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覚醒#9

亡、と少女は眺めていた。
今にもこの世の全てを攫っていきそうな、おぞましい気配を帯びた闇夜を。
亡、と少女は眺めていた。
闇夜に浮かぶ、魔物の巣窟が如き重厚な鉄工場を。
亡、と少女は眺めていた。
鉄工場の煙突からくゆらくゆらと立ち昇る、死者の葬列が如き黒煙を。

少女は、いつもは三つ編みのふたつ結びにしている筈の黒く長い髪を無造作に下ろし、だらしなく崩れた部屋着、土や砂だらけの裸足という、如何にも、一心不乱に家から飛び出してそのまま必死に逃げてきた、と言わんばかりの格好をしていた。事実、少女は、一心不乱に家から飛び出してそのまま必死に逃げてきた、のだ。

鐘田一家の末っ子娘である、鐘田桜は、自身を悪い蟲から守ってくれていた母や長男坊を振り切ってまで、何故、家から飛び出し、逃げてきたのか。何故、独りになってしまったのか。何故今もこうして、誰もいない学舎の屋上で、独り佇んでいるのか。屋上に上がってきたその行為に、自殺の意でもあるというのか。
靴を脱いで丁寧に揃えていれば、一目瞭然ではあるが、なにぶん彼女は、元より裸足だ。判別は難しい。しかし、彼女のその目は虚ろで、ただでさえ白い肌は血の気を失ってさらに青白くなっている。とても生への意志を感じ取れる様子では無い。
やはり自殺なのか。だとするならば、もしこのまま自殺が遂げられたとするならば、たった今、行方不明となった娘を血眼で街中探し回る母と、妹の無事を祈りながら妹の帰りを家でじっと待つ長男坊の思いはどうなってしまうというのか。全身の骨が折れ曲がり、顔や頭が潰れた肉塊を見て、母は泣き崩れるのか。長男坊は叫び狂うのか。果てに二人は、否、父や次男坊も含めた鐘田一家は、鐘田桜の自殺の真意を知ることも、ましてや、それを鐘田桜の口から聞いてやることすらもできずに、娘の、妹の、その白く細い身体が火に焼かれ、灰になるのを見届けなければならないのか。
そして鐘田桜は、死してなお、ドス黒い憎しみを抱いたまま悪霊と化し、永遠にあの男を、三島禍逗夫を呪いながら、苦しみ続けていくのであろうか。

先程、母と長男坊が鐘田桜を悪い蟲から守っていたという旨を書き記した、が、悪い蟲というのは決して、好ましく無い交際相手やタチの悪い恋人というくだらない比喩では無く、文字通り、言葉通りの、悪い蟲であり、それはすなわち、蟲を扱う霊能力者、三島禍逗夫を指す。
三島は、吊り目に銀縁眼鏡、こけた頬、黄ばんだ歯、尖った顎、骨張った身体と、容姿こそ醜悪であるが、蟲を扱うなどとは、宿している霊能力もまた醜悪である。

姿や力だけに非ず、三島は、その人格すらも醜悪であった。
醜悪がゆえに、鐘田桜を、いとも簡単に穢すことができたのだ。

鐘田桜の身に何が起きたのか、それを今ここに書き刻むべきであろう。どうか、よく読んで頂きたい。

三島は鐘田桜の通う、今まさに鐘田桜が立っている場所、神宿第二中学校の教員だ。教員であるにも関わらず、否、三島にとっては、教員であるからこそというべきか、権威を振るって数名の女生徒に手を出していた。
裏庭の隅、放課後の体育倉庫、外階段の踊り場…蜘蛛の巣が張られているような陰に女生徒を引きずり込み、身動きできない女生徒のシャツを剥がし、露わになった肌に自身の舌をナメクジが如く這いずらせて、そのままその湿ったナメクジで女生徒の口を塞ぎ、まだロクに発達していない女生徒の身体を、乱暴にまさぐり始める。最後まで淫行を終えたかどうかは時と場合によるだろうが、最低でもそこまでの行為を、女生徒は許してしまっていた。恐怖と混乱が、女生徒の脳を蝕み、掻き回し、麻痺させていたがゆえに、かもしれない。

