本願寺派門主に大悲伝普化の考えが無い、中の人よ決断を求む

 例年通り2025年1月9日から16日にかけて、浄土真宗本願寺派ご本山では報恩講法要が勤修されました。その中の大逮夜法要中、御門主が御親教をあげられましたが、そこで。
 これについて、はっきり申し上げてかなり不躾な内容ではあろうが、わかっているはずの中の人を促す意味でも、勝手に思うところを述べさせていただきたい。


御親教から感じるところ

 まず端的に言って、門主の御親教からは、宗教者の自覚を私はまるで感じ取れない。ただ被災見舞い・戦争非難といった世界事情をつらつら並べ、宗教者よりはごく一般社会人の自覚の印象が強い。門主の自覚は求道者でなく労働者とみえる。
 無論、門主下の本願寺派の人々も世界の一構成員に違いなく、これを統一する(浄土真宗本願寺派宗法第4条)門主としても一人間としても、世界の宗教者同様、世界的立場で世界の安寧を願うことは自然で当然だ。従って、その願いの表明は至極正当だ。

殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ、というお釈迦様の御言葉、また、世の中安穏なれ、仏法ひろまれ、と願われた親鸞聖人の御言葉を大切にし、争いのない平和な世界の実現を目指して参りたいと思います。

御親教より

時代によって替わることのない、阿弥陀様の御本願による念仏者の生き方を志すことができます。

御親教より

改めて私たちの生き方を問い直し、念仏者としての歩みを進めて参りましょう。

御親教より

 ところが、どうも門主の最終的な視点までも、“平和な世界”や、“生き方”つまり現世にあるように感じる。
 私なりに言えば、その、平和な世界や生き方とは道を求める外皮・表層で、仏教の序段だ。エピローグと言ってもいいかもしれない。あなたはこんな世界に興味はありませんか?と惹きつけるために「仏教」の広告に載せるようなテーマ、とも言えよう。私は門主の話にはいつも、それでそれで?その先は??と期待するのだが、先が出てこないまま上のように広告をなぞっただけで終わり、ズッコケてしまう。
 私ごとき外部の念仏のネも知らなかったしかも長年平均の何分の1の収入でひっそり暮らしている何の肩書も付いたことのない人間が言うまでもなく、浄土宗・浄土真宗は念仏者の集団であり、仏教者は求道者の集団であるはずだ。その教えの極意は苦からの離脱で、門主御親教の念頭にある世間の生活は、苦のごく一例にあたる。しかしこの苦とは、現世のみならず永劫のものと説かれる。世界の戦乱貧困飢餓災難他は、仏教で説く苦のほんの一部に過ぎない。御親教で一つ一つ憐れまれる災難への慰安とどこか引き出しから引っ張ってきたような阿弥陀仏の本願による救済とは、折角のお心遣いだが比較にならない。救済が念頭になく、天皇や教皇の御言葉と同列のおつもりなのかもしれない。
 そうすると結果として御親教は、我々は俗世間の一員の労働者だ、還相回向として宗教法人特例を受けずに我々も納税したいのだ、と私には聞こえる。

 自派の教義を強調すると他宗教と対立する、とのお考えがあるいはあるのかもしれない。しかし世間の現状認識の追随しかしないのなら、あまり御親教の意義はない。発信すべき人間性の危機が世界にあることは、私も一部わかるつもりだ。ただその危機は元来どうにもならない。なぜならよく言われるように、人間の危機から人間の手で助けることは、原理的には自分で自分を持ち上げることだからだ。いくら、自分で自分の腕やら髪の毛やら首根っこやらつかみ上げたって、持ち上がりやしない。持ち上がるはずとこだわるから迷いなのだ。それに人間自身の手で人間の危機がどうにかなるものなら、すでにこの世界に人間はいないだろう。科学技術とハードやソフトの流通経済等の恩恵により、私たちは往時より格段に生きやすくなった。我々は自ら持ち上がると錯覚させられているのだ。
 もし、もし人間や真宗の危機を感じるのであれば、世間に追随しているどころではなくせめて、御念仏をたのめと、あるいはお西流では、御念仏申しましょう、のようになるはずだ。

 蛇足かもしれないが、よく聴く言葉も示しておきたい。

自信教人信 難中転更難 大悲伝普化 真成報仏恩
(自ら信じ人に教え信ぜしめること 難きが中にうたた更に難し 大悲は伝い普く化す 真に仏恩報ずるに成る)

 この「普く化す」考えがどうやら門主にはない。化す、とは人を平和な世界に生まれさせることのはずであり、少なくともこの社会を巨視的に平和な世界にすることではないだろう。この傾向は「新しい領解文」を導いた石上氏と同じだ。この世の平和は、あくまで大悲伝普化できたオマケなのに、門主はオマケを求めよと奮闘しておられるのだ。

このままでは変わらない

 宗法に基づく、門主による12月の総長候補指名(浄土真宗本願寺派宗法第34条)をみるに、指名相手は「新しい領解文」後の二年間の下ですでに総長の任を担ってきた氏だ。すなわち、派の混乱を引き延ばしているのは門主の一存であることが確定した。
 私は元々仏教の門外漢なので、あいにく本願寺派事情については近年のこと(のさらに外面)しか存じ上げないが、御門主は科学技術や近縁社会の恩恵に浸ってきた若い世代ゆえ門主の責を任せることは難しいのではないか。というのは、現代は社会が複雑化かつ高齢化し過ぎ、30代40代でも人生上や社会上は若いとされる。而立やら不惑やら言っていられず現世の可能性をまだ求められる、求めるべき年代だ。当来の利益なぞより、現世の利益に目を奪われても全くやむを得まい。あるいは御門主には関白が必要かもしれない。

 ちなみにではあるが、一つ。
 何せ、外部の者から見て驚くのは、宗法の門主の章に、

門主は、宗意安心の正否を裁断する。

浄土真宗本願寺派宗法第8条

とある。宗意安心とは言わば宗教が宗教たる肝で、例えばキリスト教なら救われたかどうかの瀬戸際だ。つまり第8条は、門主が救済の正否を判じ断ずるということだ(なお、続く8条2項には、「門主は、前項に規定する裁断を行う場合には、勧学寮に諮問する。」とある)。当然、宗教は救済されたい者が入信するので、救済に関心のない者は関係ない。が、救済されたい者にとって、救済の正否とは、テストの点数よりも恋人の気持ちよりも今晩の食事よりも貸した金が約束通り返されるかよりも、人生の何よりも重要なことだ。浄土真宗には、後生の一大事という言葉があるが、正にそれだ。つまり本願寺派の人々は、我が身の救済の正否が門主の裁断を受けるのだ。先の第34条は、この関連と思われる。
 門主はこれら他を務めることになっているが、御門主のお心は、どうも上で書いたように、後生とか認知できんもんはどうでもよい科学で証明できないものは存在しないということでよいのだ、の類の認識ではないだろうか。そんな人に後生の一大事を裁断させてよいのか、と思うと私は気が気でない。

 周囲から理解者が減っても続く意地は、何やらすぐ隣で起こったようなデジャヴを感じるが、派として決断しなければならないのではないか。


※ wikidharmaによると、親鸞においては典拠が異なり「大悲伝普化」ではなく「大悲弘普化」とのこと
※ 参考として、大谷派の宗憲第4章をみると、その門首は独立した権限を一切有しないもよう

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