連載小説【夢幻世界へ】 3−8 なくなってしまえ
【3−8】
貞子が朝目覚め、居間へ寝ぼけながら入っていくと、そこには壁一面に黒板があった。黒板には、
と記されている。
貞子に緊張が走る。すでに舞台設定は変わった。
なにもない部屋の虚空にバシュラールの声だけが鳴り響く。
「これについて対話することは、今の我々には少し危ない部分がある。姿を見せながら議論することができない。不安定なこの世界では、すぐに転移・逆転移が起こる。悪とは、感受性が高く、ナーバスなものなのじゃ。すまんが少しの間、パロール(声)だけでやり過ごしていこう」
「また、悪は触ろうとするとその姿を変える、厄介なものじゃ。そのため、道具を用意した。手紙じゃ」
ひらひらと白用紙が舞い降りる。文字ともそうでないとも言える走り書きが書かれている。周りが暗がりに包まれる。部屋がその形態をとらなくなっていく。
手紙の走り書きが、その形をあらわし出す。
「凡庸な羊があらわれる。
羊には意志がない。ただ、歩き、座り、眠る。
羊の豊かな羊毛は柔らかく、暖かい。
羊に触れると、羊の心は少し華やぐ。
羊に触れると、何かが溜まる音がする。ぽとん。
羊は触られることが好きだった。
触る手は、羊が喜んでいることがわかると触る回数を増やしていった。
むやみに触る手。意思のない手の数が増えていく。
手が増えると触りが増し、溜まるものが溜まっていく音がする。
ぽとん、ポトン、ポトン。
羊には、優しい手が、慈しみが溜まっていく気がした。
ぽとん、ポトン、ポトン。
ぽとん、ポトン、ポトン。
ぽとん、ポトン、ポトン。
ぽとん、ポトン、ポトン。
溜まっていくものの性質が、変わりだす。
溜まるものが、声を発する。それは羊の声ではない。
『もういいんじゃない、出て行こうよ、羊くん』
『ああ、飽きた飽きた。ひとつのものでいるのに飽きた。ひとつのところに留まるのに飽きた。何か喰らいたいなあ。羊くん以外のものを』
羊は、その感情が理解できない。羊は、声を発する機会を見失なう。
羊は、声を上げようかと考えた時もあったが、気後れしているうちに、その瞬間は通り過ぎてしまった。
溜まったものは、好き勝手をやり始めた。罪なき生き物を喰い、人を欺き、人を苦しみの淵に落とし、嘲り、卑しめ、蔑み、打ちのめして笑った。
永遠に続くと思われた所業を見て、羊はうろたえた。その所業自体、自分の中で溜まったものが引き起こしていることに気づいたからだ。
なんとかしたい、と考えた。しかし何もできなかった。羊は勇気がなく、事態を好転させる術を全く知らなかった。
長い月日が流れ、泣きながら羊は思った。
俺のせいじゃない。
それは、俺ではない。だから、溜まったものたちを亡きものとしてしまえばいいんだ。最初は優しかったけど、奴らは俺ではない。
なくなってしまえ。
羊から溜まったものが分かれた。
ゆるゆると、溜まったものが、流れ出し、地に、空に、染み込むように出て行くところを見つけ、そのうち、全てが消え去った。
しばらくして、羊は自分の中に自分自身も含め、何も残っていないことに気づいた。
そこには空虚しかなかった」
「いけない、いけないわ、羊さん」貞子が叫んだ。
その時を待っていたのか、声に反応し、羊であったなにものかが大きな黒いものに姿を変え、貞子に襲いかかる。