「働くこと」とは何か。1967年生まれの日本人である私は「働かざるもの、喰うべからず」と言われて育った。労働は「生きる意味」だとも教えられた。「働きがい」が重要で、それを見つけることがさも人生の大きな目標であり、それは「アイデンティティの確立」と同義語であるとさえ刷り込まれた。そのような中間搾取の雇用労働者の系譜に生きて、何ら疑問を感じなかったのは事実だ。
はたしてそうなのだろうか。今ここに来てそうした疑問を呈することができるようになる。世界の過去を見つめ、陰惨な罪の歴史を振り返るとき、「働くこと」の中に、善悪に寄り添いながら人を巧妙に操る姿を見つけることになる。それでいながらその操作の奥には純粋な「労働=仕事=活動」(アーレント)が横たわっている。若い頃には分からなかったものが少しづつ見えてくるのだ。歳は取るもんですな。
この著作で今村仁司は「労働」「仕事」を解体する。狩猟社会、古代ギリシア、西欧中世世界、近代と現代における人類の労働観の変遷を抜け漏れなく描き、我々の常識とする「労働」観を細分化し再構成する。またまた全文を書き写したくなるのだが、ぐっとこらえ、フラグメントを集める。鷲田清一の解説もよろしい。
古代ギリシアの労働観は何よりもまずプロメテウスと共に現れる。
J=P・ヴェルナンによれば、プロメテウスは、通念とはちがって元々は火の技術の神ではなかったという。
プロメテウスという名前の意味は「慎重さ」「用意周到さ」であって直接には火の技術とは無関係である。
「火の技術集団」」は特異な集団として共同体の外部に位置づけられる。
プロメテウスにおける「人間の恵み」と「人間の不幸」の二重性はそのまま労働観に反映する。
人間の創造と労働の創造はひとつである。
「火を盗む」→「食物を盗む」→「人間の創造」→「人為の火」→ゼウスを欺く策略→「策略=技術」は人間のまっとうな振る舞い
パンドーラは「すべてを与える神」である──ただし「希望」を除いて。
パンドーラは、ヘパイトス(治金術の神)の作品である。
パンドーラは、一方で恵みをもたらし、他方で災厄をもたらす。
パンドーラは、豊穣、豊かさを楽しむが、怠惰と浪費の象徴でもある。
古代ギリシアの労働観の中心は職人労働である。職人労働は、テクネ-とポイエーシスという言葉で表現される。
テクネ-は、ごく簡単に言えば、特定の素材(材料)のなかに形相を生み出すことである。
この形相(形式、見え姿)の産出に潜在力(デュナミス)が関与する。
テクネ-は、近代テクノロジーと違って、むしろカンまたはコツに近い。
テクネ-の思想は限界の思想である。
良いテクネ-(限界を心得たテクネ-)と悪いテクネ-(無限界の思想)
悪いテクネ-、策略・狡猾(メティス)としての技巧。フィクション、快楽、貨幣、手品、魔術、詩作、芸術、商業技法(貨殖術)遊芸。外部または周辺に閉じ込めておくべきもの。
アリストテレスは貨殖術(クレマティスティケー)を激しく告発する。それは「自然に反するもの」である。それは自然的欲求を満足させるものではなく、貨幣のために貨幣を求める。貨殖術は真のテクネーの本性とは反対に「限りがない」。
ソフィストは、貨幣に対してそれほど悪意をもたず、貨幣を喜んで蓄積しさえする。彼らは貨幣と引き換えに知識を売った最初の知識人である。しかもソフィストたちは、いっさいの技術労働を高く評価し技術者民主主義の思想さえ抱いている。彼らの理想は「技術者共和国」であったともいえる。その意味で、彼らは極めてモダーンであったし、内容こそ違え、彼らはどこか一九世紀フランスのサン=シモン派に似てもいる。ソフィストたちは古代ギリシアでしばしば格下げ評価の対象になったテクネ-一般に偏見をもった点でプラトンやアリストテレスと対立し、またそれゆえに後者から激しい告発をもうけたが、他方では、彼らも技術労働がそのままでポリスの基礎とはなりうるとは考えていない点で、閉じた宇宙論の圏内にいた。手に技術を持つだけでは政治的共同体は作れない、何かもっと高いものが必要だという点では、彼らもプラトン、アリストテレスとそれほど遠くない。ソフィストを十分にモダーンにしないだけの労働表象体系の束縛力が働いていた。