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#0202【我こそが真の王者なり(後醍醐天皇と朱子学、日本史通史)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
今週は月初の日本史通史シリーズです。

前回4月には、
No.187【無い袖は振れないけれど(御家人の没落と徳政令)】
No.188【犬も食わぬは骨肉の争い(分裂する天皇家) 】
No.189【鬼の居ぬ間に新興勢力(悪党の登場と日本経済史)】を取り上げました。

元寇という未曽有の国難を鎌倉幕府は退けることに成功しました。しかし、相手から賠償金や領土を奪ったわけではなく、日本のために戦った武士に報いる手段を鎌倉幕府は持っていませんでした。

そして、御家人と呼ばれる鎌倉幕府の武士たちが没落していく中、商工業者や流通業者が力を持ち始めていきます。これが「悪党」と呼ばれる新興武士勢力となります。

鎌倉幕府が弱っているなか、 旧体制派である京都の朝廷も天皇位を巡って二つの系統に分かれて争うようになっていました。これを「両統迭立(てつりつ)」といいます。

こういった状況下において、鎌倉への不満を持つ悪党や、鎌倉幕府に見切りをつけた御家人などを糾合する錦の御旗があれば、鎌倉幕府は倒れかねません。

1318年。元寇を跳ねのけてから約40年後に後醍醐天皇という人物が即位します。

31歳という当時としては高齢での天皇への即位は、彼自身が二系統に分裂した天皇家においてもさらに傍流に位置付けられていたためです。

他に適当な人物がおらず、あくまでも代打としての即位だったのです。

しかし、彼は即位すると積極的に中級貴族たちと交流していきます。

当時最新の学問であった朱子学(モンゴルに滅ぼされた南宋(中国の王朝)で生まれた儒教の一派)をともに学びます。

朱子学では、徳の高い帝王が天下の政治を行うことによって世の中がうまくいくとされています(とてもザックリとした説明です)。

これを 「王道政治」といいます。

一方、武力を用いてで天下を保つことを「覇道政治」といい、朱子学では、これに対して否定的です。

鎌倉幕府は「武士」という武力をもった暴力装置によって政治を行っている「覇道」である。後醍醐天皇は、自分が真の王者となり、天下の政治を行うべきだと考えて鎌倉幕府を排除することを考えます。

朱子学の勉強会や、羽目を外した宴会(無礼講)などを隠れ蓑にして、本来であれば天皇と同席できないような身分の中級貴族などと倒幕の密議をこらしていきますが、朝廷内にも幕府派の人物たちがいました。

後醍醐天皇の倒幕計画は漏れてしまいます。1324年に正中の変と呼ばれる事件です。

鎌倉幕府は倒幕計画に後醍醐天皇が関与していることを知っていましたが、彼の側近を処分するのみとし、後醍醐天皇自身には手を出していません。

事を穏便に済ませようとしたのです。

しかし、後醍醐天皇はこれで懲りるタマではありませんでした。

側近を摘発された後醍醐天皇はますます鎌倉幕府への憎悪を燃やします。

京都の寺の僧侶たちを側近として用いて、1329年には自分の妻の出産祈祷と称して密かに関東調伏(鎌倉幕府の崩壊)の祈祷を実施させます。

さらに興福寺や延暦寺など奈良や比叡山の寺社に赴いて寺社勢力と接近していきます。

懲りない後醍醐天皇の動きに鎌倉幕府も堪忍袋の緒が切れました。

以上、本日の歴史小話でした!

(続き:No.203【燃え広がる倒幕の火(後醍醐天皇と楠木正成、 日本史通史 )】)

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発行人:李東潤(りとんゆん)
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