覚醒illegal #1
此処、呆国での年間死亡者数は、現時点で平均して約143万人。中でも割合が高い死因に上がるのは、脳血管疾患か心疾患であり、それぞれ20%程度を占める。反して、車両事故による死亡者の割合は、3%にも満たない、比較的〈死〉から離れたものであった。
一ヶ月前に起きた凄惨な事件は、その例外だ。
事件の概要は以下である。
三月十二日、日没頃、神宿駅構内に突如異形の怪物が出現。数名の殉職者の屍を超えながらも、粛清機関JBG執行班がこれと交戦。血生臭い騒ぎを嗅ぎつけた民衆が駅周辺に群がり、それら大量の獲物に引き寄せられたが如く、一台の暴走車両が民衆を襲撃。幼子が撥ね飛ばされ、老人が轢き殺され、散らばる血飛沫、肉片。軽傷及び重傷に留まった者もいる中、命を奪われた者も決して少なくはない。その数、7名。テレビ画面や新聞紙に並べられた名前の羅列が、遺族や友人、恋人の視界をぐにゃりと歪めた。
一ヶ月経った今でも、死者たちへの献花として、花を手向に訪れる人が絶えることは無かった。丁寧に用意された献花台に置かれる、沢山の花や菓子、酒、煙草。誰かの子供が、一生懸命に描いたであろう可愛らしい絵までも飾られている。怒りや悲しみに塗れながらも、そこには、人間を人間たらしめるもの、愛が、溢れ返っていた。
その様を、ひとりベンチに座って遠目に眺めていた女は、恋人が生前愛煙していた安い銘柄の煙草を、視線の先にある献花台に捧げるはずの煙草を、フィルムも外さずただ徒らに握り締めていた。女の名は、刺身。
「よぉ」わずかばかりに懐かしさを思わせる男の声が、刺身を我に返す。「それ、置きに行かねえのか」
刺身が見上げると、すでに半分以上が灰と化した煙草を咥えて紫煙を燻らす男が、刺身の手にある新品未開封の煙草をじっと見ていた。男の眼からだらしなくぶら下がる意地汚い欲にすぐさま勘付いた刺身は、冷たく男に言い放つ。「あげないよ」
一ヶ月ぶりに顔を合わせた女の思わぬ開口一番にたじろいでいる男の名は、芥半蔵。芥は、惜しそうに新品未開封の煙草から視線を外して、刺身の隣に腰掛けた。
「少しは落ち着いたか」
「へ」
「あの日、散々死にたがってただろ」
「あたし、そんなこと話したっけ」
「様子見りゃわかる。殆ど死人の顔色してたぜ。牛丼食ってとりあえずは元気になってたけどな」
「牛丼…食ったね」
「恋人殺されたんだったよな、あのド腐れ坊主に」
「特盛ねぎたまつゆだく美味しかった」
「失ったモノを想う気持ちは結構だが、その影をあまり追いすぎないようにな」
「ちょっと待って」
「あ?」
「失う、って漢字、牛、に似てるよね。牛が無い、牛無い、失い…って成り立ったのかな」
「知らん。どうでもいい」
「あ、なんか怒った?」
「いや」
「ごめんね。けどあたし今、どうでもいい話をしてる方がまだ気楽なの」
刺身が浮かべた力無い笑顔、実際には、柔く揺れる横髪から一瞬だけ覗いたそれに、芥は思わず口を噤み、バツが悪そうに吸い殻を足元へ打ち捨てた。直後、刺身が芥の頭をぽかんと叩く。ジェルで几帳面に整髪されたであろうリーゼントのポンパドール部分を乱され、芥は刺身をギロリと睨みつけた。
「なにしやがる」
芥半蔵という男は、神宿を拠点に活動する半グレ集団〈爆天李亜〉総勢約70名のアタマを張る強者だ。先程まで傷心の女に優しい言葉をかけていたことなど嘘偽りに思える実態である。そんな人間が放つドスの効いた一声をまともに喰らってしまうのはなんとも憐れだ。さらに放った先にいるのは、傷心の女だ。喰らわせていい相手ではない。さらに言えば、女というものは、お淑やかで、か弱く、腕力など持たない生物、という概念が、未だこの時代には根付いているのだ。世間が赦すような行為では無い。ただちに芥半蔵は自身の立場を今一度弁え、過ちを悔やみ、粛清されるべきだろう。
瞬間、芥の顎を拳が撃ち抜いた。粛清である。
「女のあたしにソレを向けようなんざ、まだまだガキだよ」
