小学校 それは小さな全体主義?
ドキュメンタリー映画『小学校〜それは小さな社会〜』を見ました。
自分が小学校時代、「嫌だなぁ」と思っていたところが、いいところかのようにフィーチャーされていて、すごく戸惑いました。というか、軽くホラーでした……。
映画『小学校~それは小さな社会~』は、世田谷区の公立小学校を舞台に、子どもたちと教師の1年間を追ったドキュメンタリー。
山崎エマ監督はイギリスと日本にルーツを持ち、大阪の公立小で学び、その後インターナショナルスクールを経てニューヨークの大学に進学。現地で仕事を始めると、普通に働いているだけのつもりなのにやたらと褒められる経験をし、日本の公立小の教育の重要性に気づいたというのが本作品のきっかけになっています。
たしかに、世界的に見ても社会秩序の乱れへの不安感は非常に増しています。自由放任や個性尊重と表裏一体な能力主義、それらの副作用が一因なのかもしれません。この風潮の中で、規律と協調性を重んじる日本の公教育が再評価されるという流れはわかります。掃除や給食の配膳、6年生が1年生のサポートをするのはいい仕組みだと思います。だけど……。
とにかく先生たちが、無意味なルールを押しつけ、学校行事にやたらと「本気」「全力」「殻を破る」「心をひとつに」を求める姿には違和感しかありませんでした。
6年生の担任の先生が「厳しすぎると言われる」「時代に合ってないのかも」と漏らす場面もあります。だけど、「厳しい」「優しい」の二項対立ではないのでは?
問題は、先生が学校内において「正しい模範」であり「権力者」として振舞っていることではないでしょうか。その立場が揺らぐ瞬間がない。何より不自然だったのは、この映画にはちょっと不真面目な児童は出てきても、先生に反論したり反発したりする児童は1人もいないこと。本当にいないのか、映していないだけなのか……。
あの上履き整列チェック、「無意味だからやめましょうよ」と主張する児童は1人もいないんでしょうか?
ちょうどこの映画の直後に見たメキシコ映画『型破りな教室』は好対照でした。これも小学校を舞台にした話で、めちゃくちゃ治安が悪い地域にある成績も全国最下位の学校で起きた実話を元にしています。この映画のフアレス先生は口癖のように「先生もわからない」「間違っていい」と言う。無意味なルールは全無視して、学ぶことの本質を子供たちに伝えていく。そして「型破り」な先生の想定を超えて子供たちは成長していきます。
『小学校』の舞台となった世田谷区の公立小学校では、学校の中こそが「社会」と思い込ませることができてしまう。一方で、『型破りな教室』におけるメキシコの貧困層は、否応なく学校の外の現実社会を直視せざるをえない。そこにあまりにも大きな落差があると感じました。
コロナ禍とはいえ、学校の外との接点がほぼ描かれていないのも気になりました。自分と違う属性の人と関わる場面が少なすぎるのです。
『窓ぎわのトットちゃん』も見比べてほしい映画です。黒柳徹子さんが通ったトモエ学園が80年前、あの困難な時代に実践していたことから退行しているように思えてなりませんでした。
『型破りな教室』のレビューを見ていたら、「決して日本においては、フアレスのような教室運営は型破りではない」「いかに子どもたちの意欲を引き出すか、いかに現実と学問的内容とを結びつけて実感させるか、多くの日本の教師たちは、真摯に毎日毎時間その問題に向き合いながら、実物や実感を大切にし、子どもの問いを引き出す工夫を考え、目の前の多様な子どもたちと向き合っている」という切実な訴えもありました。
『小学校』に抱いた違和感が、日本の公立小学校の大部分には当てはまらないものであることを願いたいですが、高く評価するレビューも多く……。いまだにこういう教育が望まれているんでしょうか。
もう少し考えるために、内田良『教育という病』、上野千鶴子『サヨナラ、学校化社会』を読み返したいと思います。
(追記)
『教育という病』を読み直して考えたことを書きました。