絵空事 -remota- 第5話「翅の傷み」
それからも銀翅は式神を用いて、或いは自身がその地に赴いて、村人の助けとなるように力を尽くしました。
『よい子を授かったと喜んでいたら山の神に取られ、次の子は病で亡くした。話が違う』
『不出来な子だったが、山の神が取ってくれて助かった』
様々な相談、或いは不満が、銀翅のもとへ集います。
村人の願い通りにゆくものごとがほとんどでしたが、時にはそれがどうしても果たせぬこともありました。
懸命に役目をこなしていた銀翅でしたが、その役目には次第に心労も伴うようになってゆきました。
ある日の晩のこと。
眠っていた銀翅は、げほげほと咳き込みながら飛び起きました。
少し離れたところで眠っていた十六夜も、何事か、と起き上がります。
「…どうしたん?」
「…何でもないよ。――お早う、十六夜。」
げほげほ、と苦しそうに咳き込みつつ、努めて明るい声色で、銀翅は言います。
「何言うてるんや、まだ真夜中や。」
「――そうか。…起こしてしまって済まなかったね。」
銀翅は、どうにか呼吸を整え、横になろうとしました。
「銀翅。…何かあったら言いや、って言うたやろ…?」
「…。………」
唐突に名を呼ばれた銀翅は驚き、起き上がった姿勢のままで動けなくなってしまいました。
動揺を感じ取った十六夜は、暗闇の中、そっと銀翅に近づき、隣に座りました。
そして、気遣わしげに目を覗き込み、相変わらず咳き込んでいる銀翅の背に手をやりました。
しばらくそうしているうちに、銀翅の咳はどうにか治まったようでした。
銀翅は、呼吸を整えつつ、遠慮がちにちらりと、十六夜に目をやりました。
「…心配には及ばないよ。昔の夢を、見ただけさ。大したことでは――」
「ろくな話じゃないんはわかってる。」
十六夜は、作ったような笑顔を浮かべる銀翅の言葉を遮り、尚も続けました。
「…しんどかったら、しんどい、って言いや。これも、前言った。」
「…………。」
銀翅は目を伏せ、十六夜の言葉を噛み締めているようでした。
「…まぁ、無理に話せとは言わんけど。――あんたはもう、独りじゃないんやからな。」
「…。……ああ。そうだね…。」
ひとまず、銀翅の呼吸は落ち着いたようでした。
十六夜は、ただ静かに様子を窺っています。銀翅は、微かに不安そうな目を、ちらりと十六夜に向けました。
「あまり、気持ちのいい話ではないかもしれないが…」
「…うん。」
「昔、――風邪を引いて、寝込んだことがあってね…。」
私の生まれた家では、両親、兄、伯父、伯母が暮らしていて、…何名かの家人(けにん)がいた。
物心ついたときから、家の支えとなるために力を磨いた。しかし、何をやってもすぐに息が上がってしまう私は、父や兄に貶されてばかりだった。
「そんな調子で物怪を相手にできるものか。すぐに殺されて、終いだ」
「家名に響いたらどうしてくれる」
「山に置いてきてやろうか」
――母は、そんな私に対して何も言わなかった。時折、部屋でつらそうにしているのを見たことがあるけれどね。
寒い時期になって、風邪を引いた。
当然のように風邪をこじらせた私は、母屋で死なれては困るからと、いつの間にか離れに取り残されていたんだ。
苦しい、熱い、寒い。
私は、咳や熱に冒されながら、息も絶え絶えになって、誰か、誰か、と呼び続けた。
聞きつけた家人が、どうやら母を呼んだらしい。
障子越しに映る母の影に、すぐに助けを求めたが、がらりと開いた障子の向こうには、険しい表情を浮かべた母がいたんだ。
「うるさい。騒がないでおくれ。村人たちに聞こえたらどうするんだ。お前のせいで私までもが肩身の狭い思いをする。これでも噛んで、大人しくしていなさい」
母はそう言うと、ありったけの薬草を私の顔に投げつけて、ぴしゃりと障子を閉じて、さっさと行ってしまった。
――おお、穢らわしい。物怪の障りが移ってしまったでしょうね、まったく。誰か、禊をするから手伝っておくれ。
――はい、母上。ただいま。
――お前だけがうちの頼りなんだ。しっかりやっておくれね。
――はい。おまかせください。
そんな会話を漏れ聞いたような気がしたが、熱のせいか…よくは覚えていない。
仕方がないので、そのまま横になって、どうにか薬草を口に含んだが、どうにもむせてしまって長くは噛んでいられなかった…。気づいたら、そのまま眠ってしまっていたんだ。
「………。そんで――終わりか?」
「――今さっき、見ていたのは、これで全部さ。」
銀翅は、薬草の苦さを思い出したかのように、苦々しげに笑います。何気なく胸を押さえているのは、こみ上げる吐き気を堪えているようにも見えました。
「――…あんた、ひとりでよう頑張ってきたな。」
よほど、いたたまれなくなったのでしょう。十六夜は、銀翅をそっと抱きしめて、耳元で囁きました。
銀翅はといえば、ただひたすらに戸惑っておりました。
泣き言を口にしても貶されなかった上に、慈しみに溢れた抱擁をされたからです。――銀翅にとっては、どちらも初めてのことでした。
十六夜は、銀翅の背を何度か撫でると、何も言わずにすっと離れました。
銀翅は、怒ったような表情で俯く十六夜を見て、ずきり、と胸が痛んだように感じました。
「――こんな話をして、済まなかったね。…でも、君が聞いてくれたお陰か、なんだか少し、…胸の空く気持ちだ。」
いつぶりか判らない涙を堪えながら、それでも微笑んで、銀翅は言いました。
「………、そんなら、良かったわ。」
怒ったような表情をしていた十六夜でしたが、銀翅の言葉に顔を上げると、どこかつらそうに微笑みました。
「…有難う、十六夜。」
銀翅は、かたく握られた十六夜の手をそっと取り、やさしく撫でるのでした。