このレーベル経験を通じて、「好きなことを形にするためには、情熱と行動力が必要」という教訓を得ましたね。


2010年:イベント企画とライブハウスの運営(3時間睡眠生活)

この頃になると、バンド活動だけでなく、ライブイベントの企画や運営も手がけるようになりました。「もっと地元の音楽シーンを盛り上げたい!」という思いから、月1回ペースでイベントを企画。全国のバンド、アーティストに出演を依頼し、チラシのデザインやSNS運用、集客まで一手に引き受けました(スケジュールの関係で断られましたが、マキシマムザホルモンの事務所の方は丁寧でした)。

さらに地元で新規ライブハウスの立ち上げに関わることになり、ほぼ「雇われ店長」のような形で運営にも携わるように。毎晩ライブハウスに顔を出し、朝方に帰宅して仮眠を取り、日中は作業療法士として働くという3時間睡眠生活が続きました。この頃、第2子が生まれるという家庭の大イベントもありましたが、なんとか勢いで乗り切っていたような気がします。

今振り返ると、当時の自分は完全にエネルギーの塊でした(若さゆえの)。でも、体力的、精神的にはさすがに限界が近づいてきたこともあり、「この生活をいつまで続けられるんだろう?」と不安を感じるようにもなりました。。


2011年: 音楽活動の停止と東日本大震災(ちょっとおとなしくする)

2011年、あれだけ情熱を注いでいた音楽活動にストップをかけることにしました。理由は単純で、「もう限界…」でした。過密スケジュールが続き、睡眠不足とストレスで心身ともにボロボロ。「これ以上突っ走ると自分が壊れる」と感じて、一旦すべてを手放す決断をしました。当然ながら、バンドメンバーや音楽仲間との間で意見が衝突する場面もありましたが、自分の健康が第一と考え、音楽活動の一切を終了しました。

そんな矢先に、東日本大震災が発生。生活が一変しました。作業療法士として、も非日常の業務に追われる日々がスタート。家庭でも妻と子どもたちの不安を取り除くために全力を尽くし、音楽どころではない現実が押し寄せてきました。この時期は「日常を取り戻す」ことに集中し、地に足をつける大切さを改めて実感しました。


2011年:アクセサリーブランドの立ち上げ(妻と共に起業)

 しかし、そんな中でもじっとしていられない性格が再び顔を出します。震災後、しばらくしてから歯科技工士である妻が転職を考えていることをきっかけに、「起業」という話に。
 そこで立ち上げたのが、シルバーアクセサリーブランド。「銀歯を作る技術があるなら、アクセサリーも作れるよね?」という無茶な発想からスタートしました。
 デザインは妻と一緒に考え、彼女が工房にした自宅の一室でアクセサリーを制作。自分はブランドのホームページ作成、チラシ作成、商品の写真撮影、全国のアクセサリーショップへの営業、雑誌掲載のための広告代理店への連絡などなど行っていました。
 結果、様々な方のご協力もあって、地元だけでなく都内や全国の店舗のアクセサリーショップやセレクトショップに置いてもらうことになりました。
雑誌にも何度か掲載もされました。

あ、もちろん、この期間も作業療法士としては働いています。


2011年:お水の世界へ足を踏み入れる(源氏名は内緒)

 アクセサリーブランドを運営していく中で直面したのが、「営業って難しい…」という現実。地元のセレクトショップやアクセサリーショップに商品を置いてもらうために何度も足を運び、営業トークを磨いていきました。ただ、それでも売り上げが思うように伸びず、「どうしたものか」と悩む日々。
 そんな時、妻からとんでもない提案が。「夜の商売(ホスト)をして、そこでお姉さんたちにアクセサリーを営業するのはどう?」というアイデアでした。最初は「いやいや、それはないでしょ」と思ったものの、結果的に知人の紹介でホストクラブで週末だけヘルプキャストとしてお手伝いすることに。もちろん、源氏名付きです(笑)。
 お客様とお酒(ドンペリetc)を飲みながらアクセサリーを見せ営業をするという、ある意味で「二刀流」の営業スタイルを確立しました。結果3年弱この生活をすることになります。