三月九日、午後四時五十三分、三島は、鐘田桜を新たな餌として捕らえた。薄暗い空の下、裏庭の隅にある、古びた焼却炉の陰に連れられた鐘田桜は、一体何なのかと、三島の顔を見やると、普段の陰気で軟弱な姿からは想像もできない、肉欲を晒すおぞましい顔つきに、言い知れぬ恐れを感じ、瞬間、たちまち見えない糸でがんじがらめにされたかのように、身動きが取れなくなった。これは、霊能力によるものでは無い。人間の心理を利用した、精神的操作の一種に過ぎない。三島は、鐘田桜が身動きできないことをいいことに、頭を撫でつけ、可愛らしく結われた三つ編みを気の済むまでいじくると、グイッと鐘田桜の小さな顎を持ち上げ、掠れた声を潜めて呟く。
「桜、おまえは、可愛らしい口をしているなぁ」
粘り気のある音を立てて、三島は笑みを浮かべる。剥き出された歯は相変わらず黄ばんでおり、少し息を吐いただけでも匂ってくる酷いアンモニア臭に、鐘田桜は思わず眉を顰め、息を止めた。ようやく息をまともに吸えるようになった頃にはすでに、三島がズボンのチャックを下ろし、自身の局部をまさぐり始めていた。鐘田桜は、この男は目の前で何をしているのだろうかと茫然としていると、三島に乱暴に頭を押さえつけられ、地面に強く膝を打つ。突然の衝撃に脳が揺れ、視界がぐらつく。構わず三島は、押さえつけた頭をグンッ、と上に傾けさせ、もう片手で掴んでいる自身の陰茎を、鐘田桜の口先に向けた。鐘田桜は、それを硬直した巨躯なミミズだと錯覚するくらいに混乱しているが、本能的に拒絶反応を起こしたのか、鐘田桜は咄嗟に頭を引こうとするも、無駄であった。頭を掴む三島の力が余計に強まっただけであり、その上、反動でさらに陰茎が口元に迫る。再び漂ってきたアンモニア臭が、鐘田桜の鼻を衝く。
「口を開けなさい桜。難しいことはない。おまえはただ口を大きく開けてくれればいい。あとは、先生がやるから。先生が良いと言うまで、動いてはいけないよ」
三島は優しく言った。鐘田桜を見下ろすその目には優しさの欠片も無かった。無論そんな指示に従えず、鐘田桜は、歯をがちがちと鳴らして、僅かに首を振り、三島に訴える。できません。ごめんなさい。ゆるしてください。「開けなさい、開けろ、開けろ」苛立ちを見せ、三島は、鐘田桜の髪の毛を激しく引っ張り回す。「ほら、ほら、開けろ、開けるんだよ」一向に力を緩めない三島に、何度も何度も、髪を引っ張り回され、鐘田桜は、恐怖と混乱に脳をぐちゃぐちゃに掻き乱され、伝えたいことはあれど、思考がまとまらず、言語化できない。声帯が機能せず、声を発せられない。憐れにもそれは、生意気な抵抗であると見なされ、怒り狂った三島は、鐘田桜の髪の毛を一度に何本も引っこ抜いた。ぎゃあっ、と、鐘田桜が叫び声を上げ、地面に倒れ伏す。激しい痛みに、頭を抱えてうずくまる。母に丁寧に結わいてもらった三つ編みの片方は乱雑に解かれ、ぼさぼさに乱れた髪の毛から、歪んだ表情がのぞいていた。
視界に映る三島の足が、こちらに踏み込んできたのが分かると、鐘田桜はようやく、震える声で、ずっと言おう言おうとしていた言葉を絞り出す。
「ごめんなさい先生、口を開けます」
この男は恐ろしい人間なんだ、断れば、もっと酷い目に遭うかもしれない、もしかしたら、わたしだけじゃなくて、お母さんや、お兄ちゃんたちにまで、何か良くないことが起きてしまうかもしれない、それなら、それなら…そう覚悟を決めたつもりでいるが、鐘田桜の目からは涙が溢れ、鼻水まで垂れ流し、自身の白いシャツにシミを作ってゆく。ああ、帰ったらちゃんと、洗濯しなくちゃな、そんなことをぼんやりと考える鐘田桜を、地面から引き剥がし、頭を傾けさせ、三島は、もう言葉で指示をすることもなく、鐘田桜が口を開けるのを黙って待った。鼻水をすする気も起こらず、ぐしゃぐしゃに濡れた口元も拭わず、鐘田桜は、震える口を、大きく縦に開ける。まるで、母に流動食を与えられる、泣き虫な幼女の様であった、が、幼女の口の中いっぱいに押し込まれたそれは、あったかい具なしの野菜スープ、などではなく、悪臭漂う、赤黒い棒状の肉塊だ。
喉の奥まで違和感を感じた瞬間、反射的にえづきたくなったが、刺激を与えてしまえば、またこの男は怒り狂うかもしれない。鐘田桜は、えずきを堪えて、ぎゅっと目を閉じる。本当ならば耳も塞いで、粘っこく鳴り響くその音すらも遮断したかった。しかし、恐ろしくて腕を動かすことすら叶わないのだ。幸いにも、下校を促す音楽が聴こえてきた。鐘田桜はしがみつくように耳を傾ける。しかし、家路へつきたい気持ちにさせる、哀愁を帯びたその旋律が、今ある現実の苦しみを一層際立たせた。逃れたくても、逃れられない、旋律は嫌でも耳に流れ込む。せめて、絶対に目を開ける事だけはせず、今されている事は、自分自身にされている事ではないと、鐘田桜は、必死に必死に思い込んだ。えずけない、息もできない、ごぼっ、ごぼっ、涙も鼻水も涎も溢れて、もう何もかもが、何もかもが、なにもかもがね、もうね、あたしね、ぼくね、あなたね、おまえ、おまえ、おまえ、嫌、嫌、嫌、嫌嫌嫌嫌嫌嫌蟲蟲蟲蟲嫌嫌嫌嫌嫌イや、いや、ぎや、ぎゃえ、ぐ、が、げろ、麤辤蚓、ぜリリリれられびゃ蛾驘じゃ、ぼ、ぼ、ぼ、ゆなよぬせそやみなくこゃなしんなしねころすなんでこんな巫山戯やがげげげげげげげげげげげげげじじじじじじげじげじげじげじばばばばばばばば、毦ぎぎ、螻蛄蝦蛄ぬめ、ずれんべ、ぶびらばぐばでざんろろろろろろよよよよよよで髀ひひ、ひ、ぐげッ、獄…

