読書ノート 「カント政治哲学の講義」 ハンナ・アーレント 浜田義文監 訳
カントは「判断力という全く新しい人間の能力」を『判断力批判』において発見した。これこそ政治哲学に対するカントの最大の寄与であるとアーレントは考えた。アーレントの取り上げる判断力は反省的判断力の中の特に美学的判断力である。
アーレントはこの美学的判断力を政治的判断力へと転釈する。なぜそれが可能かといえば、政治的判断力は公共的領域において、様々の行為者の特殊な活動について普遍妥当的な判断を下す働きであり、両者は多数者の間での特殊的事柄に関する普遍的判断の形成という点で基本的に一致するからである(監訳者あとがき)。
行為者の活動は注視者の判断に依存する。この働きを助けるものがカントの言う「共通感覚」に他ならず、それをアーレントはすべての他者を視野に取り込む「共同体感覚」と呼んでいる。
注視者の「没利害性」
アダム・スミス「公平な注視者」
中村雄二郎「共通感覚論」
「たとえ我々が現世における人間の道徳的・物質的状態を、最高の条件のもとで、すなわち人間の目標と定められた最高善へ不断に進歩し接近しているという条件のもとで、受け入れるとしても、なお人間は……永遠の変動状態の中で耐えている……という自分の状態に満足することはできない。
なぜなら人間が現存する状態は、これから入り込むより良き状態と比べれば、やはり悪のままであるからである。また究極目的への無限の進歩という観念は、同時に際限のない悪の連鎖の予測でもあり、このことは……満足感が広がることを許さないのである」(カント)
「換言すれば、判断力は今や、美醜を決定する趣味以上のものである。しかし正邪の問題は趣味によっても判断力によっても決定されえず、ただ理性によってのみ決定されるべきものである」(アーレント)
カントの2つの問題
「社交性」
「なぜ一体人間が現存する必要があるのか」
意志は命法でもって語る。これに対し判断力は「単なる観想的快または非活動的満足感」に由来する。
カントが晩年注意を払っていたのは、いかにして一つの民族を一つの国家へ組織するか、いかにしてこの国家を構成するか、またいかにして連邦国家を設立するか、という問題であり、そしてこれからの問題に関連する一切の法律的問題である。
カントにとって「悪魔の民族」とは、自分自身を「密かに免除しようとする傾向がある」人々のことである。肝心なのは「密かに」という点である。
アリストテレスでさえも、「政治的生活は最終的には観想的生活のためにある」と考えた。
ひと=人類=自然の一部=歴史への服従(自然の計略への服従)=目的論的判断力の下で考察される
人間は合理的存在者、実践理性への服従、自立的存在
人々は自律的ではなく、思考の為にさえ相互の仲間を必要とする
「人間が精神的過程を統制するために、真理の概念や観念を持つとしても、おそらく人間は、有能な存在者として、真理なるものについては無能である。(ソクラテス流にいえ、「賢い人間はいない」)他方、人間は与えられたままの人間の諸能力について、研究することは実際に可能である。
我々はその諸能力について、誰から、どのようにして与えられたかを知らないが、しかし我々はその諸能力と共に生きていかねばならない。そこで我々は、我々が何を知りうるか、そして何を知りえないか、について分析しよう」
これが、カントの著作が『純粋理性批判』と題された理由なのである。
「精緻ではあるが効力のない区別」
「哲学の開始は、普通の意識によって与えられるような種類の真理を越えて自分を高めることであり、より高次の真理の予告でなければならない」
批判的思考は「自由かつ公開の吟味という試練」を自分に晒す
政治的自由は、「あらゆる点で自分の理性を公共的に使用すること」
哲学的真理が持たなければならないことは、「普遍的伝達可能性」である
「事実に関する問いとは、いかなる仕方で人が最初に概念を所有したか、という問いである」
「権利に関する問いとは、いかなる権利を持って人はこの概念を所有し使用するかという問いである」
「あなたもご存知のように、私はただ反駁したいという意図を持って理由のある異議に近づくことはしませんが、それらを検討するときには、いつも私はそれらを私の判断の中に取り入れ、それらに私の抱くすべての信念を転覆する機会を与えることにしています。
こうして自分の判断を他の人々の立場から公平に眺めることによって、私は自分の以前の洞察を改善することになる第三の見解が得られるのではないか、という希望を抱いております」
「精神はその柔軟性を維持するために、応分の量の休養と気晴らしを必要とします」
精神の拡大
批判的思考はカントの世界市民の立場を採用している
多様な変革効果を持つ幾多の革命を経た後に、やがていつかは、自然が最高の目標とするところの、人類本来の全能力を開花させうるような、普遍的な世界市民的状態が実現するであろう、という希望
