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読書ノート 「バシュラールの詩学」 及川馥


 コロナ禍の土曜日、家で本棚を眺め、とりとめもなく整理をしていた。
 そしてふと、この本『バシュラールの詩学』を手に取りページをめくる。

『バシュラールの詩学』 及川馥

 すると、オレンジ色の蛍光線が所々に引かれているのを発見した。
 線を引いたのはもちろん自分だ。
 蛍光線が引かれたのは全て著者が引用したバシュラールの言葉。

 今ここで、私がこれを欲しているのを過去の自分はわかっていたかのような、そんな気持ちになる。
 言い換えると、自分の興味は昔とさして変わっていないということだ。

 この本は1989年の初版本。
 多分新刊で購入しているので、読んだ時期も1989年(平成元年)と思われる。 とするなら私は大学生。読んでいた頃の風景が少し思い出され、幸せな気分になる。


 線を引いた時の自分の気持ちを記憶の底から立ち昇らせるとともに、それに加えて、想像力を駆使してその言葉に新たな命を吹き込むことを試してみたい。

 ここでは、その言葉を列挙する。その(表現レベルではあるが)加工にも挑戦する。そうすることで自らのものにしたい、という欲望がある。

 
 そして最後に、私の一番好きなことばを置く。




「人間は、人間の条件を乗り越えよ、というふうに人間をつき動かす諸傾向の総体として規定されるべきだ」


「認識は再発見のための記述である」


「ひとが測定するところのものが存在し、測定の精度が上がるにつれて認識が前進する」「無視しうる量は無視する」


自然科学における対象といえども「諸限定の集中する想像上の中心」にすぎず、「対象は観念から任意のどれだけ離れた位置に置かれていたとしても、観念に内在している」のであり、「客観性とは経験の合理的な極限」ということになる。


「世界は我が検証である。精神が試験ずみの観念によって作られるのに対し、世界は検証された概念によって作られる。」


相対論は「測定の原理そのものを破壊する超越論的な検証」

「数学から発する予見が物理学上で立派に実現し、現象の内奥に入っていくことは承認せざるを得ないのである」

「思考が自らを豊かにし、解明される決定的瞬間のいくつか」

「実在性は、精神の征服として、つまり推論的思考の最終的な決定的征服として出現すべきものにちがいない」


アインシュタインの体系が物理学的に事実(ニュートンの体系では説得できない事実)を捉える場合には、「ニュートンまたはガリレオ的情報への違反に根拠を置いているのであり、換言すれば、この体系が実在を征服するのはガリレオ的諸特性との隔たりによってである」「ニュートンの法則はアインシュタインの近似法の全く作為的な停止でしかない。アインシュタイン的パノラマの中心からみれば、ニュートン体系はその極めて大きな量的正確さにもかかわらず、真の質的不正確さをあらわすのである」


相対性理論の飛躍は「はじめに出てくる理論の反省から、明証的概念を疑うことから、単純観念を機能的に二重化することから、生まれたのである」


「科学の立場では、真なるものは長い誤謬の歴史的修正と考え、実験は共有された最初の幻想の修正と考える」


すべてを疑うデカルトが、「コギトの一瞬の光に眩惑されて、かれは、われ思うの主語であるわれの永続性を疑ってみることをしなかった」



「硬い蜜蠟を感覚する存在と、柔らかい蜜蠟を感覚する存在とが、なぜ同一の存在であるのか」

「もし蜜蠟が変化するのなら、私も変化する。私は私の感覚と一緒に変化する。そしてこの感覚は、私がそれを志向しているその瞬間には、私の全思考に他ならない。なぜなら感覚するとは施行すること、コギトのデカルト的な広い意味において思考することだからである」


「思考の全力をあげて、本体と経験、本体と現象が等置される厳密な方程式の最中で生きる」


 頭脳は「客観化の途上にある思考」


「自分自身から脱出して自分の枠組を破壊する弁証法的機会を探す思考」


「大脳の慣習的な考え方が全て疑問視される」

「大脳に逆らって考えなければならない」

「原理を設定して事物を探求する」


「様々な客観化の過程の果てに、技術的方法が収斂していく中心として原子を捉える」


 瞬間、この新しさという創造の特性は「画一的時間の中での新しい存在ではなく、絶えず自らを新しくしながら存在を自由へと、あるいは生成の最初の機会へと運ぶところの瞬間」に認められる。


