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読書ノート 「仕事」 今村仁司

 「働くこと」とは何か。1967年生まれの日本人である私は「働かざるもの、喰うべからず」と言われて育った。労働は「生きる意味」だとも教えられた。「働きがい」が重要で、それを見つけることがさも人生の大きな目標であり、それは「アイデンティティの確立」と同義語であるとさえ刷り込まれた。そのような中間搾取の雇用労働者の系譜に生きて、何ら疑問を感じなかったのは事実だ。
 はたしてそうなのだろうか。今ここに来てそうした疑問を呈することができるようになる。世界の過去を見つめ、陰惨な罪の歴史を振り返るとき、「働くこと」の中に、善悪に寄り添いながら人を巧妙に操る姿を見つけることになる。それでいながらその操作の奥には純粋な「労働=仕事=活動」(アーレント)が横たわっている。若い頃には分からなかったものが少しづつ見えてくるのだ。歳は取るもんですな。

 この著作で今村仁司は「労働」「仕事」を解体する。狩猟社会、古代ギリシア、西欧中世世界、近代と現代における人類の労働観の変遷を抜け漏れなく描き、我々の常識とする「労働」観を細分化し再構成する。またまた全文を書き写したくなるのだが、ぐっとこらえ、フラグメントを集める。鷲田清一の解説もよろしい。

現代の社会生活を人間労働に注目して眺めてみると、直接的生産過程および間接的生産過程のなかで人間労働の位置価が縮小し、道具的=技術的体系の位置価がますます大きくなっていることがわかる。日常生活のなかで労働の社会的意義の希薄化をいわば空気のように生き抜き、華々しい高度技術の日常生活への浸透に目を奪われ、しかも消費社会的感覚が肥大していく状況では、労働という行為への注意や関心が薄れていくのも自然のなりゆきであると思われる。

何よりもまず、労働・仕事は人類史上最も基礎的な活動であったし、たとえ現在の状況下でその重要度を低下させたとしても、労働は決して消失していないからである。

私の基本的な関心は、近代の労働経験を批判的に省察することである。

「はしがき」より

マエンゲ族にあっては、仕事の美的実現は同時に社会的・倫理的質の実現でもある。ここでは美と倫理がひとつである。

「深慮」とは、用意周到であり、きちんと計画を立て準備も怠りなく、かつ将来への配慮を忘れないことである。「深慮」は耕作地の「美しい」「良い」外観を維持する能力である。

「良い匂い」が象徴する土地の豊かさは、自然に与えられるものではなくて、豊かさは育てあげねばならず、豊かさが得られたならば、それを守らねばならない。豊かさの保存と維持のためには、熟慮されたいくつかの操作を必要とする。…(「技術的」な耕作上の手続きと、「呪術的操作」の)二つの側面は、当事者の意識にとっては分離不可能であって、深慮とはこの二つの側面を十分に配慮することである。

「未開社会の労働観」より


  • 神話は過去の人びとの労働と労働表象を反映する。神話的言説は修辞学的表現に充ち、しばしば区別すべきものを混同させたりして事柄を必ずしも鮮明に指示しないが、古い時代の物の考えを知るには神話も重要な資料となる。


  • 古代ギリシアの労働観は何よりもまずプロメテウスと共に現れる。

  • J=P・ヴェルナンによれば、プロメテウスは、通念とはちがって元々は火の技術の神ではなかったという。

  • プロメテウスという名前の意味は「慎重さ」「用意周到さ」であって直接には火の技術とは無関係である。

  • 「火の技術集団」」は特異な集団として共同体の外部に位置づけられる。

  • プロメテウスにおける「人間の恵み」と「人間の不幸」の二重性はそのまま労働観に反映する。

  • 人間の創造と労働の創造はひとつである。

  • 「火を盗む」→「食物を盗む」→「人間の創造」→「人為の火」→ゼウスを欺く策略→「策略=技術」は人間のまっとうな振る舞い

  • パンドーラは「すべてを与える神」である──ただし「希望」を除いて。

  • パンドーラは、ヘパイトス(治金術の神)の作品である。

  • パンドーラは、一方で恵みをもたらし、他方で災厄をもたらす。

  • パンドーラは、豊穣、豊かさを楽しむが、怠惰と浪費の象徴でもある。


  • ところで、どんな表象体系も現実を矛盾することなく代理することはできない。…宗教的・倫理的性格をもつ農業労働表象のなかに、農業労働と他の労働との対立が登場していた(大地にかかわる活動と「火の技術」の対立・階層化)。この萌芽的亀裂は時代を下るにしたがって大きくなる。


