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スピードと活劇〜地表から身体が解き放たれる時

「2023年に、宮崎駿監督の新作を観る」、思ってもない出来事が現実となった。
自ら引退を表明した「風立ちぬ」の終わり方は、国民的作家のエンディングとして、「ああ、そうか」と頷ける形で破綻なく円環が閉じられていたし、新しい世代のアニメーション作家たちは今、豊富な時代を迎えている。
大御所が、あえてリスクを冒す必要もない。ご存知の通り、少しでも疑問符の付く作品であれば、容赦なく「晩節を汚した」とネット上の誰彼に言われまくる時代だから。

個人的になるが、トトロを別に措けば、宮崎映画の中で私は、ルパンラピュタ豚ハウルを好むタイプの観客だ。ハウルの次に来るのが、本作「君たちは〜」になった。これは、意外だった(タイトルから、新作は、イデオロギー色の濃い、ややもすればお説教くさい内容になるかも、と危惧していたので)。
「ポニョ」から「風立ちぬ」に至る流れで、私は、かつて宮崎映画に存在した、あるものに期待しなくなっていた。
端的に言えばそれは、アクションになる。宮崎映画のアクション(活劇)はとりわけ、バランスを欠いて危なっかしく、その分だけ、ぞくぞくと胸踊らせるスピード感があり、高まる速度は、やがて翼を得て陸を離れ、空に向かう。

何よりも、私が驚いたのは、齢八十を越えた監督に、スピードが、そして宮崎映画ならではのアクションが、気配として戻っていた事だった。
かと言って、登場人物を、生身の人間を、この重力の軛の中で飛ばすのは、その肉体にかかる過剰なGを、作家として描くのは、年齢を考えれば酷というものだろう。本作品では、視界を埋め尽くすほど膨大な数の鳥が現れる。

スピードも、翼も、人間の常態から言えば、不安定なものだ。そんなものを作り出して、人はこの地平から離れようとした。冒険者たちは、安定した物語が横溢し、その中にいる限り、理解できる物語しか理解しようとしない世の中から、逃れようとした。
主人公の少年の父は、戦時下で戦闘機を作る事業を営んでいる事が示唆されるが、少年は不安定な情緒を抱えたまま、父との対話で飛行機の造形を「美しいですね」などと言いながら、翼を得て飛ぶことは出来ない。
鳥を媒介にして、少年は内に抱えた葛藤を、スピードやアクションとして解き放つ。そこから物語は、拠って立つ地盤から身を引き剥がすように離陸し、時空を超え、西洋でも東洋でもないような不思議な場所で、物語自身の限界点を探るような動きを見せる。

それは、ハウルでも感じた事だ。「いったい、これは、どこの、何の、物語なのだろう?」。しかしそれを分からなくても、映画から与えられる興奮には、いっさい水を差されなかった。
映画を美術作品のように鑑賞しろとか、物語は関係ないと言っているのではなく、映画にとっての物語は、小説にとっての物語のように、最重要なパーツだが、もちろんそれが全てではない。
ネットなどで本作品の評価が真っ二つに分かれているのを見ると頷ける。鳥が空を飛ぶことに不自然さが無いのが影響しているのかもしれないけれど。
少なくとも五段階評価で三や四が並ぶ作品よりも、賛否両論、五か一にくっきり分かれている作品こそ、かつて歴史を前に進めてきた。
そう、この宮崎作品は、終わりを飾る作品ではなく、先に開かれた作品だと思う。

今、キレイに閉じた円環から出て、速くてキレッキレのアクションを描く宮崎駿監督に、次を期待してしまうのは、酷だろうか。
鳥に矢を放ち、殺そうとする人間、飛びたくても、飛べなくて葛藤する人間を、宮崎監督はおそらく初めて描いた。エンターテインメントとしてのジブリは、物語の快感原則に従い、人間を、簡単にとは言わないが、時に荒唐無稽なほど鮮やかに、愛する美しい空へ飛ばしてきた。ルパンも、パズーも、豚も、ハウルも、どこか人外領域をもった、架空のキャラクターであり、今回の作品のような、一般人としてもがく存在ではない(作中で主人公は、ファンタジーの世界から、自ら選択して現実に戻る)。
次は、我々と同じ地表に立つ矛盾と葛藤だらけの存在を、そのじりじりした情熱をこそエンジンにし、スピードに変え、監督は、エンタメに回収されるにはどこかはみ出した人間という奇妙な存在の困難さを、ありのまま、いつかあの、無限を夢見た空へ、飛ばしてしまうかもしれない、と思う。

この世界でおそらく、宮崎駿監督にしか描けない、次を、先を、一人の観客として夢見る。

(本稿の内容は、次回「トム・クルーズ〜ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONEを観る」とリンクします)


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