2012年頃:司会業の案件も増えてくる(DJとしても)

 2012年頃、これまでの経験が妙に活きてきたタイミングがありました。それは、「司会業」の仕事をいただくようになったことです。もともとおしゃべりは好きでしたが、ホスト時代の経験が背中を押してくれたんですよね。初対面の人との会話や場を盛り上げるスキルを学んだおかげで、婚活イベントの司会や友人、知人の結婚式の司会など、次々に依頼が舞い込むようになりました。

 婚活イベントでは、参加者の緊張をほぐし、和やかな雰囲気を作るのが自分の役割。何度も「カップル誕生の瞬間」に立ち会うことができて、裏方としてもかなり楽しい仕事でした。
 一方、結婚式の司会では、披露宴を盛り上げるだけでなく、しんみりする場面では感動的な空気を作り出すことも大切です。最初は緊張しましたが、やっていくうちに「司会業は自分の天職かも?」なんて思うほど、自信がついていきました(笑)

 さらに、ディスコイベントの立ち上げにも関わりました。最初は企画側として関わるだけのつもりが、いつの間にかDJとしても現場に出るように。。
このころからDJの機材などにも興味を持ってきたような気がします。

この頃の自分を振り返ると、「一体何屋さん?」状態でしたね。作業療法士として働きつつ、司会業やDJ、イベント運営まで手を広げるなんて、ちょっと常識的ではないなと。
でも、自分にとってはどれも「楽しいからやる!」という純粋な思いから始めたものでした。
その結果、人と関わる仕事の面白さをより深く知ることができ、次のステップにつながる貴重な経験となりました。


2013年頃:V系バンドのマネージャーで全国行脚(高速バスや青春18きっぷばかり)

 同時にアクセサリーの営業もかねて、様々なアーティスト、バンドとのコラボを頻繁に企画していたんですね。もうそのころはマーケティングもなにも考えていなかったので、自分が気に入ったバンドへ連絡をし、コラボ企画を提案するという勢い…。
 結果関東で活動しているビジュアル系バンドとコラボを打つことになり、それが縁でそのバンドのマネージャー業務まで行わせていただくことになったわけです。当時そのバンドは事務所にも所属したのでその事務所社長とライブへの同行やイベント企画なども行っていました。

 このころは月に何度も都内に出張していた気がします。お金もないから節約のため高速バスや青春18きっぷを駆使して移動してましたね。


2015年頃:ミュージシャンの体調不良、メンタル不良の多さに気づく

 アクセサリー事業を運営しつつ、様々なミュージシャンやバンドの方と関わる機会が増えると同時に、多くの体調不良やメンタル不良を抱えていることにふと気づくことがありました。
 ギタリストの腱鞘炎、ドラマーの腰痛、大音量による耳鳴り、売れないことへの不安感からの鬱病などなど。

あれ?これ作業療法の対象なんじゃね?って気づいたんですよね。

なので、ちょっとバンド関係の人向けにフィジカルとメンタルのコンディショニングの相談を受けるようになったのもこのころです。

ライブハウスの控室で肩甲下筋の筋膜リリースを行うなど、傍から見たらとんでもない光景だったと思います(笑)

でも「他業界と作業療法をつなげる」という新しい視点が芽生えたのはこの頃だったかなと。今まで別々だと思っていた世界が、実は深く関わり合えることに気づきました。この発見が、自分の今の考え方、アイディアにも大きな影響を与えている気がします。


2017年頃:ネットでの情報発信を軸に作業療法に戻る(でも「普通」は目指さない)

 2017年ごろ、アクセサリー事業や音楽活動を縮小し、本格的に作業療法士としてのキャリアに戻ることを決意しました。でも、ただ昔に戻るのではなく、「自分だからこそできる作業療法」をイメージしてました。
 音楽活動やバンドマネージメント、アクセサリー事業、司会業やDJさらにはホスト経験(!)まで、これまでの寄り道で得たものを全部使って、「作業療法の枠を広げる」ことが自分の新しいテーマになったんです。

