覚醒 #7
「良かったんです」
目の前に置かれた珈琲に一度も口をつけず、少女が漏らした言葉に、男は思わず小さく聞き返す。
「良かったんです。相手が人じゃないだけ。もし、わたしの全てを奪ったそれが、目に見える、実体のある生物、たとえば人間だったのなら、わたしはずっと、それを憎みながら生きなきゃならない。そんなの、あまりにも、辛いじゃないですか。だから、良かったんです」
作り笑いを浮かべながら、ぽつりぽつりとそう吐き捨てると、少女は、珈琲カップを手に取り、生ぬるくて苦い液体を構わずぐいっと飲み干した。その目は変わらず、虚ろなままだ。
男は、少女のその姿を見つめた後、止めていたペンを再び走らせた。小さなノートにはすでに、幾多の文字が乱雑に並べられており、いずれも、一ヶ月ほど前に発生した、大震災を表す言葉であった。
それは、呆国東部に位置する、乙津半島を震源とした、呆国史上最大の地震による、大規模な災害である。
死亡者は二万を超えたと言われる、が、数字は定かではない。ただ、被災地となった斧磊(ふらい)町の住人のほとんどが、災害の渦に飲み込まれ、帰らぬ者となったことは確かである。
斧磊町は瓦礫の山に埋め尽くされ、混沌とした灰色の町と化している。最早、人の住む場所では、無い。時折、人と思わしき肉片を咥えた野良犬が歩き回っているか、カラスの群れが喧しく鳴きながら空を飛び交っているか、その程度のものだ。
斧磊町は今では立入禁止区域に指定され、災害記録に関しても、その詳細が国から開示されることはなく、はじめは不可解にも思う人間も少なくはなかったが、かといって能動的に知ろうとする者がいるわけもなく、そうしてこの大震災は、虚しくも、風化の一途を辿ろうとしていた。
しかし、裏の世界を拠点として活動する組織・報道機関EWSの職員である一人の男が、一ヶ月間の沈黙を破るように、動き出した。
男は、数少ない生存者から何か情報を聞き出せないかと接触を試みた、が、どうやら相手が悪かったようだ。
生存者の少女、聖杏奈(ヒジリ アンナ)は、十五歳の女学生である。極めて口数が少なく、ようやく何か話し始めたかと思えば、先程のような、妙にうわごとめいた事ばかりで、具体性を帯びない。
だが、そんなうわごとの中にも、引っ掛かりはいくつか散りばめられており、男は油断することなく、ノートに書き留めた。記者たるもの、些細な情報でも、取りこぼすわけにはいかないのだ。
「ご結婚されてるんですか」
突拍子も無い聖杏奈からの問いに、男は戸惑うが、直ぐに自身が嵌めている指輪を確かめて、ああ、と短く答えた。
「ちゃんと毎日、いってきます、って言ってますか」
またしても突拍子も無い問いに、男は思わず眉をひそめた。
「ちゃんと毎日言ったほうがいいですよ」
男の顔を見もせず、聖杏奈は呟く。その表情は、窓から差込む光に照らされながらも、脆く、溶け失せてしまいそうで、男は、ひそめた眉を戻し、そうするよ、と優しく言った。
今目の前にいるのは、家族を失った十五歳の少女なのだ。
男はしばらく、何も言えず、煙草を喫していた。
聖杏奈も同様に、軽く俯いたまま、黙っている。
来客を知らせる扉の鈴と、それに応える店主の挨拶だけが、木造の空間に響き渡り、穏やかとも言えるようで、そうでもないような、少し居心地の悪い午後が、二人の間を、淡々と流れてゆく。
「今日はこれくらいにしとこうか」
男が、煙草を灰皿に擦り付けながら、口を開く。
「ほら、もうすぐバイトの時間だろう」
ああ、と、腕時計を確認し、聖杏奈は、すみませんと小さく頭を下げて、席を立った。そしてたどたどしく財布に手を掛けるが、男がそれを制する。
「俺が出しておくから。もう行って大丈夫」
「え、でも」
「まあとりあえずの報酬ってことで。もちろんちゃんとしたのは後日渡すけど」
「いやでもやっぱり」
