読書ノート 「フィロソフィア・ヤポニカ」 中沢新一
以前住んでいた札幌宮の沢に、札幌市総合学習センター「ちえりあ」があり、そこに二十坪程度の小さな図書室があった。
北海道大学医学部付属病院入院中に、講談社選書メチエから刊行されていた中沢新一の「カイエ・ソバージュ」シリーズ最終巻「対称性人類学」を読了し、その先見性や学際的なものの見方に強烈な衝撃を受け、更に読み続けようとしていた。
丁度その頃、図書室に蔵書として置かれていた「フィロソフィア・ヤポニカ」を借りてきて読んだ。
みずからの仕事は、函館エリアから札幌の大手企業の担当に変わり、面白くなってきたころで、心身ともに回復傾向であった。そこで満を持して読み出したのだが、これがなかなか歯が立たない。
西田幾多郎と田邊元を行き来しながら、日本固有の哲学の創造過程を追っている、程度の理解で、まず中沢の挑戦的、煽動的な表現スタイルには惹かれるものの、数学や物理学、仏教、文化人類学、また精神分析学(お得意のラカンではあったが)が縦横に飛びかい、理解がついてこない。大変刺激的なことが書かれているのにも関わらず、その半分も理解出来ないことに愕然とし、あきらめて一週間ぐらいで返却したのを覚えている。
その後、あまりにも悔しいので、転勤した神戸で講談社学術文庫版を購入し、一からノートを付け、熟読することにした。そのノートの始まりにこう書いた。
「中沢新一の『フィロソフィア・ヤポニカ』を読む。ゆっくり、牛の歩みのように焦らず、ひとつひとつ理解を深めながら、読む」
そうして、神戸、岡山、京都と転勤を繰り返し、この度やっと曲がりなりにも読了することが出来た。
何よりも西田幾多郎に比べ、あまり注目される事の少なかった田邊元にスポットライトを当て、そのハイブリッドな思考の現代的意義を炙り出す手腕に脱帽した。読んでから知ったのだが、田邊元は第二次世界大戦中、その「種の論理」において、「個」は「種」「類」の存続・発展のために存在するといった、全体主義礼賛による戦争加担の疑義(誤読)をかけられ、本人も戦後その反省を元に「懺悔道としての哲学」を記すなど、どちらかといえば終わった哲学者という捉え方が大勢を占めていた。その中で中沢は最新の数学的、精神分析学的思想を基に、田邊の思考を、西田哲学の独創性を違う角度から批判的発展を唱え、それこそ「西洋哲学を超えて」思考するアイディアであったことを露わにした。それが現在のドルーズや量子力学の理論を予見するような先進性と遠い視野を持つものであることを示したのであった。
書くべきことはふんだんにあるが、ここでは種の論理が絶対無に近づき、その論理を強固なもの、安全なものにしようとした思考を追う。
「種の論理の弁証法」のなかで「無としての善の有的媒介」と記したもの、それが絶対無に他ならないと中沢は言う。
全体を有的に媒介するとは、無である全体が、無のまま有として媒介的に肯定されるという意味を持つ。したがって「絶対無」とは、無である「一者・全体」が有として媒介されるときに生まれる直感のことを指していることになる。こういう直感は「種的基体」のうちからは、そのまま発生しない。「種」は多様体として自らのうちに否定転換性を潜在させているが、それは「個」の実践する行為的な自覚によらないかぎりは、徹底されて「絶対無」にたどり着くことはないのである。このとき「個」は単独な行者(行為的自覚を行うもの)となって、「私」が「私」であることまでも否定して、有としての自分を否定しつくして死に、無の深淵深く落ち込んでいくとき、その無底の「底」から有を肯定する力が湧き上がってくるのを自覚するようになる。こうしていったん死んで、無の深淵に沈んだ「個」がふたたび新しい有として復活をとげるのだ。そのとき、「種」にあっては潜在的なままにとどまっていた否定転換性は、初めて行為実践する「個」を通して、「全体無の弁証法」として徹底化される。田辺元はそういう機構を通じないかぎり、「種の論理」は理性的同一性の殻を体につけたまま、国家の根本悪に対峙する能力を持つこともできないと考えた。それどころか、私たちは「愛」について思考することもできない、と考えたのである。 (第一二章 絶対無に結ぶ友愛)
3回入院し、全身麻酔での意識の「死」を体験した身にとって、「いったん死んでやりなおす」的な考えに近しいのかも、と感じる。
死を意識したのちの生(例えば自殺未遂後の意識の変化)が、いままでと違い、他者への慈しみや自分と世界との関係の再構築が発生する仕組みと似ているのかもしれない。
この田邊・西田の二人が見つめた述語論理と絶対無の視座を、例えば人の営みの中にどのように昇華すれば良いのだろうか。特に統治機構としての行政施策や、教育といった分野で、論理的思考と共に展開し、西洋的でも東洋的でもない、そのハイブリッドを体現するような「個」や「種的存在」をうまく作り出すことはできないだろうかと考える。鷲田清一があとがきで述べたのとは異なる意味で、「補助線を引く」ようなやり方で、上のステージに上がることが出来ないものかと夢想する。 現代におけるその「補助線」とは、IoTやAIといった、人の論理思考やコミュニケーション能力を暴力的に拡大するテクノロジーが候補になるのではないか。