クセノフォンがヘシオドスと同じ思想を反復し、農業労働と手工業の相違を強調し始めることそれ自体の裏側に、二つの活動の近代化という現実がひかえている。かつて相対的に現実と適合的であった表象体系が、現実の矛盾を隠蔽するイデオロギーに変化しつつある。どの表象体系もイデオロギーを内在化させてるが、今やイデオロギー性が大きく顕在化してくる。最盛期ギリシアでは、分業が発展し、多くの「職業」(手工業)が生まれている。農業もまた分業の一分枝になっている。にもかかわらず、農業労働を最も自然な活動とみなしその宗教性の威信を強調するクセノフォン的「農本主義」は、喪われつつある宗教的・倫理的基準を古い表象体系に求める思想傾向を示している。ヘシオドスの時代とちがってクセノフォンの時代では農業労働はかつての威厳をもたず、ひとつの隷属的な労働形式でしかなく、社会的価値も下落した。その事実を知りながら、農業労働表象が持っていた社会統合の力を回顧的によびださざるをえない。これは一つの危機を表現している。
プラトンやアリストテレスはこの危機に直面しつつ、社会統合の原理を別の仕方で模索することになるだろう。彼らにあっては、もはやクセノフォンのように、農業労働論理の回顧的復活ではなく、形而上学的原理の構築こそが危機の克服になる。とはいえ、人為よりも自然を尊ぶ形而上学的思考も、ヘシオドス的労働表象との血の繋がりを最後まで保存しつづけることだろう。言うまでもなく、一部の哲学的知識人の思想によって危機が克服されるわけではない。知識人たちは、伝統的価値を保存しつつ、その価値に新しい方向を与えるべく努力するのみである。しかし、社会的・文化的危機の克服の努力のなかにこそ、古代ギリシア的労働観が鮮明に浮上してくるのである。

  • 古代ギリシアの労働観の中心は職人労働である。職人労働は、テクネ-とポイエーシスという言葉で表現される。

  • テクネ-は、ごく簡単に言えば、特定の素材(材料)のなかに形相を生み出すことである。

  • この形相(形式、見え姿)の産出に潜在力(デュナミス)が関与する。

  • テクネ-は、近代テクノロジーと違って、むしろカンまたはコツに近い。

  • テクネ-の思想は限界の思想である。

  • 良いテクネ-(限界を心得たテクネ-)と悪いテクネ-(無限界の思想)

  • 悪いテクネ-、策略・狡猾(メティス)としての技巧。フィクション、快楽、貨幣、手品、魔術、詩作、芸術、商業技法(貨殖術)遊芸。外部または周辺に閉じ込めておくべきもの。

  • アリストテレスは貨殖術(クレマティスティケー)を激しく告発する。それは「自然に反するもの」である。それは自然的欲求を満足させるものではなく、貨幣のために貨幣を求める。貨殖術は真のテクネーの本性とは反対に「限りがない」。

  • ソフィストは、貨幣に対してそれほど悪意をもたず、貨幣を喜んで蓄積しさえする。彼らは貨幣と引き換えに知識を売った最初の知識人である。しかもソフィストたちは、いっさいの技術労働を高く評価し技術者民主主義の思想さえ抱いている。彼らの理想は「技術者共和国」であったともいえる。その意味で、彼らは極めてモダーンであったし、内容こそ違え、彼らはどこか一九世紀フランスのサン=シモン派に似てもいる。ソフィストたちは古代ギリシアでしばしば格下げ評価の対象になったテクネ-一般に偏見をもった点でプラトンやアリストテレスと対立し、またそれゆえに後者から激しい告発をもうけたが、他方では、彼らも技術労働がそのままでポリスの基礎とはなりうるとは考えていない点で、閉じた宇宙論の圏内にいた。手に技術を持つだけでは政治的共同体は作れない、何かもっと高いものが必要だという点では、彼らもプラトン、アリストテレスとそれほど遠くない。ソフィストを十分にモダーンにしないだけの労働表象体系の束縛力が働いていた。

製作(ポイエーシス)と実践(プラークシス)

古代ギリシアでプラークシスの最たるものは政治活動である。…自由に無償の行動を行うことこそプラークシスである。
古代ギリシアの労働表象に従って人間的活動の階層序列を提示してみよう。最上階には、あらゆる肉体労働から解放された上級市民の活動がある。それは何よりもまず公共的事物を扱うプラークシスであり、あるいは観想(テオーリア)である。プラークシスには知恵(ソフィア)の徳が伴う。中間の階には、勇気という美徳を持つ戦士がいる。最下層には農民と職人がいる。ポリス共同体は三つの階層からなる。