ベンチから崩れ落ちた芥に、刺身が厳しく吐き捨て、そして、顎を撃ち抜くために固く握られた拳をほどくと、芥が捨てた吸い殻を拾ってそれを咥えた。ポケットから取り出したライターでシケモクに火を点けながら、不良への説教を続ける。
「あんた、煙草の煙を使う、魔法だか術だか持ってたろ。だったら吸い殻までちゃんと大事に扱いな。そんなんじゃあ、いずれその力に嫌われちまうよ。よくわかんないけどね」オレンジがかった厚い唇の隙間から吐き出されたひとすじの煙が、日の浮かばない淀んだ空へと溶けていく。
「とんでもねえ女だ。俺じゃなきゃあ、病院送りの一撃だぜ」口元についた血と涎を拭うのも忘れて、刺身の鉄拳を讃えるように芥が悪態をつく。「護る男も要らねえな」
「要らないね。そもそもポイ捨てなんざ腑抜けた真似する男に、あたしの心は救えないよ。気持ちは嬉しいけどね。出直しな。去ね」
刺身はそう言って、ポケットから引っ張り出して芥に投げつけた。芥は刺身のぶっきらぼうな善意を受け取り、血と涎を拭う。しかし、その場から去れという刺身のささやかなる悪意には従おうとしなかった。
「他人に心は救えねえ」
「わかってんなら」
「俺が」苛立ちを隠せない刺身の言葉を、芥が強く遮ぎる。「俺が救おうとしてるのは心じゃねえ。命だ」
睨み合う二人の肌を、冷気が微かに撫でた。その背後では、相も変わらず、献花台に多くの市民が並ぶ光景が拡がっていた。いよいよ花は台から溢れ、係員らしき人物が忙しなく段ボール箱にそれらを詰めていく。台の横にはすでに、花がみっしりと詰め込まれているであろう段ボール箱がいくつも積まれていた。あまり好ましくは思えないその賑わいは、駅前の広場中央で行われ、それと一線を画すようにして、芥と刺身は、広場の隅で、木陰に位置するベンチの傍らで、静かに佇んでいた。
「あの晩、一夜限りの同盟を結んだよしみだ。警告してやる」
芥からの不意の一言に押し黙る刺身に対して、芥は淡々と続ける。
「神宿を出ろ。大事にしている家族や友人が他にいるなら、そいつらも全員連れて逃げろ。とにかく、とにかく早く、遠くへ、逃げろ」
「逃げるって、何から」
「わかるだろ。俺たちはあの夜、踏み込んじゃならねえ領域に踏み込んじまった」
「…あのド腐れ野郎を殺したことか」
刺身は思い出した。悪霊車の主である、おぞましき怪僧の、死に際の表情を、断末魔を、拳銃の引き金を引いた時の、感覚を。
「これは、先日聞いた話だが、俺や、アイツみてえな、霊能者って呼ばれる存在は、穢れを知っちまうと、力が衰えるか、或いは、人間じゃなくなっちまうかの、どちらかなんだ。アイツは、その後者だ。一滴二滴の穢れじゃねえ。アイツは何人も何人もその手で人を殺めてきた、魔物だ。俺たちは魔物を殺した」芥の、言葉足らずで歯切れの悪い説明に眉ひとつ動かさず、刺身は返す。
「だったらなんだってんだ。今更怖気つきゃしないさ。あたしはやるべきことをやった。報いなら受ける」まるで、ずっと何かを覚悟をしていたかのように。「呪いだろうがなんだろうが、いくらでも受けてやる」
刺身の眼は、光を失っていた。どんな光も通さない、むしろ飲み込んでしまいそうなほどに黒く、黒く染まっていた。芥は、刺身の漆黒の覚悟を前に、諦念の気持ちに襲われるが、爆天李亜総長として幾つもの修羅場を潜り抜けてきた踏ん張りを、ここぞと見せる。
「俺も、霊能者の端くれだ。死者と、交信くらいはできる。あんたの恋人の声も聞こえる」
「へえ。なんて」
「…来るな、頼むからこっちには来るな、呪い殺されて死んだ亡霊に待ち受けるのは、無間の地獄だ。苦しい、苦しいぞ。えっと」
まともに聞く耳を持たず、刺身は根元まで吸い切らしたシケモクを携帯灰皿に捨て入れ、芥の嘘に呆れて笑う。
「必死だね、あんたも。そんなにあたしに死んでほしくないわけ?」
「…あんただけじゃない」
「…ああ、学生の子たちね。あの二人には伝えたの?」
