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読書ノート 「服従」 ミシェル・ウエルベック 大塚桃訳 

 今から9年前、2015年の著作。ウエルベックの問題作。
 佐藤優の解説が真に迫っていて興味深い。

 (イスラエル・インテリジェンス機関の元幹部の友人に『服従』を読んだかと尋ね)
 「イスラエルでも大きな話題になっている。2022年のフランス大統領の決選投票で、イスラーム政権が成立するという話だよね」
 (佐藤)「そうだ。(移民敗訴を掲げる)ファシストかイスラーム主義者かという究極の選択をフランスの有権者は迫られる。左派の社会党と保守・中道派のUMP(国民運動連合)はファシストよりはイスラーム主義者のほうがましと考える」
いずれの政権ができるにせよ、異なる思想の政権ができればフランスは内戦になるだろうとこの友人は結論づける。

 フランス、ヨーロッパには、イスラム世界への無知からくる恐怖心が根強くあり、それは知識人の脆弱な力を凌駕し、世論を形成する。知識人たちはいつでも宗旨変えをするもので、共産主義だろうとイスラム主義だろうと、「目の前にある『世界』をその全体において、『あるがままに』受けいる」存在であると喝破する。
 そのような世情が現れる要因として、友人は「ヨーロッパが崩れかけている」と言う。『服従』が提示したのは、EU統合・ユーロ導入の次の政治的ステップが頓挫し、後退し続けるヨーロッパには、内的生命力が枯渇しており、それをイスラームで補うという世界イメージである。
 
 参考になるのはこの友人が提示するイスラム国の現状説明だ。

「スンニ派に属する『イスラーム国』にとって重要なのは、シーア派との党派闘争だ。当面、『イスラーム国』がイラクとシリアで実効支配する地域からシーア派を放逐することが戦略的課題になる。さらに『イスラーム国』は、スンニ派内での覇権獲得に腐心している。パレスチナ自治政府のガザ地区で、同じスンニ派に属する過激派ハマスと『イスラーム国』が内ゲバを展開している。ハマスの主敵はイスラエルだ。これに対して、『イスラーム国』はイスラエルとの対峙を避けている。レバント地域(レバノン、シリアなど)に続いて、エジプトに『第二イスラーム国』を建設しようとしている。『イスラーム国』は、いま直ちにEUやアメリカを攻撃することは考えていない。ヨーロッパ人は『イスラーム国』の脅威を過大評価している。ヨーロッパ人の心象風景が『服従』に反映されているので、この小説は強い衝撃を与えている」

 ここで言われている「イスラーム国」とは、いわゆるイスラム過激派組織「IS」(正確にはISIL)のこと。『服従』が出版された2015年頃は、ISは世界各地でテロを起こし、勢力拡大中であった。2024年現在ISは依然とシリア地域中心に存在するが、最高指導者が相次いて殺害され、その勢いは削がれている。

 作中、主人公のユダヤ人の彼女は、フランスにイスラム政権ができそうということで、家族でイスラエルに引っ越ししてしまう。それほどまでにイスラムとユダヤの軋轢は決定的なものということ。まさかとは思うが、イスラムの恐怖にいてもたってもいられなくなったイスラエルが、ガザ・ハマス・イラクへ攻撃を開始したのは、『服従』によってその恐怖を駆り立てられたから、などということはあるまいか。ヨーロッパやアメリカが自国中心主義へ傾倒することで、イスラエルは西欧諸国に頼らず、自らの手で難敵を殲滅しようと考えているのでは。業が深い。
 翻ってみると日本も同じ穴のムジナで、アメリカトランプ政権の自国中心主義が進み、核の傘が綻びだす前に自国の軍事力を強化しようと考えてもおかしくはない。戦争放棄の理想を守る険しい道より、現実的な軍備増強のほうが簡単だからだ。

 パリ大学文学教授である主人公は、ムスリムに改宗することで、辞めさせられた大学教授に復帰する。イスラム教徒でないと国立大学では教鞭がとれなくなったからだ。その逡巡の過程で、先にムスリムに改宗した教授から『O嬢の物語』を引用し、「服従」の必要を諭される。

 「『O嬢の物語』にあるのは服従です。人間の絶対的な幸福が服従にあるということは、それ以前にこれだけの力をもって表明されたことはなかった。…女性が男性に完全に服従することと、イスラームが目的としているように、人間が神に服従することの間には関係があるのです。…仏教の見解では、世界は『苦』、すなわち不適当であり苦悩の世界です。…イスラームにとっては、反対に神による創世は完全であり、それは完璧な傑作なのです…」

 全然東洋世界から見ればお話にならない論拠である。イスラムの精神も誰も神に服従しろなどとは言っていない。それは単に政治的な社会=組織運営にかかわる縛りであり、流出論や存在一性論から端を発する「存在の彼方にいる神=神の属性の集合体である人間」を基軸とすれば、何をか言わんやである。無論、これは小説内登場人物のコメントですが。

 読んでいて楽しいのは、女性との逢瀬、媾合、食事の風景、ユイスマンスの文学談義などが私には新鮮であった。料理メニューを列挙したい気分にさせられました。無論、イスラム政権ができるまでの緊迫した情勢を描き出すその想像(創造)力にも感心させられ、政治シュミレーションの重要性などを再認識した具合です。

 本来なら、この『服従』と密接にかかわっている「シャブリ-・エルド襲撃事件」について触れなければならないのだが、そうすると表現の自由とテロに関する考察が欠かせなくなるので割愛します。


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sakazuki
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