ポリスの周縁に在留外国人による商業がある。そして最後に、ポリスの生活を有形・無形に支える奴隷労働が存在する。奴隷は言葉を話す動物であって、ポリス共同体から排除されている。ところで、奴隷労働は最も非人間的な労働であるが、これなしにはポリスの生活が立ち行かない。自由民が奴隷になるわけにはいかない以上、奴隷をどこからか調達しなければならない。他国から奴隷を移入する他はない。植民地戦争が不可欠となる。植民地戦争は奴隷の再生産装置となる。古代ギリシアの労働表象は、その内的必然性によって奴隷制を要求する。労働表象は単なる観念ではなくて、共同体の再生産構造を維持する物質的な力を持つ社会的装置なのである。古代ギリシアの奴隷制は社会経済史的観点のみならず、労働表象の観点からも理解されねばならない。

カイロス的時間経験は、瞬間の経験である。

メティス、テクネ-、エンペイリア(実用知)、カイロスはひとつながりの経験であって、同じギリシア的経験の構造を表現する別々の言葉である。

 「古代ギリシアの労働観」より


私の知る限り、西欧中世の労働観を主題的に分析した文献は、ジャック・ルゴフの『もうひとつの中世──西欧における時間、労働、文化』ぐらいしか見あたらない。

「西欧中世の労働観」より
  • 近代以前では、古代や中世でみられるように、労働と精神的活動とは決して同一視されることはなかった。ところが近代社会では、精神活動(科学的・哲学的思考、言語活動に基づくあらゆる知的活動)ですら「労働」と等質の性格を帯びはじめる。精神活動に「労働」という用語が当然のように使用されるのがこの傾向を端的に示す。ヘーゲルは、労働に人間精神の形成にとっての重要な意義を認めたばかりでなく、精神活動を「精神の労働」と考えた。フロイトは、夢の働きに「夢の労働」というタームを使用してさえいる。


  • ハンナ・アレントは、近代における「社会的領域」(「社会的なもの」)の突出を指摘したことがある。私の言葉で言えば、それが「労働社会」である。これは古代にも中世にも──もちろん未開社会にも──存在したことがない。近代は「労働社会」をいわば発明したのである。


  • 「労働は素晴らしい」、「労働は人間を鍛えなおす」といった観念、あるいは「労働の尊厳」というイデオロギーの根は、どうころんでも懲罰的であり規律訓練的である。奴隷的労働に人間を馴化させるためには、労働の「すばらしさ」や」「尊厳」の甘い衣をかぶせるほかはない。このイデオロギーは早くも近代初頭に出ている。マックス・ウエーバーの次の言葉は味読に値する。

中世の手工業者は「自分の創作物」に「喜び」を感じつつ、多くのものを作ったというが、そうした「喜び」が心理的動因として、どの程度の強さをもっていたかは、もちろん疑問の余地がある。けれども、そこに何ものかがあったことは疑いを容れない。が、ともかく、禁欲はいまや労働からこうした──今日では資本主義によって永久に絶滅されている──現世的な世俗的な刺激をとりさって、それを来世の方向に向けた。職業労働はそのものとして神の意志に適うものとなった。現今における労働の非人間性、つまり個々人の立場からみて喜びが少なく、意味のないことが、ここでは宗教的光明をさえあたえられるのである。発生期の資本主義は、自分の良心のために経済的搾取に甘んずるような労働者を必要とした。今日ではその基礎は固まっており、来世という刺激なしでも、彼らの労働意欲を強要することができるのである。