「いや…ここ数日、あいつらが通う学校に何度顔を出しても、姿が見えなかった。今日もこの後足を運ぶ。また居なければ、次は街中をしらみ潰しに探す」
「なんでそこまでするのさ」
刺身の素朴な問いに、芥は戸惑い、すぐには返せなかった、が、芥はその問いの答えを密かに持っていた。
「あの朝四人で食った牛丼が、たまらなく美味かった」
刺身の表情が、少し揺らぐ。「ああ」仄かに眩い朝陽が、その温かさが、心地良い咀嚼音と間抜けなあくびが、くだらない冗談と飛び交う笑い声が、蘇る。「うん。美味しかったね」
「見捨てるわけにはいかねえ」
「そっか。あんた良いやつだねえ」刺身は吐息混じりに賛辞を吐いた。芥が眼を泳がせる。
「あたしもちょうど、このあと久々に妹に会いにいく予定なんだ。あたしの、たったひとりの家族」
芥が眼の泳ぎを止め、刺身の眼を視る。芥は安堵した。刺身の眼に光が取り戻されている。特盛ねぎたまつゆだく牛丼を貪り喰らったあの朝と、同じ眼をしている。
「話してみるよ。街から出るのは、そう簡単なことじゃないし。あの子もあの子なりに、理由があってこの街にいるから」
刺身の姿勢に芥は口を綻ばせ、財布から9mm×5mmの紙片を取って差し出した。そこに記されていたのは、所属組織、肩書きと名前、電話番号とメールアドレスだ。
「改めて、俺は爆天李亜総長、芥半蔵だ。以後お見知り置きを。なんか困ったらここに連絡してくれ」
「へえ名刺持ってんだ…了解」
「あとそれ」芥が、未だ刺身の手に握り締められたままの、手汗でわずかに湿った新品未開封の煙草を指差した。「とっととくれてやれよ。煙草好きだったんだろ。ヤニが欲しくてあの世で悶えてるぜきっと」
刺身は、煙草に視線をやると、ふふ、と微笑んだ。
「それは無いね」そう呟くと、刺身はフィルムを外し、煙草の封を開けていく。「あいつは死ぬ寸前まで薬に溺れてたヤク中だよ。これはあたしらが関係持ち始めたくらいの頃にあいつが吸ってたやつ」箱の上部を指で叩き、飛び出した二本の煙草の内一本を咥え、もう一本を芥に差し出し、寂しげな嘲笑を浮かべた刺身が言う。「今更こんなもんあいつに必要ない。これを持ってきたのは、甘ったるいクソ未練を自分の手で燃え殻にする為さ」
「…本当に言ってんのか」
「うん。さあほら、名刺代わりに受け取ってよ。あたしは刺身っていうんだ。よろしくね、芥くん」
「刺身」教えられた名前を反芻し、芥は申し訳無さそうに、いたずら用の玩具でも扱うかのように恐る恐る、煙草を取り出す。芥が煙草を咥えるいなや、刺身が、素早く煙草の先端にライターを構えた。芥がそれに反応し、じっと待っていると、摩擦の音と共に火が煌めいた。瞬間、刺身が躊躇うことなく芥にぐっと身を寄せ、芥の煙草に点いた火で、自身の咥え煙草を灯した。ふわりと香ったシャボンの匂いがヤニと混じって、芥の鼻腔を狂わせる。刺身は、たっぷりと肺に落とした煙に恍惚とし、口から吐き出した煙すらも惜しそうに眺めていた。
「あの子たちによろしく言っといてよ。美人で乳の大きいお姉さんが心配してるぞって」
「ああ、言っておくよ」
「おまえらまさかまだ童貞じゃないだろうな〜〜って」
「ああ。ああ?」
「ほら、もうすぐ放課後の時間だ。二人が仲良く下校しちゃう。頼んだよ総長」
「ああ。じゃあ、またな、刺身さん」
刺身は煙草を咥えたまま「ん」とだけ返した。すっかりニコチンタールに夢中な女に構わず、用を済ました芥は潔く踵を返すと、広場入口に停めてあるバイクへ向かって歩いていく。刺身は芥の肩越しに見えるあのバイクに覚えがあった。悪霊車に乗り込んで死地から逃亡した怪僧を追撃せんと、芥の背中にその身を預けて神宿を駆け抜けた、あの黒金塗装の悪趣味なバイクだ。死闘で負った傷を隠す為に、悪趣味な車体にさらに悪趣味なステッカーが貼られているのに気附いて、刺身は小さく苦笑いを浮かべた。
「ありがとうね芥くん。久々に顔見れて嬉しかった」
