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読書ノート 「鏡のなかの鏡」 ミヒャエル・エンデ 田村都志夫訳



 「ゆるしてくれ これよりおおきなこえで はなせない」の台詞で始まる、幻想的な物語。読みはじめてこれは長編小説ではないとわかった。さりとて短編小説集でもない。エンデの言うようにこれはエンデ自身の「迷宮」なのだ。彼の中にある、様々な心象風景、夢、幻影、創造的想像、それらはすべてエンデの自己(セルフ)の一部である。

 存在することに対する不安や怖れ、儚さ、膨張する資本や貨幣に対する拒絶感、父親に対する憐憫とアンビバレントな感情、異性、時間、孤独、エトセトラ…。自身が言うようにこの本は彼にとって「もっとも重要な本」である。しかし、人の夢を聞かされると大抵つまらないように、少し共感度合いを上げて読まないと、息切れしそうになる人もいるだろう。個人的な話を聞くのは、距離を取りつつ距離をなくすという小難しい作法がいるのであって、それを発揮しなければ、誰も「個人的な体験」に持続的な興味を持ち続けられないのでは。コスパ、タイパ、などという言葉があるが、時代はエゴ中心主義と費用対効果で回っている。そのなかで、エンデをきっちり読む人はどれくらいいるのだろうか。いや、エンデを読む人はそうした世界に生きてはいないだろう。そこには厳然たる断絶があります。

 心を落ち着けて、他者への興味を掻き立てて、彼のイマージュに向き合う。



 空っぽの広い家。不幸な人たちばかりの迷宮都市。屋根裏部屋と怒鳴る老執事。

 大聖堂のような駅舎でプラットオームを彷徨う消防士。

幕があがることのない舞台で待ち続けるダンサー

(しかし彼は踊ることも忘れていく)。

 馬車に乗りながら、世界を変える言葉を探そうと決意する貴婦人。

 殺戮の現場を独り見つめ、十字架にかけられた姿(その姿は二本に分かれた綱でそれぞれ右と左の手首に結ばれ、その人が繋ぎとして張られていたのかもしれない)を説明する証言者。

法定の傍聴人席に座る天使と「赤衣装のモノ」として身体化した名もなき者。

 沼のように暗い顔色の母親。その夫は娘婿に屠らされ、埋められ、植物の苗床になる。

 地震で避けた石壁から現れる兄とおぼしき布で覆われた人。その兄は「落ちることを学ぶんだ!」と叫ぶ。

 自分の家だとわからない、自分の家。狼、覆面男、大女。誰の息子でもない者。

完成しない橋。

部屋であると同時に砂漠である場所。花嫁に会えない花婿。

 顔のない男と老婆。結婚式に集まるダンスをする炎。

 空の平面でアイススケートをする誰か。 

 文字だけで出来ている紳士。母と、のっぺらぼうで分裂した妻たち。展覧会に行く夫妻。   

「言わないで、あなたが望むこと! 

 訊いて、わたしが要ること!」


 消防士=郵便配達人、爆発。「燃える松明」「綱」「箱型時計」。

 治療室にいる若い医師。食べ続けることだけでその進行を遅らせることができる「進行性重力症」。

 哀れみを感じるほど醜い土蜘蛛のような生き物。知らない文字。魚の眼をした男。市電、停留所。

 仔牛を引っ張る宇宙服を来た男。海。山の上にある淫売宮殿。

鋼鉄の面を被った女王の結婚式。

 世界を滅ぼす液体が入ったガラス玉がついた金のロケット。世界を旅する者。港町の路地。 ホール。ラピスラズリの青色をした壁。

 「翁・童」。見張り台に立つ老船乗り。綱渡り師。人が住めない国。魔術師であり曲芸師。

 始めは終わり(エンデ)。悪である魔神(ジン)と小僧。道路清掃夫。

宇宙飛行士となぐさめ女。

希望を失った者。アーモンドの目をした女の子。教室。

 役者たちのいる廊下。夜の要塞。息子である独裁者。燃えるサーカス場。団長と道化。

 終わらない悪夢=地獄。半地下のビヤホール。

 夢からの退場を願い、夢見人に口上を述べる道化。扉を見張る二人の兵士。闘牛士。

三千歳の王女。英雄。



 翻訳者の田村都志夫さんの「あとがき」から、少しだけ読みの道しるべを付す。

 「この作品に収められた諸エピソードは、エンデの作家人生を通じて、執筆された(『ものがたりの余白』参照)。そのため、その生涯で、エンデが特に関心を寄せたテーマが下敷きになったエピソードが、いくつも混じっている(お金の問題、文明砂漠、サーカスの祭り、役者や舞台のダンサーなど)。また、この作品全体を、エンデが「迷宮」としたことに因み、西欧文化における迷宮伝説のルーツといえる、クレタ島にあるクノッソス宮殿の説話が、最後の「枠話(最終エピソード)」で姿を現す。そこでは、怪物ミノタウロスも、それを退治するテセウスや、迷宮で迷わぬよう、糸を持たせて(このエピソードでは、持たせず)、かれを送り出す王女アリアドネーらしい娘も登場する。

 ここで語られないのは、テセウスやアリアドネーがやってくる前に、この怪物が棲む洞窟へ、繰り返し、若者や娘たちが消えていったことだが、それは、廃墟のドアを警備する二人の兵士が、彼らの立ち話で触れ、なによりも、廃墟のドアへ通じる三段の石段が、すり減っていることで暗示される。みんな、怪物ミノタウロスに呑まれたらしい。そして、このミノタウロスが弟のホアだと、王女が最後に呟くことで、最終エピソードが、大きな弧を描き、冒頭のエピソードへ循環することになる。

 …この作品の諸エピソードは、あたかも天空の惑星群のように、旋回し、循環する。…循環するものは、はじまりも終わりもなく、はてしない」

 「モモ」の主人公のように、何も発することなく、この迷宮を受け止める。そうすることで時間泥棒である「灰色の男たち」を遠ざけておくことができるかもしれない。



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sakazuki
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