マックス・ウエーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』


  • 解説の鷲田清一のコメント

(今村に)もっと展開してほしかった発想がたくさんある。貨幣と墓と一九世紀西欧の小説群を結びつけたり、フロイトの「モノ」概念とカントの「物自体」と「もののけ」の民俗を一つの思想的問題へと修練させたり、マルクスのプロレタリアートとニーチェのツァラトゥストラとフーリエのアンジェリカの一九世紀ヨーロッパ精神史における構造的位置の類同性を析出したり、その発想のダイナミックさに目眩がしそうだった。スティーブンソンの『ジキルとハイド』(一八八六年)からフロベールの『ボヴァリー夫人』(一八五六年)、ハーディの『テス』(一八九一年)までを〝群衆小説〟として読み解いていく発想、中里介山の『大菩薩峠』(一九一三ー四一年)に沈黙交易の人類学的研究を被せる作業。そうした思想の徴候ともいえる発想がつぎつぎと湧き出てきた背景として、一つには、近代の社会哲学を構成している様々の概念契機、たとえば排除、暴力、交換、権力、群衆、労働、貨幣、交易、抗争、犠牲、イデオロギーといったものの最定礎という課題認識があり、一つには、家にいるときはほとんど小説を読んでいると言うくらいの文学へのただならぬ造詣があった(だから仕事をするためには毎日、大学の研究室に通う必要があった)。その二つが相俟って、文脈を異にするさまざまの概念やメタファーや事象の、意表を突くような親縁性が浮き立ってくるのであった。

プロテスタンティズムの禁欲倫理が「逆説的に労働を格上げする資本主義精神」へと裏返るとするマックス・ウエーバー(一八六四-一九二〇年)の有名な指摘を手がかりに、もともと共同体の外部で営まれた市場経済が社会に内部化され、「私的所有」とともに「労働」をもまた、個人がその自立の根拠として表象するようになる。精神的、物質的を問わず、人間のあらゆる活動と生活の隅々までが「労働」という価値へ収斂させられてゆく。その意味で「労働」を基準とする「労働社会」資本主義体制下のみならず、資本主義を乗り越えると主張する社会主義体制下でも成立し、そこでいう「労働の尊厳」が現代では、さらに極端に拡張されて「労働主義」の過剰展開という様相を帯びるにいたっているという。

労働は近代になって、たしかに生命体としての人間の日々の生活を維持するための、自然と権力との双方に隷属する強制的な形態から解放されはしたものの、こんどは「労働の尊厳」という美名の下にその細部まで商品・貨幣の形を取っていわば消費財化し、生産性と効率性の論理のなかに呑み込まれてゆく。自由が、別のかたちで、そしてより根源的なかたちで、損なわれるのである。労働の細分化、熟練を要さぬ単純労働の拡大、伝統的職人芸の解体…。そうしたなかで労働の外、つまりは余暇すらも「労働」のかたちをとることになる。「労働」が主体自体のものでなくなるという〈疎外〉の状況よりもいっそう厄介な、あらゆる活動の「労働」化であり、さらにはまた〈生命の鏡〉(ジャン・ボードリアヤール)に映された生命力としての人間の量的搾取である。

現代に求められているのは、奴隷労働・強制労働からの解放であるにとどまらず、「労働」そのものからの解放であると今村は言う。労働から自由な活動へ?しかし人が生命体である限り必要不可欠という意味での「必然的労働」からの解放はありえない。だから必要なのはそうした「必然的労働」の機能転換を構築することだと、今村は言い直す。労働が「丸裸の形で突出する」ことがないよう、「遊戯性と労働の結合」をたとえばもろもろの儀礼や公共的討議のかたちで社会のなかに埋め込んでいくことだと。そしてこれを最後に「仕事」と呼ぶ。

本書は、高度経済成長のまっただ中で、日本社会がバブル経済に呑み込まれようとしているときに書かれた。しかし労働をめぐる状況はその後、それとは比べ物にならないくらいに窮迫している。不況のあおりを受けた人員削減と新規雇用の抑制、正規労働者の非正規雇用者への置き換え、「派遣社員」という名の雇用調整、さらには外国人労働者からの「実習」という名の搾取、「ブラック」といわれる過労と低賃金の職場などなど。それにコロナ禍のなかでいやでも可視化された現代社会におけるいわゆるエッセンシャル・ワークの歪な社会配置、あるいはデヴィッド・グレーバー(1961ー2020年)が暴露した、現代社会の細部にまで巣くっている「クソどうでもいい仕事」(ブルシット・ジョブ)という病理。非生産的もしくは生産的ということからは程遠い労働のかたちだが、「労働」ということで主として生産労働を念頭に置いていた今村が存命ならこれにどう分析のメスを入れたか、どうしても想像してみたくなる。朴訥なスタイルではあるが、とてつもない熱量をもって、「敗者」の側に、棄てられた「屑」の側についてきたのが、今村の仕事だったからである。〈社会〉という秩序の生成じたいが、隠蔽と排除という操作をとおして進行し、その内部に不可避的に闇を生み出す、あるいは熾烈な暴力へと裏返る。この文明そのものの野蛮なしくみに狙いを定めていたのが、今村の仕事だったからである。


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sakazuki
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