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読書ノート 「インディアスの破壊についての簡潔な報告」 ラス・カサス 染田秀藤訳



 インディアンを滅ぼしたのはヨーロッパ、アメリカの西欧人、日本人の大多数はその程度ならなんとなく知っている。西部劇・カウボーイ映画で出てくるような、インディアン、無法者、保安官=ガンマンがいて、結末は無法者が去り、ガンマンとインディアンは和解し、インディアンは自分たちのエリアに帰っていく。そこに描かれるインディアンたちは、だいたい粗野で無知で純朴さだけが売りである。西洋人が啓蒙し、文化的な生活に馴染むものだけが生き残っていって、それ以外はいなくなったのだろう、ということで話は終わってしまう。滅びるにはそれなりの落ち度がインディアン側にあったのかしら、ぐらいのふわっとした認識である。
 
 しかしこれって、大問題であり、大馬鹿もんですな。ということをこの本はまず教えてくれる。が、それは実は序の口であり、今回これを読んで思ったのは、この殺戮の告発・報告書がその後どのように西欧世界で扱われたかというところが大変重要であるということである。そこを重点的に、忘れないように。そしてそれがまた、現在の社会課題である原子力問題の扱われ方と、どのようにリンクするかをも絡めて考えていく。



 染田の解説が素晴らしく、要約する。

 バルトロメー・デ・ラス・カサス(1484-1566)は、もともと征服者(コンキスタドール)としてエスパニョーラ島やキューバ島で征服戦争に参加、植民者として開拓事業にも携わったスペイン人聖職者。彼が同国人の進める非情な虐殺とエンコミエンダ制における先住民インディオの悲惨な状況を目撃するに及んで、「回心」する。1523年にドミニコ会に入会し、死ぬまで一貫して、征服戦争の全面禁止、擬装奴隷制と変わらないエンコミエンダ制※の即時撤廃を訴える活動を行った。

エンコミエンダ制とは、新たに「発見」された土地を征服した者(コンキスタドール)の功績に応じて一定の土地とインディオ(先住民)に対する支配権を認め、インディオのキリスト教への改宗を委託すると同時に、彼らから徴税し、彼らを労働力として使役する権限を与えた制度で、そうした権限を与えられた者はエンコメンデーロと呼ばれた(ウィキペディア)。

 『インディアスの破壊についての簡潔な報告(以下報告)』は、その活動における彼が数多く残した論策や記録文書の一つで、日本では1976年に岩波書店より刊行された。

 「わが国ではあまり知られていないが」と染田は前置きをして次のように言う。

「1530年代初頭のペルー征服をめぐる一連の出来事、すなわち、征服者フランシスコ・ピサロによるインカ王アタワルパの捕縛と幽閉、その後開かれた茶番劇同然の裁判でインカ王に下された死刑判決とその執行は、のちに『国際法』と呼ばれる国際間の関係を規定する新しい法体系を創出する直接の契機となった

 その流れは、サラマンカ大学のビトリア教授による新しい法体系の基礎理論→サラマンカ学派からイエズス会スワレスに継承され、最終的にはオランダのグロティウスによる自然法に基づく『国際法』へと発展した。

 しかし、その流れとは関係なく、ビトリアの理論・講義はスペイン王室から糾弾され、王室はサラマンカのドミニコ会士たちに箝口令を出し、聖職者がインディアス問題を公の場や文書で論じることを厳しく禁止した。 

 スペイン王であり神聖ローマ皇帝であったカルロス1世(カール5世)は、ルターの宗教改革を抑えながらキリスト教世界の統一を目指していたが、外敵であるオスマン帝国、内なる敵であるフランスとの戦いを抱え常に財政が逼迫していた。ちょうどその頃、思いもしないところから莫大な量の金銀財宝が発見された。それがアステカとインカである。スペイン王国にとり、インディアスは新世界から国を支える「植民地」へと変化しつつあった。カルロス1世にとってヨーロッパ世界を支配するにあたってインディアスはみずからを下支えする重要拠点であり、それゆえスペインのインディアス征服・支配の正当性に疑義を呈するは認めがたいことであり、当時スペインと激しく対立していたフランスがカリブ海への進出を次第に強めていた事実を考慮すれば、なおさら容認できないことであった。


 そのようなときに、20年ぶりにスペインに帰国したラス・カサスが征服戦争の禁止やエンコミエンダ制の廃止を求めてカルロス一世に書簡を送ったり、拝謁しての説明嘆願を行うのはなかなか困難であったと言わざるを得ないであろう。しかしカルロスはその求めに応じてか、インディアス問題を検討する特別審議会を開催し、ラス・カサスの参加を許した。そのときに報告された内容の草稿がこの『報告』である。

