読書ノート 「クリステヴァ 現代思想の冒険者たち30」 西川直子
ラカンの系譜にいる精神分析学者かと思っていたが、よく見るとそうではなく、哲学者・文芸批評家という位置であり、日本でいうと柄谷行人と似ている。「知識のブルドーザー」と評されているそうだが、たしかにその文体を見ると、これでもかといった感じで各方面の思想・知識・情報が盛り込まれ、一瞬小松左京を想起した。写真を見ると華奢な女性で、アーレント含め、ヨーロッパの優れた女性思想家は小柄で痩せこけた身体から発生するのかと思ってしまう。
著者の西川直子さんは1942年生まれ。早稲田大学文学部フランス文学科卒。東京都立大学人文科学研究科博士課程単位取得。現在、東京都立大学人文学部教授。専攻はフランス文学。著書に『〈白〉の回帰』(新曜社)他、訳書にクリステヴァ『ポリローグ』(共訳、白水社)、同『黒い太陽』(せりか書房)、同『サムライたち』(筑摩書房)など。
目次
プロローグ クリステヴァ、パリへ
第1章 構造を超える生成
第2章 意味を生成させる欲動
第3章 「母」なるものをめぐって
第4章 意味生成とつながった新しいフェミニズム
エピローグ 90年代のクリステヴァ
では本文にあたる。
ル・セミオティックとル・サンボリック。
ル・セミオティック=身体的な物質的現実という外部に面している領域。
ル・サンボリック=超越論的領野、歴史や社会、イデオロギーという外部に結びつく領域。
コーラ──母なる「振動する容器」
プラトン『ティマイオス』におけるコーラ。生成に関わる三つのもの。父と母と子、「生成するもの」「当のモノ」「受け入れるもの」。生成を提供する「場」、「受容者」、それをコーラと呼ぶ。じっさい、コーラは、「場」と訳されている。
コーラは、目に見えない、感覚される対象でない、理性の性格の一面的な具現化にすぎない。
コーラは、あらゆる形状、あらゆる状態を身に受けることによって必然的にもたらされる不均衡状態のために、自分自身が不規則にあらゆる方向へと動揺させられ、揺すぶられながら、同時に逆に、なにかあるものを揺すぶり返す。その中にあるものは動かされ、絶え間なく選り分けられて、それぞれが異なった場所へと運ばれてゆく。ちょうど箕や篩が穀物と不純物をふるい分けるように、コーラはみずから振動しつつ中身に振動を与える容器として働いて、万物にそれぞれの場所を付与している。
コーラは秩序付けられた宇宙の出現に先行する。
コーラは父の登場以前の舞台で働く力であると言えよう。
非表現的な一次分節、流動と停滞からなる分節
コーラは養い育てる母
コーラは秩序や統一を知らない。
言語習得以前の身体的声や身振り
言語以前、主体以前の空間であるコーラを運動させる奇妙な主体(言葉を喋ることのできない子供や精神病者)への接近を可能にしたのがフロイトの無意識の理論である。
前エディプス期の母=子関係(メラニー・クライン)
コーラは一時的ナルシシズムの空間である。
おぞましきものを棄却することによって、人間ははじめて文化的領域を画定する。
原初的距離づけ=原初的抑圧
アブジェクシオン=いまだ対象とならずに一体化している母(前=対象)が、融合の快楽で魅惑しながら、しかし同時に嫌悪を誘発するおぞましきものとなって、棄却されること。
汚れの儀礼、食物禁忌、罪
転移による昇華を通じて、罪は美や快楽になる
アブジェクシオンがつくりだす自他の境界の両義性ゆえに、排除されたおぞましき前=対象はたやすく回帰していく可能性がある。この回帰がもたらす不安・恐れ・幻想が「名付け得ぬもの」として出現してくる。
このアブジェクシオンをどうすればいいのか。それをリビドーへ向けて迂回させ、欲望の対象とするのか。それとも、象徴性へ向けさせて、愛や憎しみ、熱狂や呪詛の記号とするのか。問題は未解決のまま、決定不能のままとどまるかもしれない。
このような決定不能の状態に対する宗教からの回答が、すでにみてきた汚れや禁忌や罪といった宗教的概念である、とクリステヴァは考えている。
現象としてのテクストと生成としてのテクスト
間テクスト性、パラグラム原理、ポリロゴス
想像的父とは愛する父であり、想像的父の役割を果たすのは現実的には母親である。
意味の消出と萌芽の地点、伝達の可能性と不可能性がせめぎ合う領域、したがって生の意味と無意味が反転しつづける閾に、クリステヴァの視線は一貫して注ぎ込まれた。
全然読めていないが、とりあえずクリステヴァの代表的思想タームである「ル・セミオティック/ル・サンボリック」「コーラ」「アブジェクシオン」について眺めてみました。
クリステヴァからは少し離れるが、「コーラ」については、述語的思想哲学を展開する日本・日本人とは相性がいいように思う。中沢新一『フィロソフィア・ヤポニカ』で、中沢はコーラについて以下のように記述している。いわく、西田(幾多郎)は、コーラの「受容器」としての包摂作用から「場所」を、田辺(元)はコーラの「質量性」に着目し、コーラを力動的な多様体として「種の論理」を展開した。
マテーシスを学習や数学の語源として捉えるなら、コーラは非哲学的思考の象徴であろう。われわれが行うべきことは、流動的相互補完的に主体を揺さぶる「場・受け皿」としてコーラを言語化し、意識的に把握することで、思考に明確な補助線を引くこと。そうすることでさまざまな二元論(意識・無意識、理論・非理論、存在・非存在)の連結(繋ぐこと)を許すものだろう。コーラと阿頼耶識(意識と無意識をつなぐもの)などとの相似も点検していきたい。見えにくくわかりにくいものを捕捉しながら少しづつ進むのだ。