覚醒 #4
小窓から射し込まれる夕明りが、薄汚い便所を、じわりじわりと、染め上げてゆく。
逢魔刻、と呼ばれたる時間の訪れ。それを警告せし、いや、正確には、ただ学業の終わりを告げるだけの鐘の音が、校舎の中を浮遊し、校舎だけに留まらず、周辺の、公園や団地、田畑に挟まれた公道を、吹き抜け、それは、誰にも届かず、消え失せゆく。
すでにこの街では、市民に向けて、帰宅の時刻を告げる鐘の音が、響き渡っていた。聴けば、誰もが、懐かしさと、嗚呼、今日もまた一日が終わるのか、という寂しさに打ちひしがれること請け合いだ。同時に、早く、早く帰らねば、と、言い知れぬ恐怖や焦燥に駆られてしまう。
逢魔刻。言葉の意味を、頭では完全に理解せずとも、心の奥底では、あまりいいものではないのだと、市民たちは警戒しているのだろう。それでいい。そのほうが、いい。
瞼をあける。ところどころが黒ずんだ、タイル張りの床が視界に入る。重く、粗い、鐘の音が、うっすらと聴こえてくる。湿っぽさを纏った臭気が鼻をつき、口の中に粘り気があることに不快感を覚え、自分が今、無様にも、便器の上で腰を抜かし、うしろの壁に、ずるりともたれかかっていることに、気がつく。
気怠さに襲われながらも、五感を取り戻してゆく、慧。だが、自慢の第六感は閉ざされたまま、思うように使えない。
身体に、外傷は無さそうだ。悪霊に直接的な攻撃は受けていないのか。気を、失っていただけらしい。
慧は、便器から降りようと床に片足をつけるが、うまくいかず、倒れそうになるのを、すぐ横の壁に手をつけ、支えとした。そのまま、ドアの鍵を解錠し、キィ…と、ドアを、開ける。そこに、悪霊の姿は、ない。
固唾を飲み、歩を進めるが、視界には、なにも映らず、少しずつ取り戻してきた第六感を以ってしても、悪霊の気配は感知できない。
この学校に入学して数ヶ月、あれほどまでに追い詰められたのは初めてのことなのか、慧は動揺を隠せない。怯えるばかりで、戦えなかった自分を、情けなく思う。慧は、悔しがって拳を握りしめる、なんてことはせず、並べられた小便器の前で、呆、と、突っ立っている。
しばらくして動き出し、洗面台まで足を運び、蛇口を捻り、出てきた水で、手を洗い、口をゆすぎ、顔を洗う。濡れた顔を鏡に向け、蛇口から溢れ出る水の音を聴きながら、静かに、呼吸を整える。落ち着いてきた、その矢先、容赦なく慧の精神を蝕むのは、悪霊による攻撃の、後遺症。
慧は、鏡にうつる自分の顔から目を背け、うなだれる。洗面台に溜まってきた水が、ごぼごぼごぼと、排水口に、飲み込まれていった。
静寂が、空間を覆っている時、普段全く意識していない物音が、うるさいくらい大きく聴こえる事が、皆にもあるだろうか。
ベッドに横たわり、布団もかけずにうずくまる桜は、今まさに、その現象の中に身を置いていた。寝室の柱に、ぽつねんと存在する、黒縁の掛け時計。針は、5時6分を指していた。鐘の音が市民たちの耳に届いてから、少し経つ。
寝息ひとつ立てない、かと言って口も開かない、そんな末っ子娘の身を案じて、寝室の入り口から、母が、桜の様子を見守っていた。衣類が詰め込まれた洗濯籠を、手にぶら下げている。小さく、鼻から息を漏らすと、寝室を後にして、居間へ向かった。
ちゃぶ台の隣あたりに、洗濯籠を置いて、腰を落ち着かせる。休む間も無く、洗濯籠から衣類を引っ張り出し、広げて畳んでは置き、広げて畳んでは置き、を、手際良く繰り返す。
母の傍らにある黒い機械物の画面には、御札が貼られていた。御札の横には、チラシの裏紙が、セロテープで乱雑に貼られている。そこには『二週間テレビ禁止』と、油性ペンで書き殴られていた。