 審議会は激論の末、参加者の総意をもとに全文40ヶ条からなる「インディアス新法」が制定された。「新法」はとりわけ非征服者であるインディオの擁護を主眼として制定されたが、ラス・カサスの目指すエンコミエンダ制の即時撤廃や征服戦争の全面禁止とまではいかず、それぞれ段階的撤廃や降伏勧告状の無効化にすりかえられている。


 無論のこと、宮廷の貴族たちはその卑劣な惨状が自らの蓄財の源であることを明らかにされ、挙措を失った。そしてラス・カサスはいままで不正な利益を上げていたインディアス在住のスペイン人から激しい敵意と憎悪を買うことになる。

 宮廷お抱え学者であるセプールベダはインディオ征服を正当化する論文を発表、ラス・カサスから真っ向敵対した。インディオの文化的能力を全面的に否定し、征服戦争を聖戦として正当化した。


 ラス・カサスへの憎悪が渦巻くなか、1544年、彼はメキシコとグアテマラの国境あたりのチアパス司教区の最高責任者として赴任する。しかしその赴任は困難を極め、植民者、聖俗を問わず、植民地当局までもが彼の敵に回り、1年ほどで彼はその地を離れなければならなかった。移転先のシウターレアルでも、命の危険が及ぶほどの緊迫した状況に直面し、もはや打つ手がない状況になった(チアパス司教区でのラス・カサスの戦いを、グアテマラのノーベル賞作家アストリアスは『ラス・カサス─神に使える司教』として戯曲を記した)。

 時を同じくしてメキシコで開かれる司教会議に出席する頃、カルロス一世が植民地のスペイン人から執拗な請願を受けて、エンコミエンダ制の段階的撤廃状況を撤回したことを知る。失意に暮れながらラス・カサスは、自らの役割は宮廷でインディアス改革を目指す活動を続けることだと考え、スペインへ帰国しようと決意する。


 1547年、キューバ島、テルセイラ島を経由してポルトガルのリズボンに到着する。そのとき、ラス・カサスは、ポルトガル人がアフリカにおいて黒人奴隷を獲得するために行っていた不正かつ非道な所業の実態を知り、自らの大きな過ち、すなわち、インディアスへ黒人奴隷の導入を推進してきたことが間違いであったことに気づいた(「第三回目の回心」)。その後記された『インディアス史』で彼は、アフリカの歴史を二一章にわたって挿入し、自己の過ちを厳しく断罪することになる。


 スペインに帰ってからのラス・カサスは、論敵であるセプールベダと戦うことになる。セプールベダの『第二のデモクラテス』の印刷出版停止運動を行い、宮廷内でインディアス改革に成果を上げていた。セプールベダの『第二のデモクラテス』は出版が認められなかったが、反対に今度はラス・カサスの『聴罪規範』を「悪魔の書」であるとセプールベダから告発され、両者の対立は『三〇の法的命題集』(ラス・カサス)、『弁明論』(セプールベダ)、『インディオの敵を論駁す』(ラス・カサス)と、対立は政局を左右するほど重大な問題になっていった。


 一方インディアスでは、疫病の流行や反乱などによって先住民の人口減少=労働力減少に直面した植民者たちが「新法」に不満を募らせ、ラス・カサスの活動を激しく非難した。そうしたなか、ピサロがインカ王を殺害し、その鎮圧に難渋を極めたインディアス枢機会議は、コンキスタドールや植民地者がスペイン国王に抗う姿勢を鮮明にしたことに危機感を募らせる。結果カルロス一世は征服遠征事業を一時中断するのを宣言するにいたり、会議の開催を命じた。このバリャドリードでの会議(「14人会議」)で、ラス・カサスとセプールベダが呼ばれ、激しい論戦を展開した。

 会議は統一見解を示さないまま一ヶ月足らずで終会し、ラス・カサスはセビーリャに向かう。セビーリャでドミニコ会のサン・パブロ修道院に逗留し、伝道師の派遣業務に従事した。しかし伝道師の現地での殺害による殉教が要因で、伝道師は当初の32名からその半分以下にまで減少した。チアバスへ向かった伝道師はわずか6名に過ぎなかった。


