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読書ノート 「懺悔道としての哲学 田辺元哲学選Ⅱ」 藤田正勝編

 田辺元は『種の論理』における思想が第二次世界大戦における日本の帝国主義的・他国侵略的国策に加担したという反省から、戦後、自身の新たな思索を「懺悔道」と呼ぶことになる。「懺悔」「懺悔道」と言うと、なにか大きな犯罪・過ちからの自己否定的反省の姿を思い浮かべるのだが、よくよく田辺の思考を辿るとそういう訳では無さそうである。というか無い。それをつぶさに露わにし、理解するためのノートを取る。


 「哲学の歩む道は懺悔の道」

 「私の用いる懺悔は通常の懺悔の概念を意味しない」

 「(その概念は)通常の概念以上のものを意味する」


 普通の懺悔→過去の所業に対する後悔とそれに伴う無力感、つまり無力の意識から来る感情の消極的な─昂揚とは反対の─萎縮・沈滞を意味する。かかる消極的な懺悔に関してカトリックはこれを徳とするも、スピノザは二重の無力と言う。

 スピノザの懺悔=二重の無力:過去に対する無力と、現在において活動性を失う故の無力
 田辺元の懺悔→哲学の道である以上、積極的なものを持たねばならぬ。そしてその懺悔は無力感より来るパトス的な感情の萎縮を意味しない。
 ヨハネの懺悔=「自ら悔い改めよ」自力的回心


 「私の懺悔にては、自己は自己の存在を要求する資格を放棄することによって、かえって自己の存在を自己ならぬものから受け取る、すなわち無力が能力に転ぜしめられるのである」


懺悔道→ドイツ語でMetanoetik 「理観に対する行道が哲学の道であり、それが懺悔の働き」
※メタノエティックスとは、悔い改めを意味するメタノイアという(新約聖書で多用される)ギリシャ語と、ノエーシスの立場(これはプラトン主義でいう叡知的直観)を越えるという意味での、メタ・ノエーシスの二つの意味がある。(田中裕上智大学名誉教授『フィロソフィア・ヤポニカを読んで』)


 戦時中において「勇気がなかった」「実践的に無力であるというのみならず、知識においても深く無力を感ずる」「自己の力を過信していた」「世の不合理はみな我々の連帯責任」

「まったく無力だというところに立つことによって、不安・焦燥から救い出されて、非常に開かれたところに出た」「これが懺悔なのである」「懺悔が私の存在を転換したのである」「何かを成し得る人間としての自己を放棄して、させられて、私を超えたもの、私の他者が私の中で働いている」「無力と言う極限に存在の転換が私の中で行われた」

親鸞・浄土真宗の教え 浄土・仏の賛美のなかに、親鸞の懺悔がある。

還相=仏が働く

絶対的な相対性が絶対

ヘーゲルによる止揚は破壊を含むが、仏教においては破壊は含まない

理性から見た愛(アリストテレス)

大悲 悪人も生かし切る原理

プラトンの理想国家はイデア論の立場(人と人を活かしきる原理)そこからノモス(法)的立場に移行する

「和を以て貴しとなす」(聖徳太子『憲法十七条一』)の和は、徹底的に否定を含まず、個と個を活かしきるもの。→これが懺悔の道

懺悔は他力の行

懺悔道を哲学とすることは、倫理哲学と同じく、一般性を要求するもの。
死して蘇る転換

たぶん、「懺悔道」と言う言葉が誤解を招くのだろう。「他力の哲学」ぐらいでもいいのでは。「懺悔」を「絶対無からの反省」「客観的内的分析」「たましいの分析」「無意識的哲学」など異なる用語にしたほうが理解されるのでは。

民主主義国も社会主義国もまた、それぞれに懺悔すべきものをもつのである。「人類はすべてに懺悔を行じて、争闘の因たる我性の肯定主張を絶対無の媒介に転じ、宥和協力して解脱救済へ相互を推進する絶対平和において、兄弟愛の歓喜を競い高める生活にこそ、存在の意味を見出すべきではないか」

懺悔道は理観超越を含意する。すなわちそれは超観道なのである。

「これは懺悔道哲学が一般の神秘主義哲学ないし直観哲学と区別対立せしめられる重要な特色をなす。懺悔道は自力的直観に基づくのではなく、他力の転換に媒介せられる行信証である。本来真宗特有の概念であるがその意味は哲学の全体に対し根本的重要性を有すると思われる往相と還送との両概念を、その内容の展開に先立ち予め使用することが許されるとするならば、懺悔道は一般の神秘主義が往相的観想なるに対し、まさに観相的行道なることを特色とする」

※行信証…行為によって信心の内容の確かさを証しすること

カントの根源悪…カントによれば、人間には道徳法則の遵守よりも、自愛を優先させる自然な性癖がある。それは規律の根拠を腐敗させ、人間の力では根絶できない。故にこれを根源悪と呼ぶ。

行信…実践と信心

シェリングの自由論…シェリングは、人間の自由を、善の積極的な対立物としての悪をもなしうる能力として規定し、悪の問題を深く追求した。

絶対矛盾的自己同一…西田幾多郎の後期思想の重要概念。絶対に矛盾するものの同一という性格をもつ歴史的実在の構造をこの言葉で表現している。また宗教論の文脈でも、自己と自己を超えた絶対無限なものとの矛盾的な関わりについてもこの言葉で表現している。

行為的直観…西田幾多郎の後期思想の重要概念。我々は行為によって物を見、物が我を限定すると共に我が物を限定する。それが行為的直観。

空有…『懺悔道の哲学』における重要概念。無における有、死を媒介として生かされ、復活した存在を意味する。

プロティノスが行は観のためであるという。

「光源とそれから溢れ流出する光線との関係」(プロティノス『エネアデス』)「永遠の分散的影像として時を成立せしめる」(プロティノス『エネアデス』)

「懺悔道」としての哲学の主要な部分をなすのは、「超理観」「超理性学」と言う言葉が示すように、理性ないし理性的哲学に対する批判である。もちろん、哲学はもともと理性に対する批判を含むものであるということもできる。その典型がカントの理性批判である。田辺もまたそのことを認める。しかし彼によればカントはその批判する理性そのものを批判の対象とすることはなかった。その意味でカントの批判哲学は理性全体を批判するものではなかった。そのように批判の主体である理性を批判の外に置くのではなく、それをも批判の対象とする徹底的な理性批判を田辺は要求したのである。

 つまり、「自力的なる理性の哲学が、現実との対決において避け難き二律背反に陥り、カントの理性批判が示した、知識を制限して信仰の立場に立つ、という如き自力の処理を許さないような絶体絶命の窮地において、支離滅裂、七花八裂の絶対の分裂に、進んで身を任す」ことを要求したのである。このような理性の徹底した批判を田辺は「絶対批判」という言葉で呼んでいる。田辺の理解では、理性批判はこのような絶対批判にまで徹底されてはじめて理性批判でありうる。このような意味での「絶対批判」が懺悔道の中心的な課題をなすと言ってよいであろう。(解説・藤田正勝)

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