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『野火』が描いた戦争の加害――「人を殺さなきゃならない怖さ」を見つめる

この記事で書ききれなかったことを書いておこうと思います。

SNSで『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』の感想を検索すると、「二度と戦争を繰り返してはいけないと思った」という投稿がかなり多いです。そういう意味で、この作品は「反戦映画」といえます。ただ、「なぜ戦争をしてはいけないのか」をもっと深く考えなければならないのではないか、とも思うのです。

もちろん「命が奪われるから」戦争はしてはいけない、というのはその通りです。でもそれだけではありません。自分が「人殺しになる」かもしれないという恐ろしさもあります。大岡昇平原作・塚本晋也監督の『野火』は、それを考えさせる映画でした。

上映会での塚本監督の発言、少し長いですが引用します。

Q:
 戦争とかそういう題材を扱うときに被害はけっこう大きく扱うけれども、加害の部分はあんまり描かれないことが多いです。『野火』は加害の部分がリアルに色濃く出てると思うし、敵じゃなくて味方でさえもそういうふうになっちゃうというそこがすごく芯にあり、観たときにものすごい衝撃を受けました。加害を描くのは難しく、気持ちが強くないと描けないと思うのですが、そういう思いで加害の部分を描こうと思ったのですか?

塚本:
 ちっちゃい子どものとき「コンバット!」って戦争を描いたアメリカのテレビドラマを弟と一緒に見ていたことはあるんですけど、ある時期からそういうヒロイズムみたいなもの、ヒーローって感じで戦争の映画を観るのに強い抵抗を感じるようになりました。戦争をヒロイズムで描く映画っていうのはいまだにけっこういっぱいあるんですけど、それはもうちょっと僕としてはとても受け入れられるものじゃないです。

 もう一方で戦争を悲しいとか自分たちが被害を受けるみたいなかたちで戦争の恐ろしさを描く映画はたくさんあって、それはもちろん戦争の怖さを描いてるんでいいことというふうに思うんですけど、でも戦争を被害で描くっていうことは自分たちをひどい目にあわせてる相手がいて、ひどい目にあったていうその憎悪とかが相手におこってしまうことでもあるわけです。そういうことを描いてる限りは戦争の恐ろしさっていう本質にはなかなか近づけないんじゃないかなというふうに思っていて。

 戦争で怖いのって戦場に行ったときに自分が殺さないと殺されるので殺すという、被害で死んじゃう怖さだけじゃなくて人を殺さなきゃならないっていう怖さがすごくあると思うんです。この映画をつくったあとにいろんな本を読んで、これはちょっとがっかりな話なのですが、人って状況を与えられると暴力的にどこまでもなってしまう、そういう人が非常に多いってことです。どの国の人もその状況が与えられると殺人をしてしまう、その場が戦場ということです。殺したり殺されたりするという究極のことが行われる場所です。その「殺す」っていうことが場が与えられるとできちゃうっていう、実は僕それがとっても信じられなかったんです。

 どこかで踏み越えられない一線があると思ってたんですけど、当たり前のようにそういうことがあるということが今恐ろしさとしてあります。その加害をしてしまう恐ろしさということを描いて、その場に近づかないというようなことをテーマにしなきゃいけないというのが自分の中には強くあるんです。

 ただ映画っていう表現にしたときにそれをお客さんが見たくないっていうのがありまして。プロデューサーがお金を出さなかったのはそれじゃお客さん来ないよって結局そういうことだったなと思うんですけど。加害者を描いても映画観て気持ち良くならないんです。そこにカタルシスがないので。だから映画として難しいということがあります。でも戦争の恐ろしさを描く以上はそこにカタルシスがなくてもそれを描かないとならないんです。だから大きな映画じゃなくて自分ひとりでやらなきゃいけなかった、結局はこういう方法でしか映画できなかったのかなというふうに実は『野火』に関しては思ってるところがあります。

 それでもまだ恐ろしい加害ばっかりを描くっていうのを自分の創作でやるところまではなかなかいけなくて、『野火』は加害もありますけど被害もいろんなものが、素晴らしい文学の中に入っています。加害も突発的な事故にも見えるような表現で、けっこう自分としては加害を描きつつもお客さんの共感がぎりぎり入るところを一生懸命探した感じではあったんですけどね。だから本当の加害を描くのはなかなか難しいかもしれません。

映画「野火」公式サイト「『野火』メイキング無料オンライン上映会+塚本晋也監督Q&A」(https://nobi-movie.com/news/)

塚本監督が言うように、加害者を描く映画を観て、観客は「気持ち良くならない」。だから戦争の「加害」の側面はどうしたって自己啓発の題材にはなりません。

「人殺しに"させられた"」という面で、兵士も被害者です。しかし、『野火』で描かれていたのは、そう割り切ることはできないという恐ろしさでした。正気ではいられない、肉体と精神の限界にあっても、最後の最後に引金を引くのは自分。「殺される」ではなく「殺す」を選んだのだから、そこに自分の意思がまったくなかったとは言えない。「人を殺さなきゃならないっていう怖さ」というのは、そういうところにもあるのではないかと思いました。

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