「現在の存在と過去の存在との直接的な連帯は否定される。しかしもしさらにこの時間における瞬間の連帯が直接的でなく、所与でもないとすれば、換言すれば、もしある原則にしたがっていくつかの群に集められた瞬間を、直接結びつけるのが持続ではないとするなら、直接的でも時間でもない連帯が、どうして存在の生成において現れるのか」


「過去は現在の中にその反映を生じさせ、それゆえに物質的には常時生きているのだ」

「習慣とは以前の努力によって存在の意のままになっているひとつのメカニズム」

「結局、個人とはすでに偶然的事象の総和」

「習慣は自ら学びつつ構成する反復」



「瞬間が持続をなし、持続が進歩をなすためには、時間の基底そのものに愛を刻んでおかなければならない」


「我々は自分が生きているという事実、我々が愛し悩んでいるという事実によって、普遍的で永久的な道をすでに歩んでいるのだ」


「時間のすべての力は革新的な瞬間の中に凝縮されている。その瞬間に、シロエの泉(ヨハネ伝にいう盲人を癒す池)の傍で、歓喜と理性を同一の身振りで我々に与え、また真と善によって永遠の存在となる手段を与えたもう聖なる贖主に触れて目が開くのである」


「ポエジーとは瞬間化された形而上学である

「事物は波動することによって時間的構造と物質的構造とを同時にあらわす」

 最初にものを媒介することによって人間の主観性を捉える(及川馥)

「主観を起源とする隠喩から客観的実在へ」


「我々は水、空気、空、砂、木の葉、パン、バター、蜜のような単純なものに喜びを再発見すべきである。我々の心的生活のこわれた断片のようにみなされていたこういう取るにたらぬ目配せ、周辺的予感を残さず大事に集めねばならぬ。なぜなら、そうした時初めて自然が、この馴染みのない領域のあちらこちらから姿を現して、思いがけない陶酔をもたらし、あるいは静かな幸福を保証するからである」


 学ぶコツを伝える配慮

 数学は「世界と神経系の構造に相似した構造をもつ今のところ唯一の言語」


「私は田舎の哲学者です」

「鼻筋の通ったカール・マルクス」

「一方の目が片方よりもにこやかであった」


「教えることは学ぶための最良の方法である」


      観念論
       ↑
     因習的学説
       ↑
      形式主義
       ↑
 応用理性主義と技術的物質主義
       ↓
      実証主義
       ↓
      経験主義
       ↓
      実在論


「時間とは順序である」


瞬間を時間の原子とみなし、「瞬間に一つの次元を与え、それによってそれ自体にある種の持続を保持するような一種の原子を作る」ような折衷を試みる。

「夢想は放射状にたちはたらく。それはその中心に立ち戻って新しい光線を発する」

「夢想することを知らない意志は盲目で偏屈」

「意志の夢想を持たなければ意志は人間の真の力ではなく、それは獣的本能にすぎない」

「よく夢想しようと望む人びとは、まず幸せになることから始めよ」

バシュラールは文学書を二度読むことをすすめる。一度めは筋を追い、二度目はイマージュに注意して。それはいわば最初はアニムスのため、二度目はアニマのための読書ということになるだろう(及川馥)


「想像されたイマージュは現実を再現したものではなく、元型の昇華なのである」から

「イマージュ特有の実在を把握すること」「イマージュは『思考以前にある』もの」

「誕生と死とは心理的には対になっていない」

「人間が欲望するつど、ひとつの世界がある」



「人間が〈世界〉から投げ出されたとか、しかもまず最初は〈世界〉の中に投げ出されていたなどと、どうして言うことができようか」


 実存主義的な世界観の根本原理に対する不感の表明


 幸福な夢想を見るように人間は生まれているのであり、生きようとする意志の前には死さえも存在しなくなり、人は夢想の中では好むままに何度でも生まれ変わることができるのではないか、とバシュラールは説いている。ここに我々は、未完に終わった不死鳥の詩学の一つの大きなテーマを垣間見ることができるであろう(及川馥)



「よく眠る最良のやり方は、水の夢を見ることです。夜ベットの中で、穏やかな、香りの良い、温かい水の中にいるような夢を見るようにしてみなさい」


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