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最愛の天使ちゃん


ぽてち、ありがとう。
もーちゃん、ありがとう。
妻、ありがとう。


15日、ぽてちは僕の腕の中で虹の橋へ旅立ちました。18歳でした。


お母さんであるもーちゃん(3年前に16歳お空へ)でと合わせて約20年のチワワ物語が終わりました。


感情の波が引いては押し寄せてを繰り返している。


それより何より、ぽてちともーちゃんのことを、心から、心の底から愛してくれた妻にありがとう。


最後の1年は2匹とも本当に大変だったよね。


妻は彼女が与えられる限り最上の愛情をもって2匹に接していた。


それはもう尊いほどに。
溺愛とも異なる、純粋なる愛情。
犬吸いはむはむもやりまくってたけどね。


書いていて僕の感情が一番ぐらつくのは、純粋な愛のことを思うときなんだろうな。


妻と2匹から受け取った最大のギフトが「愛」


わんちゃんと飼い主は、あの世から現世に降り立つ前に、ペットと飼い主の関係になることを約束して生まれてきているって言うよね。


妻は僕によくこう例えている。
僕のことを幸せにするためにお役目をもってこの世に生まれてきたのだと。妻とも出会わせてくれたのだと。


本当にそうなんだろうなって。


約20年もの間、彼女らが僕の元にいてくれたのは、僕に愛を気付かせるため、教えるため、与えるためだったんじゃないかと思うんだよ。


彼女らのことを啓示的に見たいわけではないのだけど。


わんこは、今を生きる生き物。


今、嬉しい。
今、楽しい。
今、さみしい。
今、だいすき。


10年前、一人で2匹を育てていた時期のことを思うと反省点も多く思い浮かぶとともに切なさも押し寄せる。


動物だからとある種の割り切りで接していたことがある。


幸い大病はしなかったからよかったけど、妻の対応を見ていたらしなければいけないケアやできたことが実はたくさんあった。


何より、俺はその時期、“無い”ことばかりに目を向けて、“ある”ものに目を向けていない時があった。


楽しみがない
刺激がない
力がない
愛がない


外の世界に、仕事のストレスのはけ口と、欲望の埋め合わせを求めていた。


ーーーもっぴー、こちびさん。残業で遅くなってごめんね。帰ったらお散歩いくからね。(こちびはぽてちの本名ね)


ーーーもっぴー、こびちさん。今日はお休みなんだけどちょっと外に行ってくるね。帰ったらお散歩いくからね。


お散歩することが犬を飼うってことじゃないし、最低限の義務とかないから。


約10年前のブログをちらっと読み返してみたら、彼女たちへの愛情や感謝、残業で帰りが遅くなっていることへの謝罪など、たくさん記事に上がっていたけどね。

十分な時間を彼女たちと過ごしていたらいいんだけど。


妻は僕と結婚する際、僕と犬2匹でそれぞれ1/3ずつと結婚するんだと言わしめたほどに、僕が見た妻と彼女らの世界は、まさに愛そのものだった。


運命というものがあるなら、まさに運命という強い絆で始めから結ばれていたかのようだった。


今、心と体で分かっていることは、“ある”ものがそこに“ただある”ということ。


いつもいつも、そこにあった。
ちっちゃくて可愛くてふわふわで、混じりっけなしの今を生きる純粋な愛がそこに。
その存在そのものが愛。


もっぴーとぽてちはきっと言ってたね。


ーーー君はどんな君でもいいよ。


“いいよ”なんて言い方も違う。


ーーー君は君だよ。


そう。自分は自分。


欠けているとか秀でているとかじゃなくて、それら含めて自分(whole:全体)。


何があるとか無いとかじゃなくて。
凹んでいるところも自分。
出っ張っているところも自分。


ーーー君は君だよ。わかってくれた?


ーーー“今、目の前にいる君” のことが大好きなんだ。

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