「いいことしよう」も「わるいことしよう」も艶やかに聞こえてしまう人間の業、その深さ。
人間というのは、どこまでも業の深い生き物だ。
単純さに飽きればより複雑な方へ向かうし。
一方で煩わしい作業なんかは機器を使って簡略化する。
自分本位であり、わがまま。
争いは絶えないし、高尚な神と比べれば、愚かであることは間違いない。
けれど、だからこそ生まれるものも数多く存在する。
音楽や詩、ドラマや小説。
それらは”文化”などと呼ばれて大きく成長を遂げたりもする。
そして、そのような文化はいつだって『言葉』と共に大きく変容を遂げてきた。
言葉が乗るから音楽は歌い継がれていく。
言葉の輪郭が見えるから、詩に力が宿る。
ドラマや小説は言葉が種になり、幹や葉や花を育てる。
言葉は、その力を持って、人間の業を様々な形で叶えたり、肯定してきた。
だが、その逆も然り。様々な形で裏切り、否定もし続ける。
つまるところ言葉は、誰かを救う天使にもなるし、誰かを死へ追いやる悪魔にもなり得るものなのだ。
よく漫才の題材などで使われる心の中の”天使”と”悪魔”のメタファーなど正にそれだろう。
心の声という言葉の二律性を表現している。
財布を交番に届けようとする善性。
財布を盗もうとする悪性。
言葉の凹凸があるからこそ人は人の中にある業を深めてきたのだと私は思う。
さて。
人の業には様々な種類が存在する。
食べる業、怠ける業、誰かを陥れる業。
そして、艶やかな業。
艶やかな、業、である。
私は思う。
艶やかな業。
そのー、ちょっと多様すぎないだろうか。
人間、ちょっと艶やかが過ぎるよな。
特に我が国。艶やかテーマパークという言葉が言い過ぎではないくらい。なんだ。ジパングって艶やかテーマパークのことを指すのか。
艶やかな業は、もう、なんか、人間、オーバーテクノロジーを所有しちゃってる。
いや、別に業自体が駄目とは言っていない、言っていないが、にしても凄くないかという、艶やかな業。なんか、ふっかいんだよなあ。
浮気することを一ジャンルとして提示したり。
本来職業などを意味するはずだった衣装などを、艶やかに変えたり。
それらを自然なものとして受け入れている我々がいたり。
もう、艶やか変換装置なのか、我々は。
漫画や芸人の関係性にまで艶やかさを求めたりするではないか。
そんな艶やかの飽和状態である現代、きっと日本語を学習する人にとって”言葉の壁”として君臨しているだろうものが存在する。
それが表題でも書いた「いいこと」「悪いこと」だ。
日本の艶やか多様性、これによって生じるのが一見善性を保っている「いいこと」という言葉と、一見悪性を纏っている「悪いこと」という言葉。
このどちらも「いいことしようよ」「悪いことしようよ」のような言い方へ変容すると、どちらもメチャクチャ艶やかな言葉へ聞こえてくるのだ。
「いいこと、しようよ?」
おお。
「悪いこと、しようよ?」
おおおお。
なんだこれ。
バグか?
一見相反する言葉が同じ艶やかさを内包するだと?
悪いこと〜はわかる。
何か、業というの罪や罰と併用して使われることが多いからだ。
いいこと〜はどういう意味だ?
全然、ボランティアとかの可能性もあるのに。庭先のガーデニングとか。
にもかかわらず我々の心には艶やかな誘いに聞こえてしまう。
バニーガール「いいことしよう?」
バニーガールのいいことは、もうそういうことなんだよな。
というかなんだ、あのバニーガールってコスチューム。
考えた人を心底尊敬するし、心底軽蔑する。
和尚「悪いことしよう?」
ああ、これは、ヤバいだろうな。
和尚の悪いことは、凄い悪いことな気がする。
深いだろう、艶やかさが。
大家さん「いいことしよう」
家賃下げてくれるのか。
艶やかなことなのか。
家賃下げながら艶やかなことをするか。
なんだ。家賃を下げながら艶やかなことをするって。
交渉? 交渉ってこと?
創設者「悪いことしよう」
創設者の悪いことなんてめーちゃくちゃ悪いことだから。
もう目を覆いたくなるような艶やかさで出迎えてくれるだろう。
もうここまでくると艶やかというか、もう、なんか訳がわからない領域にまで足を踏み入れてそうではある。
もう逆に、逆に、何もしないとかだったらどうしよう。
衣服を脱ぎ去ってひたすらにフルコースを食すだけとかだったらどうしよう。
言葉怖いな。
言葉すごいな。
「いいこと」
「悪いこと」
まあ、ただ。
その、どちらも艶やかと言い切るこの感性こそが私という人間の業であることは間違いない。
それが私にとって「いいこと」なのか「悪いこと」なのかは、まだわからない。