遠ざかりかけていた芥の背中(革ジャケットの背面にペイントされた絵もまた悪趣味なモノであった)に刺身が声を掛けると、芥は振り向くことも歩みを止めることもなく、ただ片手を軽く上げた。
ひとり取り残された刺身は、ベンチに座り直し、しばし喫煙を嗜んだ。芥に示した"自身のクソ未練を燃え殻にする"という想いが真意か否かは定かでない。だとしても、刺身の眼から漆黒の覚悟が消失していることは確かであった。
「ちょっとアナタ」刺身の快楽を妨げる不快な影が現れる。「さっきからねえ、ずっと見ていたんだけども、この広場禁煙よ。駄目じゃない。粛清してもらうわよアナタ」耳障りでねっとりとした中年女性の声に、刺身が気怠げに振り向く。「やーだ、なにその眼。嫌ねえ。怖いわ。人でも殺したんじゃないのちょっと。女らしくなさいよ」声の正体は、典型的な中年女性そのもので、たるんだ目下や頬、歯の黄ばみ、ちぢれた髪の毛。どれをとっても、吐き気のする醜さであった。現に刺身は、突然込み上げてきた吐瀉物を堪えきれずに足元に撒き散らした。
「ちょっとなにアナタ失礼ね。人の顔見た途端に吐くなんて。全くこんな時間から飲んでたのかしら。だらしないわねえ」
中年女性の罵声が、刺身の脳内に余計に響く。立ってはいられなくなり、ベンチの縁に手を掛けて、しゃがみ込む。口から垂れる体液を拭おうにも、ハンカチは芥に貸したばかりだ。仕方なく袖で雑に拭う。未だ中年女性が罵声を浴びせてくる。うるさいな、黙れよばばあ。ああ、おかしいな。この吐き気、もしかして。いやでも、生理はいつも通りにやってきた。最後にしたあの夜から数えても一ヶ月も経ってる。おかしい。けどもし、もし本当にそうだとしたら。
「嬉しいね、銀ちゃん」
おさまらない吐き気と罵声に襲われてるにも関わらず、刺身は笑った。お腹に手を当てて、笑っていた。
悦びも束の間、刺身の腹部に激しい痛みが走る。刺身は半ば白目を剥いて、倒れ伏す。その刹那視界の端に映った、知らぬ間に群がってこちらを見下ろす民衆の姿を、刺身は憎らしく思った。腹をおさえ、涙と鼻水と涎で顔面と地面とをぐちゃぐちゃにし、もぎ取れんばかりに足をばたつかせている女に、連中は、異物でも見るかのような視線を向けている。刺身は、苦痛と吐き気にもがきにもがいた挙句、いよいよ意識を失って、動かなくなった。
それでも尚、民衆は誰ひとりとして刺身に歩み寄ろうとはしない。寧ろ、後ずさる者もいた。声にならぬ声で悲鳴を上げる者もいた。青ざめた様子で、刺身を指差してる者もいた。
刺身の顔には、体液と共に、何故か、絶えず微笑がへばりついていた。刺身は気附いたのだ。遠のく意識の中、手から伝わる感触で、確信を得て、それに悦び微笑っているのだ。
腹部に帯びる、大きな膨らみ。
懐妊である。
懐妊である。
懐妊である。
その身に宿して間もない我が子を、刺身は深く、静かに、祝福した。
同時刻。駅前広場から2km程東へ進んだ先の公道沿いで、通報を受けた粛清機関JGB救急班が現場の処理をしていた。
「よくもまあこんな真似を」救急班員の一人が、上空を見上げて苦々しく息をつく。「自殺、だよなこれ」
「憶測で物を言うな。立場を弁えろ」
背後から聞こえてきた声に対し、その班員はすぐに己の失言を詫びた。厳格な言葉を呈した男は、作業服に身を包む救急班員たちとは別に、スーツを着用していた。合同で現場に居合わせた、捜査班の統轄である。統轄が自ら救急班の現場へ足を運んだ理由が、その鋭い眼光の先にはあった。
「他殺の可能性も捨て難い。この国は狂ってる」
そびえ立つ一本の柱、その頂にある電線に、赤黒い肉塊がぶら下がっている。肉塊は、おそらく人間だったものだろう。四肢が欠け、その欠けているモノが腕か脚かも判別がつかない。地に落ちていた頭部はすでに回収済みだ。経緯こそ極めて不明瞭ではあるが、高圧電流により焼け死んだという事実は一目瞭然であった。
「目撃者の証言によると、この電柱に近づいた被害者が、突然見えない何かに凄まじい力で引き上げられていったと」
