掌篇小説|月に解ける
頑張れと君もいうのか昼の月
麻生ツナ子
「あ、ミートソースの仕込みがはじまったの、わかるかな」
「このにおいが、そうなんだ? 玉ねぎを炒めている」
「うん。時間をかけて飴色になるまで炒めるのが、美味しいミートソースのコツなんじゃって」
小さな中庭に、香ばしいかおりがあふれてゆく。なかのようすは見えないのに、私は首をめぐらせて、キッチンの窓のほうを向いた。二月の半ばにしては、暖かな午後だった。
「美味しいにおいだけ嗅がせて、ミートソースをつかった、パスタとかラビオリじゃなくって、ごめんね」
「謝らないで、青くん。ミートソースの美味しさは知ってるもの。むしろメニューに載ってない賄いをいただけるほうが、とても貴重で嬉しい」
青のすまなそうな顔に戸惑い、私は少し早口で云った。初対面なのに、精一杯もてなそうとする彼の素直な優しさに、胸が痛くなるようだった。
私はマドキに視線をうつし、
「美味しいよね。ねえ……」
和風に味つけされたポークジンジャーがよほど気に入ったのか、マドキは眼差しで頷いただけ、返事をするつもりはないらしい。
木炭デッサンの授業が終わって、イーゼルを片づけていたら、マドキがやって来て、
「ズズ、ちょっと頼まれてくんねえ」と、いつもより潰れた声で囁くように云った。
「ご期待に添える気がしないから、駄目」
自嘲気味に答えたのは、本心からだ。その時のあたしは、とりつくろう気力もなかったから。水彩画も木炭デッサンも、いっこうに上達しない。自分のふがいなさ、才能のなさに、打ちのめされる。毎日、毎日。
無理にわらって、マドキには別の適当な言い訳をすると、
「ちょうどいいや。だったら、何も考えずに、頷いてくれ」
それから、あたしのバイトの時間を尋ね、ここに連れて来た。あたしたちの通う画塾の最寄り駅からほど近い、昔からある商店街。そこの老舗の洋食屋さん、『キッチン榎木』だ。青は、オーナーの孫息子なのだった。
マドキは定休日の札のかかったドアを開けて挨拶し、あたしに店に入るよううながした。
「ズズ、彼が青くん。画塾で見たことあると思うけど。青くん、この子がズズ。イベントのアイデアとか、いろいろ考えてくれるって」
あたしはあわてた。ここへ来るあいだ、マドキは映画監督のアニエス・ヴァルダについて熱をこめて語りはしたが、イベントについては何ひとつ話さなかったので。
長身で温厚な笑顔の青は、人懐っこい、いつも機嫌のいい、大きな犬みたいだ。画塾で見かける時は高校の制服姿だけれど、今日はグレーのフーディにブルーブラックのスウェットパンツという、ラフな恰好をしている。
「ズズちゃん、ありがとうね」と青は両手を合わせ「マドキくんが、学校のお友達にも手伝ってもらって、盛大なお誕生日会にしようっていってくれて、お祖母ちゃんも喜んどります」
つまり、ここで催す、彼のお祖母さんのお誕生日のお祝いを兼ねた、フェスタ・デラ・ドンナ(女性の日)のパーティのお手伝いをする、その打ち合わせに連れて来られたようだった。
学校の制服らしいブレザーを来た男の子が画塾をうろついているのは、数週間前から気がついていた。背が高くて、痩せてはいるものの、骨格がしっかりしていて、先生方がモデルに使いたがりそうな子が編入して来たな、と眺めていた。先生のお気に入り。それに、まだ高校生。
羨望や嫉妬は、感じていないふりをした。
それが青で、じつは彼は入学しておらず、マドキにそそのかされ、モグリで幾つかの授業を受けていたのだ。
『キッチン榎木』は、画塾の生徒たちにも人気がある。あたしも、マドキに誘われて美味しさを知り、常連とはいえないまでも、足を運ぶようになっていた。ミートソースは絶品だけれど、絶対にオーダーすべきはトマトのスープ。
「でさあ」とポークジンジャーを、おかわりまで食べ終えたマドキは、モッズコートのポケットから板ガムを取り出した。彼はようやく、禁煙の挑戦をはじめたのだ。「そもそも、おれが青くんに、アニエス・ヴァルダの『顔たち、ところどころ』を薦めたんだよ」
「二人して、アニエスに夢中なわけね」
「うん、そうだよ」
食器を下げに行っていた青が、温かいハーブティーを持って戻り、三人分のカップをテーブルに置いた。
「ズズは観たことあんだろ? 撮影した地元のひとの写真を、巨大なプリントにして壁に貼ってまわる旅」
