『想定外』という教育
令和の時代を迎えたジャパンに必要なIX(意識トランスフォーメーション)は多数ありますが、その中で令和の教育で大事なことの一つが、
『想定外』を教えること、『想定外』を受け入れること
だと考えます。
最近、本業でも副業でも学校現場でも頻繁に感じることがあります。それはこの社会で暮らす多くの人が『想定外』に慣れていないことです。
企業で働く多くの方々が、そして学校で教える先生方が、学校内外で学ぶ多くの生徒の方々が『想定内』の人生の中に閉じこもっています。
よくよく考えると学校の定期テスト、センター試験、二次試験、大学の総合選抜試験、就職活動、会社での評価基準、その全ての分野における成功法則として、ありとあらゆる『想定内』に対する準備を如何にするかということで溢れています。
先日、あるお世話になっている先輩と飲んだ時に、その方はわざわざそのお店を後輩の私たちの為に予約してくれていました。
そして当日を迎えてそのお店の前に着くと、何とその日は営業していないことが判明しました。
『あれ、予約していたんですが。。。』
と先輩が確認すると、実は誤って一日違いでお店の予約をしてしまっていたことに!!
元々慎重で常に先々を考えて動くタイプの方なので、ほとんどそういったミスをしない先輩ということもあり、予約ミスをしていたことにえらく落胆していらっしゃいました。(実は元々メールの件名を変更前の日に設定してしまっていた僕のミスでもありました。)
何とか先輩が氣にしなくて良いようにと自分なりに氣を利かせて、前から僕が先輩たちをお連れしたかった店をすぐさま予約したら、たまたまお店が空いていたので、
すぐにそこを予約して『むしろお連れしたいお店を予約できました!!』と意気揚々にお伝えしたのですが、肝心の先輩はお店までの道中ずっと落ち込んでいる様子。
時間を守る。約束を守る。ミスをしない。想定されるハプニングを全て予想してそこに対して準備を行う。これらはどれもビジネスにおいては「基本動作」として入社してから暫くの間叩きこまれるマナーです。
でもどれだけ準備をしてもどれだけ慎重な人でも、どれだけミスを氣を付けている人でも、時に自分の望む方向の結果を得ないこともあります。
その時の『想定外』の結果をどう受け入れられるか、どう捉えるか次第で、同じ結果でもその結果に対する意味づけが実は全く違ってくるものです。
僕としては先輩にお店を予約して頂ける漢氣も嬉しかったものの、自分も実は大阪に良いお店を知っていることを自慢できる絶好のチャンス(笑)に心が躍っておりました。
結果的にお店の料理が美味しいこともあって、店員さん応対もすこぶるおもろく、先輩も最後はご満悦な様子でした😁
他方で、自分のミスに落ち込む先輩の氣持ちを僕が変えられず、落ち込んだままの状態が続いていたらせっかくの飲み会の雰囲氣も台無しになってしまいますよね。
実は恋愛や結婚、人との出会いのほとんどが実は『想定外』で溢れているにも関わらず、やたらとビジネスの世界では想定内の中で完結させることが重要視されます。
では何故この『想定内』であることが重要視されるのか。
それはそもそも「失敗」をしてはいけない。という幻想が日本の集合意識の中であるからです。
高度経済成長を歩んだ日本では、大量消費大量生産で成功してきた過去の栄光に縋りつくあまり、いかに効率的にモノをミスなく作って、いかに沢山販売するかに注力してきました。
こうした成長の中では『想定外』の産物の存在が許されなくなってしまいます。
かくして日本は失敗に対して非常に厳格な文化を築いてきました。
学校では答案用紙に誤った回答を書くなと教えるし、会社ではアポイントのミスは許されないし、政治や学校の世界でもありとあらゆるミスは社会的に許されないという幻想が蔓延ってしまいました。
そしていつしかみんなが想定外に起きてしまったことを「誰かのせい」にしてしまっている。そしてそれを自分のせいにはされたくない。そういう状態にあるのが今のJAPANではないかと思うのです。
本当にそれでいいのだろうか。
人生や人の魅力はデータや分析、過去の傾向から語れる、決めつけられるほど単純なものじゃないしチンケなものじゃない。
自分自身や自分以外の人が起こした「想定外」を受け入れられずして何が多様性だ、と思ってしまいます。
そもそもこの世に自分が生まれてくることを生まれる前から想定出来ていた人がいますか?自分が死んだ後の世界を想定出来ている人がいますか?
そして想定外に起きてしまった出来事を失敗だなんて誰が決めるんだろうか。その失敗は捉え方次第でどんな意味づけだってできる。
これまであまりに「想定内」のことばかり追いかけてしまった多くの人を目覚めさせるために、ここ数年世界中でありとあらゆる想定外の出来事が多数起こっている。
そんな風に私は感じています。世の中の出来事に対して、集合意識ではなくあなた自身がが「どう捉えるか」それを日々試されているように感じます。
本当に魅力的な人間とは、
如何に自分の人生に想定外なストーリーを持っているか
で決まるんじゃないかと思います。
その瞬間は失敗やミスを想える想定外の出来事を自分なりに捉え方を変えて、その時の感覚に従って乗り越えた時それは奇跡や伝説に変わります。
よく追い詰められた時に人間の本性が出る。なんてことを性悪説を重視する人が言ったりします。
私は別の捉え方をしていて、追いつめられることも含めて想定外の事象の前に立たされた時に人は本当に成長するし、その人の新たな魅力が生まれるのだと思います。
とってもシンプルな話ですが、
『想定外』を受け入れる人には次々と奇跡や伝説が起きる
のだと思います。
そのことに早く人間よ、気付いてくれ。と次元の高い僕ではない存在が言っているような氣がしています(笑)
私自身もたびたびこの「想定内」の人生に閉じこもって しまうことがあるのですが、非常にありがたいことに教育事業で人前で教える機会を得ることで、度々「想定外」に出会うチャンスがありました。
中高生の前で授業をさせて貰う時、講演をさせてもらう時、自分なりに心の準備は行いますが、最近になるとほとんど原稿やスライドといった準備はしなくなりました。
何故なら、準備してきた授業内容が「想定外」に生徒にとってベストなものではないことに見舞われるからです。
言い換えると、その時々の生徒のみなさんの「想定外」なリアクションに出会えることで、こちらから提供するものを変えていく、違った表現方法を使っていく必要があることを教えてくれています。
よくよく考えると授業というものは、生身の人間同士が生徒-先生間、学ぶ側や教える側で双方に心と心のぶつかり合う時間です。
それをあらかじめ準備されたものだけで完結させようということ自体が無理な話なのではないかと思うのです。
きっとビジネスや社会の現場でも一緒です。用意されたプレゼンテーション、用紙された想定問答。そんなもので完結出来たとしても、そのやりとりに味わい深さはあるでしょうか。
こういうことを生徒達から教えてもらってから、授業で伝えたい重要なメッセージは決めるものの、授業に向けた順序だてた内容を準備することはもうやめました。
僕もその時その時の生徒の感覚に応える形で常にライブ感のある授業を提供することを決めています。
これからも如何に自分の人生を『想定内』から抜け出せていけるかに力を注げたいですし、生徒たちにはこれからの時代の『想定外』に対しての生きる姿勢を見せていきたいと思います!!