 ラス・カサスは無許可で自分の著作を印刷し、伝道師やドミニコ会に配布した。文書は追記され、拡散していく。特筆すべきは、当初殺戮を繰り返した「キリスト教徒」という記述が版を重ねられると「スペイン人」に置き換えられていることである。すなわち、ラス・カサスが草稿段階で「キリスト教徒」という名称を頻繁に用いたのは、いわばキリスト教徒であるスペイン人を理想化し、インディアス改革にかなり大きな希望や期待を寄せていたことを示し、それを「スペイン人」と書き換えたのは、その十年間、波乱に富んだ時期を過ごしたラス・カサスがインディアス改革の実現に不安を抱き、スペイン人を「自称キリスト教徒」と同定し、征服は「あるべき」キリスト教徒ではなく、「あるまじき」キリスト教徒、すなわち、「キリスト教徒を名乗るスペイン人」が行っている集団的行為であるという認識に達したことを示している。それは、ラス・カサスの告発の対象がスペイン人全員、つまり、「キリスト教徒にあるまじき人びと」に向けられていることを意味している。言うまでもなく、「キリスト教徒にあるまじき人びと」には、インディオを犠牲にして蓄財に走る征服者、植民者、役人は言うまでもなく、宗主国にあってインディオス関係の業務に携わる人びとや、インディオスの実情に無知蒙昧なスペイン人も含まれる。

ネーデルランドでスペイン支配に対する反乱が勃発した1566年、ラス・カサスは天に帰った。享年82歳。


 その後の『報告』が辿った軌跡。

 まず、インディオス征服者・植民者が不満を示す。「メキシコ市の行政官や司法官、その住民(スペイン人植者)たちに害や損失を与えるばかりか、彼らを誹謗するような中傷文書を禁止」するよう要請した。新大陸生まれのスペイン人=クリオーリョたちがスペイン王室の対インディアス政策に対して不満を募らせ、いわば反スペイン感情を創出する手段として『報告』を利用し始めた。


 重要なのは、1570年代、すでに諸外国に《スペイン人=残忍な国民》というイメージが広がっていたことである。フェリペ2世はラス・カサスの著作を撤収し、修道院へ移し、「特別な許可なく、誰にも見せてはならない」と勅令を発布した。これにより、『報告』は1世紀の間一度もスペインで刊行されなかった。


 『報告』第二版がスペインで刊行されたのは、1646年、カスティーリャからの離反を求めるカタルーニャ地方の中心都市バルセロナにおいてである。この第二版では「スペイン人」が「カスティーリャ人」に書き換えられた。このように、『報告』はスペインにおいて政治目的に利用された。バルセロナ版を読んだ異端審問官のイエズス会ミンギホンは、あまりの恐ろしさに吃驚し、たとえ事実が附されていたとしても出版すべきではないと判断、中央政府も異端審問所の判断を追認した。その結果、ここから200年後の1879年まで『報告』は事実上封印された。


 それとは対照的に、『報告』はスペイン以外のヨーロッパ諸国で広く流布した。「スペイン人は世界でもっとも残虐かつ非寛容な国民である」というイメージを定着することに一役買うことになる。そのなかで『黒い伝説』が出来上がっていく。『黒い伝説』とは、ヨーロッパにおける覇権を喪失して久しいスペインにおいて、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、16-17世紀のスペインの栄光の復活を目指す思潮が台頭し、イバニェスら文学者たちがスペインの歴史的復権を目指して用いた造語である。そして役人・歴史家であったフデリーアスが1914年に『黒い伝説と歴史的真実─ヨーロッパにおけるスペイン』を発表し、広く流布した。それに反発するように、スペイン国内では「白い伝説」が形作られていく。その内容は、「スペインは粗野なインディアスをキリスト教に導き啓蒙したのだ。各欧州諸国の反スペインキャンペーンは根拠なきことで、われわれは正しかったのだ」である。各ヨーロッパ諸国が反スペインキャンペーンを『報告』を使って政治的に実施したことは否定できないが、まずもって無辜の先住民の数え切れないほどの多くの命が奪われ、彼らの子孫が三世紀以上もの間、政治的経済的社会的弱者の場所に置かれ、それがラテンアメリカの現在に今もなお暗い影を落としていることに違いはない。


 換言すれば、「黒い伝説」という用語には、スペイン人のキリスト教絶対主義と自民族中心主義、さらに言えば、ヨーロッパ中心主義が潜んでいるのである。


 さて、ラス・カサスは、本人は知る由もないが、悲惨な扱い方をされることになる。『報告』は根も葉もない「恐怖のカタログ」、「黒い伝説」の主謀者とみなされ、厳しい批判にさらされる。「二重人格」という批判も拡がり、さまざまに誹謗中傷される。またオランダやイギリスでは、主に政治的な目的から、『報告』は反スペイン感情を醸成し、浸透させる道具として利用された。ラテン語版にはテオドール・ド・ブリらの書いた17枚の版画が添えられ、大衆に訴え易い物となる。17世紀には『報告』は各国で出版された。オランダ語訳は23回、フランス語訳が8回、英語訳とイタリア語訳が4回、ドイツ語訳が2回、それぞれ出版された。『報告』はスペイン以外の国々で、「哀れなインディオ」と「残酷なスペイン人」というステレオタイプ的なイメージを普及させる格好の材料として利用された。


