
歩き地蔵のお江戸面白地蔵物語 VOL.15高円寺 松応寺 佐藤信淵さんのお墓と日限地蔵
おめでとうございま~~~す。15回目突入です。人の体は約3ヶ月でリニュアルなるそうです。私も、この日記をつけるようになってから、より前向きなテーマを追う生活しているおかげ様か、髪の毛がかなり生えてきているとわかる感じになりました。ありがとうございます。
今回のお寺さんは高円寺の松応寺です。ここに行きたいと思ったのには、珍しいお地蔵さんもいらしたこともあるのですが、佐藤信淵さんのお墓があるとわかり、行きたくなりました。
佐藤さんは、秋田出身の農学者であり、医師であり、経済学者でもあって、秋田の千秋公園の彌高神社で平田篤胤氏と一緒に祀られていらっしゃることも知ってましたので(http://www.iyataka-jinja.jp/lab/)
参拝したく、伺いました。
お寺の門には佐藤信淵さんのお墓の存在を知らしめる石碑もあります。では、まず、日限地蔵さんと佐藤さんのお墓とのコラボレーション取材をお楽しみください。
では、まず、「日限地蔵さ~ん」
「はい。こんにちは。よくいらっしゃいました。本日は温かい日よりですね」
「はい。あ、日限さんも想像したよりも小さいですね」
「ま、そうですかね?けど、あれでしょ。実は私よりも、佐藤信淵さんのお墓が気になっておるんじゃろ?」
「へ?なんでわかるの?」
「なんでもお見通しなのが地蔵なんじゃ、15回めじゃろ。さ、まず、そっち参拝してきなはれ。花も買ったんだし」
「あ、はい」
そうなんです。私は今回地元秋田に眠っている両親のお墓参りはできないので、せめて、秋田出身の佐藤さんのお墓にお花をと思って、500円の花束一つだけ買ってお寺に向かっていたのです。お地蔵さんが、まず、お墓参りしておいでと言ってくださるので行って、行くと
畳三畳ほどの敷地にお墓とか灯篭とかある立派なお墓がございました。そして、そこには「北秋田」のラベルの酒瓶が供えられていました。
「秋田に縁のある方がいらっしゃってるんだな」と思いました。
ふっと会話したくなりました。
風がさっとふいて、私の頬を撫でてくれました。
「私に何か聞きたいのかな?」
「はい。何もないです。ただ、お墓参りできることに感激してしまってます」
「ありがとうね。案外秋田県では知られてないんだけどね。あはは。羽後町と彌高神社さんにはお世話になっておりますがね」
「はい。私も秋田で情報誌作る会社をやってた頃には彌高神社の宮司さんにいつもお世話になってました。佐藤さんのことを宮司さんから教えていただいたので、今日、参拝できたのです」
「縁ですな~」
「はい」
「あ、今、ガンを罹患していると日限さんから聞いておりますがね、私は医者でもあるからね、お話しますけどね、今の調子でいいです。どんどん好奇心の赴くままに生きなさい。ちゃんと細胞は君をアシストしてくれる。痛いときも、そこ温めて、痛いの痛いの飛んでいけ~ってね。化学療法は私は勧めません」
「はい。ありがとうございます。バスで来たら、案外近かったので、また、来ます。今日はありがとうございます」
そして、私は、日限さんの所にまた伺った。
「日限さん、行ってきました」
「そうか、良かったかい?」
「はい。縁がつながった感じがして、嬉しかったです」
「そっかそっか。で、何かお願いしますかね?わしにお願いするにはね、日程を決めないとあかんのじゃがね。いいかね?」
「日程を決める?」
「そうじゃ、日程決めないと、人はずるずる延ばし延ばししてしまうじゃろ。だから、日程決めて、やりたいこと祈ってみなさい」
「はい。もう迷わないで決めていることが一つあります」
「なんじゃ」
「今している、歩き地蔵のお江戸面白地蔵物語を、ただ、ひたすら3ヶ月続けたい。先の結果、例えば、ガンが治っているとか、作家になっているとかは考えません。ただ、この江戸のお地蔵さんとの会話を3ヶ月続けさせてください」
「よし、承った」
「はい」
また、泣けてしまった。
環七を走るバスって、超便利ですね。
おまけ ご褒美
蚕糸の森公園を散歩しました。お地蔵さん巡りをしていると地域地域で大事にされている自然に巡りあえます。ありがとう。
ご褒美 2
帰り道、板橋を渡ると、桜が少し咲きはじめてくれていました。このことも、嬉しい。ありがとう。
ここからは興味のある方がどうぞ。歴史話です。
平田篤胤さんと佐藤信淵さんは同じ秋田出身。平田篤胤さんは江戸時代末期の日本の国学者です。子孫は神田明神の宮司さんもされたようですね。本居宣長さんの考えに傾注するも、ウキペディアなどのネット上の情報を見ると死後の世界感に違いがあります。本居宣長さんの死後は黄泉の国といい、とても、厳しい世界であって、なので、死は辛いことと、認識されていたようなのですが、平田篤胤さんは、身体が亡くなっても、魂は残ると言ってますね。そして、その考えに心が惹かれたのかわかりませんが、佐藤信淵さんは年齢が上にも関わらず、篤胤さんの弟子になって、国学も学ぶのですね。結構、明治政府を立てるために、思想的バックアップになったんだと思います。帝国主義的思想もあって、軍国主義へ動く舵取りになってたようにも記載されていました。また、一方、農業が国力の基本とも言ってたらしいです。このことは、私も大事なことと思いますね。
松応寺の門の入り口には
「史跡 贈 正五位 佐藤信淵大人之墓」との石碑が立っていて、年代を見ると昭和12年に立てられていました。
佐藤氏は時代がどんどん軍国主義へと進む時代背景の中で、思想的にけん引する立場になったのかな?
思想のよい、悪いは時代によって変わります。
本人もこういう軍国主義に行くことを考えて書いたはずじゃなかったのに、なぜか、そう取られちゃったな。なんて思っているかも知れません。
やはり、武器で人を殺めるような世の中からは、できるだけ早く脱却したいな。