「要領を得ないな。詳しく訊けないのか」
「ショックの為か、今はもうロクに口もきけない状態です」
「見えない何かか。お前はどう思う」
「自分には…答え兼ねます」
ふと、ある違和感が、統轄の男の意識を焼死体から外した。現場の真反対に位置する路肩に、一台のバイクが停車されているのだが、知らぬ間に、黒尽くめの女が悠然とそこに跨っていたのだ。顔は見えず後ろ姿しか確認できないが、細い身体に似つかわしく無いダボついたスタジャンに、太腿を露わにしたミニスカート、申し訳程度の武装を思わせるレザーのロングブーツといった格好から、生意気な不良と睨み、統轄の男は、女の舐めた行動に舌を鳴らした。
「おい…あれは被害者のバイクだろう。とっとと回収させろ。ああいう馬鹿が寄ってくる」
統轄の男の、苛立ちを抑えた声に従って、即座に新米らしき捜査官の一人が動いた。バイクに跨る女に足早に駆け寄り、背後から注意を呼び掛ける。
「あーキミ。降りなさい。勝手に乗っちゃあいけないだろ」
こちらに一切見向きもしないで車体を撫で回している女に、新米捜査官はもう一歩詰め寄ると、女の横顔が確認できた。ウェーブがかった濡髪といった色香漂うヘアスタイルに反し、化粧気のない幼い顔立ちをしている。
「学生か?ふざけていい場所じゃないぞ。大人しく帰りなさい」
女はようやくこちらを振り向いたが、口を開く気配は無く、言葉を発する代わりに、電話機の形に結んだ手を自分の耳元に近づけた。
「…なんだ」
「連絡、もらってやってきたんですう。じりりりん」
「連絡?キミは一体」
「けど、お仕事取られちゃったな」女は口を尖らせて、ぼろぼろに崩れそうな焼死体の回収に手間取っている救急班たちの姿を見据える。「でわでわあたしはこれでどろんします。処理してほしい死体があったら御用命をば」
女が新米捜査官にひらひらと手を振ると、その細い指先で鍵の束がくるくると踊った。新米捜査官が、おいそれは、と言い切る隙も与えずに、女は左手でクラッチを握ったまま鍵を差し込んで捻り回し、右手でセルボタンを押した。唸り出すエンジン音に半歩分気圧された情けない新米捜査官を見て、女はにまりと嘲笑う。
二人の様子に異変を感じた総轄の男が、なんとなしに目を凝らし、女の容貌をはっきりと捉えた。直後憤怒の面へとすげ変わり、エンジン音を掻き消すほどの怒号を上げる。
「黒子ォッ」
救急班員たちは騒然とし作業の手を止め、新米捜査官は驚きと恐怖で身体を跳ねさせた。が、肝心の、黒子、と呼ばれた女は、口をぽかんと縦に開けているばかりで、まるで動じちゃいなかった。
「あらら、あたし今日休日ですっぴんぴんなのにバレちまったい。けれども嬉ぴよ」
「貴様が何故ここにいる。何故、バイクの鍵を所持している」
「お偉いさんさっき言うとりましたなあ。この国は狂ってる。おっしゃる通りで御座ぇます。我らが英雄であるあなた方粛清機関様の中に、こうしてあたしみてえな悪党なんざに優しく力を貸してくれる、不埒な裏切り野郎が潜んでんだから」
「なに。一体誰が」
瞬間、背後から飛んできた痛烈な阿鼻叫喚に、統轄の男が咄嗟に振り向く。
「ああ、今死んじゃったね」黒子が平然と言い放つ。「ほら、あのブッ刺されてる人」
もはや黒子のその言葉は統轄の男の耳には届いていない。目前の異常に、意識を奪われていた。
救急班員が総じて、〈一点〉に集中して警戒態勢を取り、身体を震わせている者、硬直して動けない者、腰を抜かして動けなくなっている者で混沌としていた。黒子の指差していた裏切り者であろう捜査官の男は、刃渡り約4メートルの鉤爪らしきモノ、否、正真正銘の鉤爪そのものに心臓部を貫かれ、宙吊りになった身体から夥しい量の血を滴らせていた。
「トーシロさんが下手に扱うからああなる。呪殺を受けた死体は特殊な処理が必要なのよん。大事なことだからあとでおっきく書いときな」