 しかし、18世紀になると、状況は一変し、その外国語訳出版は極端に少なくなった。その理由は、18世紀、欧州勢力図が変わり、ドイツ、フランス、イギリスに新しい啓蒙主義が広まる。それは、歴史に「進歩」の概念を持ち込むこと、ついてはスペインの所業が「人類史」の発展に寄与したのかと議論されるようになった。そしてラス・カサスは先住民文明を高く評価したこと、また反対に「黒人奴隷の導入者」という側面でも批判されることになる。つまり、スペインの覇権が衰えた18世紀には、もはや反スペイン運動を繰り広げる意味も必要もなくなったため、必然的に『報告』もその政治的利用価値を失ったのである。ラス・カサスの作品は殆ど門外不出とされ、諸外国では知られることがなかったため、ラス・カサスは主として『報告』と彼の波乱に満ちた生涯を描いた作品などにもとづいて評価されることになった。


 各欧州ではラス・カサスは「寛容な精神と慈愛に溢れた人物」として英雄視されていくが、スペイン国内では国の名誉を毀損した極悪人、インディアス征服支配はやむを得ない「時代精神」によるものだと擁護された。


 『報告』が再び脚光を浴びたのは、18世紀後半以降のインディアスにおいてである。宗主国スペインからの離反や解放を求める動きがクリオーリョ社会から起きたとき、政治的目的で『報告』が使われた。独立運動の大義を根拠付けるものとして。クリオーリョは独立を目指して反スペイン感情を醸成し、浸透させるために『報告』を利用した。歴史のアイロニーである。換言すれば、クリオーリョ(征服側)たちは、彼ら自身を『報告』に書かれた「おとなしい羊」=インディオと同一視したのである。クリオーリョのそのような行動は著しく欺瞞性に満ちたものであるが、別の言い方をすれば、それほど『報告』の影響力、反スペイン感情を煽る力があったということであろう。


 中南米の各国が独立達成後、『報告』の政治的有効性はなくなった。ラス・カサスはアメリカのカリブ海・キューバ進出を正当化するために利用された。


 スペインでは依然として数多くの愛国主義者からその事実の意味を問うことなく、もっぱら狭隘な愛国主義的立場から『報告』を解釈し、存在を否定し続けた。ラス・カサスは「黒い伝説」の首謀者で、「売国奴」「偽善者」「詐欺師」であると。

 一方、インディオ擁護運動がアンデス諸国を中心に起こり、そこではこぞってラス・カサスを運動の先駆者とみなし、「アメリカの父」「インディオの使徒」と称して顕彰した。


 このように、20世紀に入ってからも、ラス・カサスをめぐる評価は大きく二分され、彼の歴史的価値を問いただす作業は等閑に付された。

 ここまでさまざまな思惑で利用された文書はあまりないのではないだろうか。人びとは彼の報告書をあげつらい、批判し、批評し、自分の思い通りに利用した。なかには彼の文章を「捏造だ」「虚偽だ」「妄想だ」という輩もまことしやかに現出する。


 染田は最後に言う。

 「忘れてはならないのは、1542年に起筆された『報告』の本文それ自体は、その激しい告発の内容以上に、人道主義的精神にもとづいて書き記された苦渋に満ちた抗議の書であるということである」
「『報告』は、大航海時代の幕開けからわずか半世紀後、ただひたすら虐げられた人びとの人権を守る目的で書き綴られた稀有な歴史文書である」


 多分、ラス・カサスは、これは本当にえらいことだと思う瞬間が何度もあったのだ。自らの同胞が行っている残虐非道に憤慨もし、また恥じ入り、悔やみ、自身の信仰心からこれは許されないと思ったのだ。その純粋で強い人道心が、すべての人々の心を揺るがす事ができた。だからこそ『報告』は、正反対の両極の立場から「政治的に」利用される。そこには大きな力に群がるやましさが見える。現在であれば、公害の告発、セクシャルマイノリティー差別の告発、環境問題、遺伝子操作、そして原子力の危険への警告などが『報告』の立場となるだろうか。自然な思考として、教訓めくが、これらは時代精神によって、如何様にも変形利用されるということが想像できるのだ。それを正しく、正統に、間違いなく進めていくにはどうすればいいのだろうか。

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sakazuki
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