 最初に始めたのは、ネットでの情報発信です。「作業療法士がこんなこともできるんだ」という事例をブログやSNSを通じて紹介しました。ミュージシャンやアーティスト向けに、身体的・精神的な健康管理の重要性を発信することで、自分の活動が徐々に注目されるようになりました。
 例えば、「長時間の演奏で肩こりがひどいドラマーのためのストレッチ法」とか、「ツアー中の精神的な負担を軽減するリラクゼーション方法」といった具体的なコンテンツを発信しました。

 また、学び直しにも力を入れました。「自分の経験だけじゃなく、最新の理論や技術を知ることが必要だ」と感じ、研修や勉強会に積極的に参加。いままできちんとした勉強をさぼっていた分を取り戻そうと必死で研修会に参加するようにしてました。
 そこで得た知識を現場や情報発信に取り入れることで、自分の活動がさらにブラッシュアップされました。気づけば、単なる作業療法士ではなく、「作業療法の可能性を広げる人」としての新しい役割が見えてきました。


現在(作業療法を軸に活動)

もう字数がだいぶになってきたので多少すっとばしますが、そういう生活をしながら巡り巡った結果、作業療法の可能性に気付くんですね。

作業療法ってもっと支援対象を広げられるんじゃない?
もしかしてすごい仕事なんじゃない?

勤め始めてすぐに、リハビリ、医療業界のあまりの生真面目な業界の雰囲気に嫌気がさして、音楽に逃げて脇道にそれました。

行き当たりばったり、その場の勢いとノリだけで突っ走ってきて、結果ボロボロになってもやっぱり突っ走る。

でもそうやって様々な経験をすることで、巡り巡って気付くんですよね。

自分の根幹は作業療法士なんだなと。
セラピストなんだなと。

だいぶ遠回りなのかもしれませんがあらためて思ったわけです。


今後(作業療法士の幅を広げるって役割かな?)

今後の自分テーマは、「作業療法をもっと広い視点で捉えること」かなと。具体的には、領域にこだわらず様々な方の健康支援プログラムの開発をイメージしています。
臨床で関わる障害を持つ人、高齢の方はもちろん、ミュージシャンやクリエイター、様々な身体、精神的な悩みを持って働く人など。

これまで「作業療法」とは関係なさそうだった人たちへもアプローチできるような支援プログラム開発を意識しようかなと思ってます。

そうすることで「作業療法士=病院や施設で働く人」という固定観念を打ち破り、もっと活躍できる場を広げられたらなと。挑戦ですね。

さらに、地域イベントや学校支援事業も視野に入れて進めています。「生活を豊かにするためのサポート」という視点で活動しようかなと。


現在のモットー:「やりたいことは全部やる!」

遠回りだらけのキャリアですが、振り返るとすべてが繋がっています。音楽に夢中になった日々、アクセサリー作りで駆け回った日々、ホストクラブでの「営業トーク」を学んだ経験。それぞれが自分を形作り、作業療法士としての幅を広げる大事なピースになっているんだなと。

今後の目標は、「作業療法をもっと身近なものにすること」。それは、学会で発表するような専門的な内容だけでなく、普段の生活の中で役立つ情報を広めることも含まれています。そして、自分自身も挑戦し続けるために、学び続けることを忘れないつもりです。

ただ、ひとつだけ言いたいのは、「寄り道も悪くない」ということ。むしろ寄り道があったからこそ、今の自分があると感じています。これからも、自分のペースで、好きなことを形にしながら進んでいこうと思います!

「遠回りこそが俺の一番の近道だった」(byジャイロ・ツェペリ)
ってのは本当にそうなんです。

参考画像:ジョジョの奇妙な冒険 スティール・ボール・ラン(SBR)

やっと見つけた「ポートフォリオキャリア」って言葉

ずっと悩んでいたんです。こういった自分の経験、キャリアってなんて呼ぶのかなって?

マルチキャリア?
T型キャリア?

なんとなくしっくりこなかったんです。
でもようやく見つけました。

あ、「ポートフォリオキャリア」なんだ!って。

そう考えたら今後のやる方向も見えたんですね!

それは2025年のバケットリストに書いておいたので、ご興味があればそちらをチェックしていただければ幸いです。

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