ガタンッ、ズズッ。

痛々しく、鈍い音が聴こえてきた。驚き、耳を澄ますも、聴こえてくるのは、未だ鳴り止まぬ下校の音楽。気づけば、口の中に、もうあの肉塊は無い。だらしなく垂れる涎と、鼻水。ゆっくりと目を開く。涙で霞む視界に、奇妙な光景が映る。

三島が焼却炉に寄りかかっている。吐き気をもよおしているのか、口を押さえ、息を荒げている。少し目を凝らしてみると、三島の足元に、うぞうぞと蠢く小さな何かが、ひとつふたつ落ちているのが見えた。あれはなんだと観察していると、また上から落ちてくる。どうやらそれは、三島が口を押さえる手の隙間を伝って、ずるり、ぽと、と、落ちている様だった。三島の口からこぼれ落ちるそれがなんなのかは、よくわからない。しかし三島自身、それを苦しげに吐いている様子でいることは確かだ。突然の事態を前に、鐘田桜はさらなる混乱に襲われる、ことは無かった。むしろ不思議と、精神状態が穏やかになってゆく感覚すらある。鐘田桜には、ひとつだけ分かり切っている事があったのだ。
三島を苦しめているのは、自分の霊能力では無い。似た部分はあるが、あんな呪術は自分には無い。そしてなにより、三島の周囲を渦巻く強い霊気は、明らかに自分のものでは無い。三島に手を下したのは、自分では、無い。
その事実が鐘田桜を、罪悪感という悪しき思念から救った。よかった、わたしはなにもしていない、わたしはなにもしていない。
暫くして、三島がこちらに意識を向けた。焼却炉から身体を離し、すっかりシナびた陰茎をぶらつかせながら、おぼつかない足取りで鐘田桜へ歩み寄ろうとするが、二歩、三歩踏み込んだところで激しく咽せ始め、吐瀉物を撒き散らす。地面に手をついて、四つん這いの状態で、唸り声を放つ。
「鐘田桜ぁッ、おまえ俺に何をしたぁあッ」
鐘田桜は身体に力が入らず、へたり込んだままでいるものの、三島の吐瀉物混じりの怒号には怯えもせず、虚ろな目で、三島が苦しむ姿をじっと見据えている。
三島はいよいよ、痙攣まで引き起こし、のたうち回る。カヒューッ…カヒューッ…と喉の奥から笛を鳴らして、白目を剥き、歯を食いしばり、泡をも吹き出す。嗚呼、誰もが思う、死の寸前だ。やがて、三島の動きが止んだ。絶命か、否、白目を剥いたまま、むくりと立ち上がり、ぎこちない歩行の仕方で、鐘田桜の方、とは軌道を大きく外して、茂みに隠れる裏門の方へと歩いていった。蟻の組織を蝕んで脳を支配し、ゾンビと化した蟻を操作する寄生菌がどこかに存在するらしいが、三島も何かに操作されているとしか思えない動きで、校舎内から姿を消した。
それを見届けた鐘田桜は、体液に塗れた顔を拭い、鞄を拾い上げ、ふらつく足で、運動場の脇にある手洗い場へ向かう。
辿り着いてすぐに、蛇口を捻り、手を洗い、顔を洗い、髪を洗い、うがいを無心に繰り返す。何度すすいでも、口の中に残った味や匂いが消え失せない。それでもうがいを繰り返す。昇降口から出てきた何人かがこちらに目をやり、そのたびにうがいを止めて、何事もないフリを見せた。なんとか最後のすすぎ水を吐き出して、蛇口を捻る。穢れを洗い流してもなお、腹立たしいくらいに澄んだ水が、ごぼごぼと音を立てて、排水溝に吸い込まれてゆく。びしょ濡れになった髪を滴らせ、鐘田桜は、何気なく、運動場の方を振り向いた。
ユニフォーム姿の男子生徒たちが、大声を飛ばしながら、球を打ったり、球を蹴ることに躍起になっている。がらんどうの平地をふたつに分けて、それぞれの領域で、必死に身体を削っている。自分とはほとんど無縁の世界。鐘田桜は普段から、教室の窓越しに、或いは、屋上の隅で、それらを眺めていた。男子生徒の誰に恋をしていたわけでもない。鐘田桜は、放課後の学校が好きだった。時折聴こえてくる、吹奏楽の少しでたらめな演奏、運動場の脇を通るたびに香ってくる制汗剤の匂い、いつまでも帰るそぶりを見せず、教室の後ろで駄弁る女生徒、部活動をサボって、こそこそと門へ向かう男子生徒。その全てが、鐘田桜の精神に安らぎを与えていた。鐘田桜にとっては十分な幸福だった。この放課後の時間に浸るためにこそ、鐘田桜は日々、学校へ通うことができたのだ。
「けど、たぶんもうだめだな」
そう漏らし、鐘田桜は、力無く笑った。
じわりじわりと、放課後を彩る全てが憎くなるのを感じ、鐘田桜は、運動場から目を逸らし、振り返ること無く、その場から立ち去った。帰ろう。家へ帰ろう。家族の皆に心配させたくない。そうだ、帰りにヘアゴムを買って三つ編みを直さなくちゃ。シャツの染みはなんて言おうか。ああ、なんだかとても、疲れたな。
「あら、こんにちは鐘田さん、どうしたの髪の毛」
つかれた。眠りたい。今すぐこの場で眠ってしまいたい。
「なに、シャツまでびしょびしょじゃない。風邪ひいちゃうわよ」
そうだ、眠ろう。眠ってしまおう。眠っちゃえば嫌なことなんてぜんぶ、忘れられるよ。
「…さようなら。気をつけて帰るのよ。またあしたね」 
さようなら先生。おやすみなさい。

