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【梵天】 《極私的短編小説集》
皐月のある日、花の名前が思い出せなくなった。
通勤時に通り過ぎる家の植込みで、いつもこの時期に咲く花が、今年も変わらず咲いていた。紫と白の、喇叭の形をした花である。子供の頃はよく考えもせず、花の根元にある蜜を吸っていた。馴染みのある、この花の名前は何だったのだろう。
数日して、妻にその話をすると、「それはつつじじゃない?」との返事。そうそう、と、相槌を打ってみたが、はて、「つつじ」とはなんだろう?
たしかにその花は「つつじ」なのだろう。しかしどうもしっくりこない。だいたい、「つ」から始まることが納得いかない。この花は「さ」から始まるべきだ、と考えてしまう。
翌日、会社で会議中、「では来週の販売目標を申告願います」と話したとき、「つつじ」の時と同じ違和感が走った。「しんこく」とはなんだ?「おしんこ」と「こくもつ」の合いの子か?なぜだかひやりとした感覚が背中に走った。
それから、ことあるたびにそうした感覚が増えていった。新聞はなぜ「しんぶん」なのか、地下鉄はなぜ「ちかてつ」なのか、給与所得はなぜ「きゅうよしょとく」なのか、残業はなぜ「ざんぎょう」なのか。
ついには子供の名前、そして妻の名前すら、なんとも言えない違和感が感じられ、そうではない、と言う気持ちが抑えられなくなった。だからと言って、違う呼び方が出てくるわけではもちろんなかった。
正確に表現するなら、その事物や概念と、それを表すことばがマッチしてない、と言う感覚である。「猫」と「ねこ」がくっつかないのである。そして、いままでなぜ「猫」を「ねこ」と呼んでいたのかが、まったく信じられなくなってきたのである。
思い切って妻に相談すると、最初は笑って受け流していたのだが、こちらがあまりに深刻そうに何度も訴えるものだから、一度病院に行ってくれば、と心配そうに言ってくれた。
最初に行った病院の先生は、「最近、お疲れなのでは」と言い、「栄養剤、出しておきます」とむべもなかった。その次の病院の先生は「ストレス判定を」といって問診をするのみ。その次の先生は「精神科に行きますか」と。いや、そこまででは、といって断るものの、症状が続くので思い直し、「行きます」と告げた。
最寄りの駅から遠く離れた、精神科の先生は一通り診察を終えると、頭をかきながら話し始めた。
「いやあ、あなたの症状は、たいへん珍しいものですね。ことばと、そのことばが表すものとの間に障壁が、壁があるように感じておられ、それが気になってしかたがない。あまり前例はありません」
「よく似た症例としては、解離性障害と言われるものがあります。離人症とも言います。
家族の訃報など大きなショックを受けたとき、めまいを起こしたり気を失ったりすることがあります。これは正常な範囲での乖離ですね。
そうではなく、ある特定の記憶が欠落したり、記憶を失ったあと、いままでとは別の人格として過ごしていたりする方がいます。また、自分の中に別の人格が生まれてしまったりする方もいます。別の人格ができる理由は、極度のストレスから、自分の経験をまとまりのある一人の人格の中に統合できなくなっているということですね。この別の人格たちは、本人の心のなかにあった抑圧された自分が出てきていると考えられます。
そして離人症というのは、自分が外の世界から切り離されているように感じる症状のことです。自分と世界の間に壁がある、と言う感覚です。患者さんは、夢の中にいる、ガラスの向こうにいる、まるで自分がロボットになったよう、などとと訴えられます。物がぼやけて見えたり、かと思うとはっきりすぎるくらいに見えたりするとおっしゃられる方もいます。つまりは現実認識がうまくいかない状態です。
これらは、患者さんたちの大変な経験のストレスから、自分を緊急避難させるための方法であって、自分を守るための方策なのです。
そういう観点からあなたの状態を見ると、まあ、仕事上のストレスはあるものの、そんなに強いものではありません。家庭生活も円満のようです。健康状態も良好です。なにか秘密の悩みがありそうにもない。失礼、ですので、原因は不明、というのが私の結論です」
医者は私の病状に「解離性言語障害」と名付け、大学病院の専門の先生を紹介してくれた。そうしている間も、ことばと意味の間の壁はどんどん強くなり、先生が話していることがおかしい、何かが違う、と言う違和感は膨れ上がっていった。
帰りに居酒屋に寄ったものの、「おでん」「やきとり」「ビール」が、ふわふわ浮いているように感じ、いても立ってもいられなくなったので、早々に店を出た。家ではいつもと変わらず幸せそうに妻と子どもたちは眠っている。私はどうしてしまったのだろう。
大学病院の先生は、言語学の教授でもあった。