青がポットからお茶を注いでくれる。その大きな手。長い指。身体の成長に、心が追いつかなそうな、少年期から青年期に移行する不安定な熱っぽさ。
「ええ。アニエスとJRが、とても良いコンビだと思った」
活発に分裂する新鮮な細胞が発する熱。魂までも熱くする。そして、情熱をもって、未来をつかみ取る。その手。
「アヴェックだな、フランスだから」とマドキ。
青が会話にくわわる。
「ぼく、写真を撮るのが好きで。あと宇宙も好きなんで、空とか星とか写すことが多いんじゃけど、友達のスナップもいっぱい撮影しとって、あの映画みたいに、大っきく引き伸ばして建物とかに貼るの、やってみたくなって、だったら、お祖母ちゃんの誕生日プレゼントにいいかもって、マドキくんに相談したんです」
青は生真面目な表情と口調で訴えると、ふいに微笑み、上空を指さした。
「月が出とるね。昼間の白い月」
マドキとあたしは、つられて空を見上げてた。
解けかけた白い月。青い空に、溺れてゆくような……
「海の月と書いて、クラゲって読むのは、クラゲが海に浮かぶ月みたいだから」と青がいう。「ほんでも、月を見てクラゲを連想する?」
昼間の月を見ると、なぜか悲しくなる。空に解けてしまいそうだからだろうか。抗わずに解けてしまえば楽になるのに、そんなふうに思っているのだろうか。
青は言葉をつづけ、
「お母さんの実家のある地方の天文台が、夜の虹を撮影しとって、ぼくも夏休みとかに連泊して、何回かチャレンジしたんじゃが、いかんかった。お天気が関係しとって……」と急に黙りこみ「ごめんなさい。今はお誕生日会の会議中でした」
「今日のところは、顔合わせのランチってことで。ズズも、これからバイトあるし」
「今日のために、会議の資料を作ったんじゃ。壁に貼れる写真の見積もしてもらったし、でも高価じゃからスプレーで描こうかとか、飾りつけ用のミモザの値段を調べたり、足場も組まないかんじゃろ?」
マドキなんかに相談しない方が、早く準備が出来る気がする。青は悩んだり、迷ったりして、時間を浪費することはないに違いない。だから、誰もが彼に力を貸したがるはずだ。マドキにしても。
「青くんが」とマドキは何枚目かのガムをかみながら「チェキの撮影をしてあげて、500円で売って、資金に宛てようか」
「ぼくが撮影してお金をもらうのは、まだ無理無理!」
むきになった彼が可愛らしかったので、
「青くんは、写真の勉強、例えば色の構成とか構図とかの参考にするために、画塾の講義を聞きに来てるの?」と、あたしは訊いてみた。「それとも、水彩とか、絵にも興味があるの?」
「どんな授業でも、写真に活かせると思って。だけどのぉ、本当はぁ、学校がカッコいいから、見学したかったんじゃ」
身体全部に嬉しさをあらわしながら、青はわらった。
あたしが、彼のように生まれついていたら? やめよう。意味のない問いで、これ以上時間を無駄にするのは。
彼を照らす月は真夜中に鮮やかな虹をかけ、あたしの月は真昼の薄青い空に頼りなく消滅してしまう。それだけのこと。
「将来は、カメラマンになる?」
「宇宙を研究するひとにも、憧れるんじゃ」と秘密を打ち明けるようにいい、マドキに向かって、歌うようにメロディーをつけながら「宇宙の外側はないって、知ってるかい? 何故なら、宇宙が存在のすべてだからさぁ」
健やかで伸びやかな彼の声は、きらめく光のようだった。それは、したたかあたしの胸を刺した。
あたしは月を眺めるふりをして、眸に膨張した涙がこぼれてしまわないよう、けんめいにこらえた。
月は、解けてしまったりしない。光が遮られて、地球から見えなくなっても。ずっと存在しているのだから。
《 了 》
椎名林檎『カーネーション』
麻生ツナ子さま。
去年の十月の作品を、今さらですが、ようやっと小説に出来ました。キャラクターが定まらず、だからストーリーも定まらず、って、結局、甘えておりました。
ツナ子さん、心に響く作品から、勝手に色んな情景をほわほわ想像させてもらいました。ありがとうございます。
タイトルの『解ける』は、『とける』でも『ほどける』でも、お気に召したようにお読み下さいませ。
これに懲りず、またチャレンジさせてもらいます。やめへんでー!
めろさま。
やっと、めろちゃんの小説も読ましてもらえる状態になりました。引っ張られてしまうのが怖くて、読めなかったの。
↓ 《オマケ》マドキが登場する掌篇です。
これで、あなたもパトロン/パトロンヌ。