どれだけの時間が経っただろうか。気持ちよく眠っていたはずなのに、鐘田桜は、何故だか激しい痛みに襲われて、目が覚めてしまう。視線の先では、真っ黒な暗雲が、夜空を埋め尽くしていた。明日は、雨だろうか。眠っている間、悪夢を見ていた鐘田桜は、目が覚めても視界に広がる暗い世界に、なんとなく嫌気が差した。鐘田桜が見ていたものは、実際には悪夢でもなんでもなく、単なる記憶、鐘田桜に心的外傷を及ぼした、数日前の体験なのだから、尚更不快だろう。

三月十二日、現在、午後九時十一分。鐘田桜は、神宿第二中学校の屋上から飛び降りた。裏庭に落下したものの、命を断つことに失敗し、死ねずにいた。どうやら発作的に、自身の霊能力で脳や内蔵、血管に障壁を張り、衝撃から守ってしまったらしい。だが頭蓋骨と脊髄は酷く損傷し、身体を動かしたくとも、地獄の痛みに襲われ、ぴくりとも動かせない。ロクに声も出せず、助けも呼べやしない。あの忌々しい体験で味わった苦しみが蘇り、呼吸が荒くなる。涙が一縷、鐘田桜のこめかみの下を伝う。
ふと地面に目をやる。暗闇の中、蝶の死骸を引きずり運んでゆく蟻の姿が見えた。蟻はそれを、巣で待つ女王蟻に食わしてやるのだろう。死骸を引きずるそいつが雄か雌かは知らないが、蟻社会において、雄は、働きもせず、戦うこともせず、ただ繁殖の為に、交尾をする為だけに生まれてくると、虫好きの長男坊から聞かされたことがある。その上、交尾の最中に雌たちに身体をちぎられていき、最終的にバラバラになった身体は、幼虫の餌にされるのだという。それでも最後まで交尾を終えることができた雄は、蟻社会では幸せ者らしい。なんとも可笑しな話だ。ああ可笑しい、可笑しいな。鐘田桜は掠れた声で笑い出す。呼吸を荒げたまま、高らかに笑う。涙が止まらない。可笑しくて仕方が無い。いよいよ笑い声が絶頂に達してゆく中で、鐘田桜は思った。

ほらみろ、やっぱりあたしはもうだめだ。

狂ったように泣き喚く、女生徒の叫びは、この世に傷ひとつ、負わせる事もできない。

ー次回継続。

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