「あなたの症状は、病気とは少し違うのかもしれません。いや、病気と言うなら世の中のすべては病気なのですが。ことば、正確には言語記号は、言語学者のソシュールによると、意味と表現を兼ね備えた二重の存在です。シニフィアンとシニフィエによってできています。『意味するもの』と『意味されるもの』ですね。ふさふさした毛を持ち、人間になついてニャアーと鳴く小動物と、『ねこ』という音にはもともと恣意的な結びつきしかありません。それを当たり前だと感じるのは、自らが所属する歴史的な共同体でそうした了解が確立されているからなのです。
人間は、ことばの分節が世界を構成する基礎となります。ことばが異なると見ている世界が違うんです。例えば日本では虹の色を七色で分けていますが、ロシアやベルギーでは五色で切り分けられることで、五つしか認識されません。台湾のブヌン族では赤、黃、紫の三色でしか切り分け=見えていません。反対にアフリカのある部族では、黄色と緑色の間に黄緑を入れ、八色見えるとされています。
あなたは何らかの理由で、普段だれもが無意識のうちに了解している『意味するもの』と『意味されるもの』の結びつきがほどけてしまった。そのことがのっぴきならない違和感になっているのでしょう。日常を取り戻すには、やはり安静や睡眠など、健康的な生活を行い、親しい家族と団らんをし、簡単なことばをゆっくり見つめ直すのがよろしいかと」
「簡単なことばをゆっくり見つめ直すとは、具体的にはどうするのですか」
「うーん、詩を読んだり、絵本を見たり。いや、どうすれば。そう、写経なんかいいのでは?」
「先生、なんだか当てずっぽうで言ってません?」
「いやいや。まあ一度騙されたと思って試してみてください。それでもって試した結果を教えてくださいね」
憮然として病院を出て、写経をするため近くの寺に行き、写経セットを買って帰路についた。次の日から写経を始めた。
写経をしていても症状は改善することはなく、ことばの違和感が募るばかりであった。
そのうち、新たな症状が現れた。
違和感のあることばたちの後ろで、何かが蠢いているように感じるのだ。
蠢いていると言っても虫や小動物、生き物ではないようであった。ことばの後ろで、なにかぼんやりと出たり入ったりしているものがある。ときにはレーザーのように飛び出し、ときには滲が広がるようにゆっくりと動き出す。
しばらくすると、その蠢いているものの行き先がわかってきた。それは、他のことばと繋がっていたのだ。近くのことばと繋がるときはゆっくりと、遠くのことばと繋がるときには素早く動く。目を凝らしているとだんだんわかってきたが、それはすべてのことばと繋がるネットワークの触手のようなものだった。
さらに数日すると、写経の文字が乱れ飛ぶ様が見えてきた。この世界のすべての文字はすべての文字・ことばと繋がっていた。触手は、いうなれば光のようであった。
いままでの違和感は、言ってみればこの繋がりをいったん外し、それから見つめ直す作業の一過程だったのだ。世界中のことばの裏側にあるものが見えるようになっていき、この世界がいままでの世界でなくなっていきつつある、と感じた。もう家の様子も以前とは違って見える。子供も妻もそのものは変わらないのだが、なんというか見方が変わったのだ。
写経を書き上げ、写経セットを購入した寺にふらふらしながら奉納に行くと、そこに一人の僧侶が立っていた。どうも偉い坊さんらしい。坊さんは私を一目見て、驚きとともに話しだした。
「お主、いやあなたさまは何ものぞ。理事無礙法界を理解し、仏法の密なる聖覚を得ようとしておる。もはや悟りを開いたも同然の様相、何が起こったのか、儂にお教えくだされ!」
「何を言っているのですか。私はそんな偉い人間じゃありませんよ。いったいぜんたい、私のどこを見て、そうおっしゃるのですか」
「わかっていないのか。あなたは世界の理を見ている。それも梵天と一緒に。あなたの左肩に四面四臂の梵天が座っているのが見えるのです」
左肩を見ると、梵天と言われた、光る人がニヤニヤしている。
「ま、そういうこと。すまんが私を手伝っておくれ」梵天は事も無げにそう言った。
驚きと了解が同時にやって来た。合点がいった。そうか、そういうことだったのだ。別に病気ではなかったのだとわかり、私は少し安堵した。
「今度は失敗しないようにしなきゃね。二五〇〇年前みたいに、途中で投げ出さないでくれよ」
昼下がり、看護師たちの話し声が聞こえてくる。
「ねえ、今度の患者さん、なんだか品があるわね」
「そうなのよ、落ち着きがあるっていうか、後光が差してない?」
私は今、病院のベッドで安静と睡眠をとっている。
休憩しているだけなのだ。「きゅうけい」しているだけなのだ。
(了)
※梵天…インド哲学における万有の原理ブラフマン(梵)を神格化したもの。ヒンドゥー教の三神の一。仏教では色界の初禅天の主として、帝釈天と並んで諸天の最高位を占め、仏法の守護神とされる。密教では十二天の一として上方を守る。(広辞苑第五版)
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