現在、世間を騒がせている例のニュースは、鐘田一家にとっては、危険だ。賢明な手段である。特に昼ドラや韓流ドラマなどを観る趣味を持ち合わせていない母からすれば、容易。
洗濯物を畳み終えた母は、やはり休むことなく、腰を上げ、台所へ向かう。冷蔵庫を開け、中身を確認し、取り出した豚のバラ肉と、鳥のもも肉を、あの子はどっちが食べたいのかしら、と見比べる。本人から答えを聞くべく、二つの肉を一旦冷蔵庫にしまい、扉を閉め、寝室へ向かおうと廊下に出る。視界の端に、男が、玄関に立っているのが、ぼんやりと映った。母は、男の方に首を向け、呟く。
「俊彦。なにしてるの」
いつものように、自室に篭ってるとばかり思っていた長男坊が、何故か玄関に立っている。どこかへ出かけようと、しているのではない。どこかから帰ってきた、という様子だ。おかしい。格好も、部屋着から替えることなく、その上、裸足だ。よく見れば、部屋着の下腹部あたりや、足元に、泥っぽい汚れがこびりつき、右手には、錆び付いたスコップが握り締められている。
スコップを握り締めるその手は、強く、震えていた。
「俊彦、なにがあった」
母が、鋭く、問う。俊彦は、答えようとしない。それでも母は、急かすことなく、じっと、息子の答えを待つ。
対峙する二人の間に位置する寝室、桜が寝込んでいるはずの、その空間から、相も変わらず、音沙汰は無かった。
都心部所在の、壮観たる施設。その地下駐車場に、黒のワンボックスを停め、降りてきたのは、シワひとつないスーツを着こなす男。
ジェルで仕上げたオールバックに、丁寧に整えられた顎髭。容姿端麗。茶の間を沸かす、美形の俳優並みだ。
俳優男は、アタッシュケースを片手に、リズム良く、革靴の音を鳴らし、地下駐車場を、奥へ、奥へと進んでゆく。
柱の陰にひっそりと構える、廃れたクリーム色の扉を押し開け、ぐぅうんと、上の方へと伸びた非常階段を、これまたリズミカルに上がってゆく。革靴と金属の打ち合う音が、よく響いた。
階段を二つほど上がり切ると、右手にある、先程と全く同じ色をした扉を押し開け、施設内に入る。
誰一人通っていない、薄暗い廊下。点滅する蛍光灯。俳優男は動じず、廊下を右の方へ進んでゆく。が、ビニールの幕が、行手を阻んだ。
幕の中央には、黄色地のステッカーが貼られてあり、そのステッカーには、何を表してるのかわからぬ、不気味な、黒色のマークが刻まれている。俳優男は、持っていたアタッシュケースのロックを外し、取り出したガスマスクを装着すると、居酒屋の暖簾をくぐる軽快さで、幕をこじ開け、更に進んでゆく。俳優男が目指すのは、廊下突き当たりに位置する、両開きのドアだ。
そのドアの向こうにある部屋では、永年、ヨソじゃ世話できないような、死屍累々の、検視、解剖が、執り行われてきた。今日もまた、その案件だ。とっとと済ませて、呑もう。確かこのへんに、開拓し損ねている焼き鳥屋があるはずだ。俳優男は、片手でネクタイを締め直し、歩を早めた。
ピピッ、と、奥の方から音が鳴る。ドア横に設置された、セキュリティロックのライトが青く光り、ドアが、自動にスライドして開きだした。
珍しいな、誰か迎え入れにでも来たのか。俳優男は片眉を上げる。しかし、部屋から出てきた者の様子から、そうではないことが窺えた。衛生マスクに、白衣姿の中年男性。目元からわかる、顔面蒼白具合。どうしたのだと、俳優男は、白衣に問う。
「侵入者です。検体が、盗まれました。上半身も、下半身も」