救急班員たちが取り囲んでいるそれは、否、救急班員を一人残らず己の間合いに捕らえて離さず、円の中心で立ち尽くしているそれは、先程まで担架に乗せられていたはずのあの赤黒い焼死体であった。
立ち尽くす焼死体の姿形を見た新米捜査官は、嗚呼、四肢のうち欠けていたものは左脚だったんだと、たださえポンコツな上に奇奇怪怪な事態に刺激されてグラついた脳味噌で呑気に考えている内に、目の前では救急班員たちや捜査班の同僚や先輩、統轄の男までもが焼死体の肩甲骨から生えた刃渡り約4メートルの鉤爪で次次次次へと貫かれ切り裂かれ体感わずか10秒後にはその切っ先が己の、
「ぶろろろろろろろろろろろろろ」
神宿から延びる街道を走り抜け、山道へ入った黒子は、振り切ったスピードを出せる車通りの少なさに快楽と優越を覚えたのか、排気音を模した幼稚なオノマトペを発しながらアクセルを踏み込んでいた。何者かからの連絡によって無碍にされた休日ではあったが、新たな事故車両を奪れたことに上機嫌である様にも窺えた。
車両を手土産に黒子が目指す処はおそらく、山道の果てに連なる山々の中腹部であり、神宿からの出門を阻むようにして聳えるそれらは、国が指定した、神域、であった。沈みゆく陽に翳りゆく空と重なり魅せる昏く美しき様相に、人間は皆、なすがまま平伏し、跪いてしまうのではないかと、強く感ぜられた。
神域の中腹、八百万の樹々に我が子として抱え込まれるかの如く存在する仏閣に、一人の女が棲んでいる。黒子が車両を奉仕する御相手でもあるその女は、呆国最強の霊能者であり、曰く、古くから呆国を裏で統治してきた一族の末裔ともされているらしいが真意は定かで無い。
「どうだっていいさ、そんなこと。あたしはあの人が大好きだもの」
誰に向けたかわからぬが、黒子は高らかに声を上げた。
「褒めてもらえるかな。待っててね、虚子様」
そう甘く囁いた黒子の顔からは、健やかで愛らしく、屈託のない微笑みがこぼれていた。
数時間後、微笑みは跡形もなく消え失せる。
足を踏み入れた物置小屋の中で、黒子が虚ろな表情で見つめる先には、拘束器具に絡みつかれたまま意識を失っている四人の男の姿があった。四人はそれぞれ、爪を剥がされ、指を折られ、歯を抜かれ、皮を剥がされ、肉を削がれ…長時間に渡る拷問を受けていたことが猿でも理解できうる状態で放置されていた。
「誰か、そこにいるのか」
一人が意識を微かに取り戻し、喉を潰されたのか、痛々しい濁声で、黒子に呼び掛けた。
「なにがあったの、了承くん」
「黒子か。悪いな、折角、来てくれたのに」
了承と呼ばれた男が、ろくに発せぬ笑い声で、自嘲を漏らす。
「虚子さんが、拉致された」
黒子が目の色を変えた。「誰に」
「もろは組…どうやら目的は、霊能者に殺された同胞の弔い、だと」
もう一人の男が目を覚まし、憎しみを滲ませた声で、呟く。
「俺たちは動くぜ、黒子。このままじゃあ、終わりにはできねえ」男は、歯を何本も抜かれ、零れ落ちる血はまだ渇くことを知らなかった。「国がどうなろうが知らねえ。奴らに報いを与える、俺たちの力で」
「落ち着け、解さん」了承が男の名を呼び、宥めた。だが解の血の気が収まる気配は、無い。
「黒子ッ。早くこいつを外してくれ。奴らを殺しにいってやる。殺す、ぶっ殺すッ」
今にも自力で金属製の拘束器具を引きちぎらんばかりに暴れる解、を気にも留めず、黒子は息を吐いて、しゃがみ込んだ。黒子の様子に、解は大人しく静まる。
「あたしね、いずれはこうなるとは思っていた」言いながら、黒子は、ポケットから取り出した黒のリップで、自身のちいさな唇を塗装していく。「けどさあ、いざやってくると、しんどい気持ちになっちゃって、やーねえ」唇、次に目元の塗装を手際よく終えると、黒子は、道化じみた悪戯な笑みを了承らに向けて、言い放つ。
「しちゃおうか、戦争」
滅亡、胎動。
ー次回、継続。
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