「珈琲一杯くらい奢らせてくれ。ほら行きな」
男が幾ら言っても、聖杏奈が財布から手を離すことはなく、強引に小銭をテーブルに置いた。
「ごめんなさい、なんだかそういうのは、苦手で」
そうか、と、男は仕方なく小銭を受け取る。
「じゃああの、また連絡します」
「ああ。こっちからも何かあれば」
「はい。じゃあ、失礼します」
鞄を両の腕でぐしゃっと抱きしめながら、勢いよく頭を下げて、聖杏奈は店を出ようと駆け出す。
「いってらっしゃい。頑張れよ」
男が何気なく発した言葉が、聖杏奈の足を止めた。
「いってきます」
無垢な笑みを男に見せて、元気よく、少女は言った。照れ隠しか否か、慌てて扉を開けて、店を飛び出す。
先程までの様子とはまるで違うことに男は驚いたが、いやそうか、ああいう娘なんだな、と思い直し、力が抜けたようにひとり笑いながら、煙草を咥え出す。
直後、無数の凶弾が空から降ってきて、窓の向こうにいた人間たちを、一瞬で肉塊にした。
窓ガラスにへばりついた目玉が、男の顔をじっと見つめ、歯茎は、微笑みを絶やさぬまま、ずるずるとガラスを伝って落ちていく。それらは全て、聖杏奈の一部であった。
サイレンが鳴り響く。男の脳裏に家族の姿がよぎる。店を飛び出す。上空を見上げる。五芒星を刻んだ戦闘機の群れが、轟音を立てて飛んでゆく。民間人に向けて機銃掃射を行う。いよいよ戦争が始まった。相手は武装大国。敵うわけはない。絶望である。呆国民は無惨に死ぬか、憐れな奴隷と成り果てるか。
いや、だがもし、と男は考える。
もし、軍があの兵器を使えば、一つの町をいともたやすく崩壊させる程の力を宿す、あの兵器を使えば、或いは。
つまりは、一ヶ月前の例の実験が見事、呆国戦勝への希望となったということを、意味する。
およそ二万の死は無駄ではなかったのだ。
畜生が。男は叫び、地面を蹴る。向かう先は、愛する家族、ただそれだけだ。がむしゃらに、ただがむしゃらに、走る。
会わねば。守らねば。ただいま、もう大丈夫だ、お父さんがついていると言って、抱きしめてやらねば。みや子、俊彦、慧、桜…
息も途切れ途切れに、男は、家族の名前を呼ぶ。
終わらせてたまるか。まだおれは、あいつらと一緒に、一緒にご飯を食べたり、テレビを観たり、それで、そうだ、久々に今度の日曜にみんなで遊園地に行くのも悪くないだろう、よし、帰りに回転寿司にでも寄るか、ああそうだ、それがいい、たのしそうじゃないか!
「待ってろお前ら!」
男は、靴が片方脱げ落ちたことなど構いもせず、走る。つまずき、転がり、倒れても、起き上がり、走る、走る、走る、走る。天が味方しているのか、降り注ぐ凶弾や爆撃による被害をひとつも受けることなく、戦地を駆け抜ける。それだけでない。ほとばしる家族への愛が、自身の肉体を強化させている。これが人間の可能性なのか。これが人間の可能性なのだ。なんと素晴らしきことか。人間万歳。呆国万歳。呆国万歳。呆国万歳。
男は、結局家族に会えることもなく、開戦から四ヶ月後の八月八日、幾十人の見知らぬ者たちと共に、生き埋めにされる。兵器"人柱"発動の供物として。
そして大災害が敵国を沈め、我が国は見事、勝利を収めた。
嗚呼、呆国、万歳。
時は遡り、三月十二日、午後五時三八分。鐘田一家は、破滅の危機に陥っていた。
長男・俊彦は家で身を震わせ、次男・慧は路地裏で衰弱し切ってロクに身動きがとれず、母・みや子は末っ子の桜の行方を一心不乱に探し回り、その桜は奇怪な様子で家から飛び出たまま、依然行方をくらましている。
「まずいね、このままでは」
みや子が、必死に駆け上がった丘の頂上から街を見下ろし、苦しげにそう呟く。
直に日が沈む。見えざるナニカの垂涎混じりの呻き声が、みや子の脳内に響いた。
ー次回継続。
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