「トム・クルーズ〜ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE」を観て
いきなりですが、映画というジャンルの特徴と言えば、私は先ず、「動くこと」を挙げます。
絵画や写真と違って、暗い場所に大きく映された何かを、光として浴びる、その何かは、動いている。
美女であれば、その美しさに、見とれていればいい。なにかとんでもなく綺麗な女の人が、動いたり喋ったりしている、その意味を、いちいち探ったりしません。それより、感じて、映画という動くものに、出来るなら、身を任せていたいんです。
映画の中で、登場人物に、行為の説明なんてされたら、それこそ興ざめです。
庵野秀明展にまで行って、期待していた「シン仮面ライダー」は、個人的にとても残念な結果となりました。あまり期待していなかった、宮崎駿監督の新作に、興奮したのは、動き(=アクション)のせいです。
映画館の観客というのは、ある意味、飛行機の乗客みたいなものかもしれません。動き始めたらもう、身を任せるしかない。観る主体なんぞ呆気なく消えて、真に受け身になれた時にこそ、映画の快楽があるかもしれない。
「動き」が、不備、不正確、雑、であると、その乗り物をとても不安に感じます。
アニメーションは、実写に比べて、物理への自由度が高いので、アクロバットな表現をしても、違和感は少なくなります。
ところが、宮崎駿監督は、初期の作品から一貫して、アクションを、なるべく正確に、まるでそこに特別なこだわりがあるかのように、描いていました。
ルパンの運転するフィアット500がどれだけスピードを出せば、車輪がどれだけ滑り車体はどちらの方角にどんな風にドリフトするのか、この小さな正確さの積み重ねの上に、ルパンが、あるいはパズーが、豚が、ハウルが、ある時跳躍し、人間能力の限界を超え、空を飛びます。
前置きが随分と長くなってしまいましたが、トム・クルーズ演じる「ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE」は、映画が動くものであることの快楽を過剰に与えてくれます。
アニメーションではなく、人間として、物理の法則の枠内にいるはずのトム・クルーズが、ルパンを完全に超えてしまっています。
トム・クルーズは、車や、バイクを(「トップガン」では飛行機も)限界まで動かすとはどういうことか、身を以て示すことのできる稀有な俳優です(動いて曲がるものに対する人間の荷重の置き方です)。
そして時に、限界を、超えようとする(超える)。
地球に重力がある限り、それは限りなく困難な試みであり、ほとんどスタント無しで演じているという噂からも、観客は困難を、ハラハラやドキドキを、共有します。乗り物を運転する人ならば、あるいは歩く、走るなど、身体を動かす者ならば、そこでアニメやAIでは到達不可能な事が行われているのを、体感的に理解するからです。
映画が動くものである事の、究極の達成を、観客は膨大な光として浴びます。トム・クルーズに並ぶアクション俳優は現れないだろう、と思ってしまいます。
再び、アクションの細かい部分の正確さにこだわりとキレを見せ、スピードを獲得したかに見える、しかし限界を超えない(飛ばない)宮崎駿映画と、生身の人間(実写)として、映画の限界を超えたかに見えるトム・クルーズ主演映画が、同じこの夏に公開され、興行収入の首位を競い合っているのは、とても示唆的に思えてきます。
(本稿の内容は、前回「スピードと活劇〜地表から身体が解き放たれる時」とリンクします)