格律の私秘性への固執は悪である。それゆえ悪は公的領域からの撤退として特徴づけられる
道徳性は見られるにふさわしいことを意味する。そしてこれは単に人間によってだけでなく、最終的には、人間の心を知り尽くす者である神によって見られてもふさわしいことを意味している。
カントは悪を、まさにその本性からして自己破壊的であると考える
注視者 スペクテイター(spectator)
傍観者 オンルッカー(onlooker)
「人生は、祝祭のようなものである、とピュタゴラスは言った。競技するために祝祭に来る者もいれば、商売を営むために祝祭に来る者もいる。だが最良の人々は観客としてやって来る。それと同時に、人生においても、奴隷的な人間は名声や利益を追求するが、哲学者は真理を追求する」(ディオゲネス・ラエルティオス)
人間存在の価値は、ただ全体においてのみ顕れる。
ヘーゲル…歴史には終りがある。絶対精神の顕現は終局に達せねばならない。
マルクス…富裕さに基づく無階級社会ないし自由の王国では、万人は何らかの趣味に浸っていれば良い。
カント…哲学者ならば、人類一般の終局的目的は永続的進歩である、と答えるであろう。
社交性は人間の人間性にとって目的ではなく、まさしく起源である
社交性こそがまさしく人間の本質をなす
人が政治的な諸問題に関して判断を下すとき、あるいは行為するとき、人は自分が世界市民であり、それ故世界観察者、世界注視者であるという、現実でなく観念から、自分の位置を確かめなければならない。
範例的妥当性
進歩とは物語が決して終わらぬことを意味する。物語そのものの終わりは無限の彼方にある。
カントによれば、構想力とは、現存していないものを現存させる能力、すなわち表象〔再ー現前作用〕の能力である。
構想力とは、自らは現存していない対象を直観において表象する能力である。
構想力とは、対象が現存していない場合の知覚の能力である。
カントはこの能力を「再生的」と呼び、「産出的」能力と区別する。
カントにとって構想力は記憶のための条件であり、記憶よりはるかに包括的な能力。
「ヌース」…現存してはいないが現存しているものを凝視する能力(パルメニデス)
「諸現象とは見えざるものの一瞬の煌めき」(アナクサゴラス)
存在それ自体
認識に図式を与えるのと同じ能力である構想力が、判断力に範例を与えるのである。
図式…ある概念にある形像を与える。そのような形像が、「図式」と呼ばれる。
図式は思想と感性を超えたもの、ないしはそれらの中間にあるものである。
換言すれば、特殊なものを伝達可能にするには、
a我々がある特殊なものを知覚するときに、心の奥に(魂の奥に)それと同類の多くの特殊なものに特徴的な「形状」を成すところの一個の図式を我々が持っていること、そして
bこの図式的形状が多くの様々な人々の心の奥にもあること、この二つのことである。
図式は、感性と悟性が出会うところである。
判断力は、範例が適切に選ばれる限りにおいて、範例的妥当性を有する。
「アーレントが熱心に力を込めて論じたのは、巨大な科学技術によって固められた、現代の普遍的な「全体主義的」政治状況の下での人類の運命であり、文化の危機や戦争や革命などの問題であった。そこには人間の活動の自由と尊厳を今日いかにして守りうるか、あるいは奪回しうるか、といった切迫した関心が一貫していた。
アーレントの言う人間の活動とは、労働と市議とから区別された独特の意味であり、多数の人々の面前で人が言論を用いて新しい出来事を開始するという人間の卓越した創造的な働きを意味する。それと同時にアーレントは自らの哲学体系の構築に努力した。アーレントは問題の困難性を一身に引き受けるようにして、鋭敏な感受性と強靭な哲学的施策でもってそれらの問題と取り組んだ。生々しい政治的社会的現実と抽象的原理的思索との、格闘と相互浸透がそこにみられる。
アーレントの思想は、自分自身がなめた、そしてまた自分の属するユダヤ民族がなめた、今世紀の未曾有の過酷な体験を踏まえながら、他方ドイツ哲学によって培われた古代ギリシア哲学にまで遡る該博な知的素養を土台にしており、あくまで原理的であろうとする知的誠実さと、外的な組織や政治力などに一切依存せぬ思索及び生活の自立性とを大きな特徴としている。
アーレントは現実の困難な問題を回避せず、その中に身を置きながらその解決のために真摯に果敢に思索した独立の思想家であり、その生涯は現代における人間的活動の自由の獲得のために捧げられたと言ってよいであろう」(監訳者あとがき)
カントやアーレントのように思考できるだろうか。いや、思考するのだ。
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