馬鹿な、と唸る俳優男。
「突然ブレーカーが落ち、すぐに処理をしたのですが、おそらくその隙に…暗視カメラの監視映像にも、バグが発生しており、ブレーカーが落ちた、十七時〇分から十七時六分の間、ノイズが走るばかりで、ろくに何も映しちゃいませんでした」「六分間で、犯行に及んだってのか、そいつは」「単独か、集団によるものなのかもわからない。確かにわかることは…まともな人間では、ない」「死体を盗みやがるんじゃあな」
「いえ、そうではなく」
白衣が口籠もり出すのを見て、俳優男は、目の色を変えた。
「なんだ」
「…その場にいた検視官が、殺害されていたのです、が、その」
話を聞き終えぬうちに、俳優男は、白衣の横を通り抜け、素早く、セキュリティロックを解除し、冷ややかな空気を放つ、その部屋に、足を、踏み入れた。
数少ない水銀灯が照らす、作業台、の足元に、惨たらしい屍があることを確認する。
それを囲むようにして、数人の検視官が、怯えて、動けずにいた。
無理もない。屍は、見事、腹を掻っ捌かれている。まるで、大振りの刃物で切り裂かれたかの如く。
異常だ。厄介だ。残業だ。嗚呼畜生、これじゃあ、今日の一杯はお預けじゃないか。
俳優男は、ガスマスクを外し、眉を八の字に曲げて、深く、ため息をついた。
一瞬、耳元を横切った不快な羽音が、余計に、俳優男を、苛立たせる。
「虫の」
俊彦が、ようやく口を開いた。
「"虫の知らせ"が、聞こえたから、それで、裏庭に行って、墓を、今朝桜が作ってくれた、虫たちの墓を、掘り起こしたんだ」
なんとか、伝えよう伝えようと、震える声を絞り出さんと、途切れ途切れに話す、俊彦。
母は、俊彦の姿をじっと見据えながら、黙って、耳を傾けていた。
「無いんだ。無かったんだ。虫たちの死体が、ひとつも」
むくり、と、桜が、身体を起こした。目を向ける、母。桜は天井を仰ぎ、低く、呻き声を発していた。
「桜」
母の呼び掛けを無視して、桜が、なにかを、吐き出した。吐瀉物ではない。一握り程度の大きさのなにかが、ベッドの上に吐き出された。
直後、桜は、血相変えて、酷く喚き散らしながら、ベッドを飛び降り、こちらへ向かって走ってきた。襲い掛かられるか、と思ったが、桜は、母や兄を、尋常ではない力で突き飛ばし、喚き声を絶やすことなく、裸足のまま、外へと走り去ってっていった。
まずい。母はすぐさま娘を追う。戸惑いを隠せぬ俊彦に、ここに居ろ、慧が帰ってきたら現状説明をするように、と、指示を残して。
俊彦は、とにかく自分を落ち着かせようと呼吸を繰り返す。大丈夫、大丈夫と、呟き続ける。大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫。
ふと、俊彦は、桜がベッドの上に吐き出した、それに、意識を向け、ゆっくり、ゆっくりと、寝室に足を踏み入れ、ベッドに、近づいてゆく。だんだんと、自分の呼吸が荒くなるのを感じ、それでも、震える足を止めることもできずに、ベッドの上のそれは、徐々に、視界に入ってきて、ついには、それを、確実に、目に焼き付け、俊彦は、声にならぬ叫びを上げ、逃げ込むように、うしろの壁にへばりつく。衝撃で棚が揺れ、本が数冊、落下したことなど、気にも留めず、俊彦は、両の眼をひん剥き、ベッドの上のそれを、睨んでいる。
桜の体液に塗れた、兜虫と黄金虫のバラバラ死体を、ただただ、睨んでいる。
「生きている、三島禍逗夫は、生きている」
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