読書ノート 「自由の哲学者 カント カント哲学入門『連続講義』」 中山元
まず、読み進める。
私の目的として、最終的には第十章「カントの政治哲学」を纒めたいが為に、この長い参照の連なりを書いている。カントへの希望、それは未来への期待。
第一章 自由の三つの概念
カントは、自由の概念は「思弁的な理性を含めた純粋理性の全ての体系全体の構築物の要の石となる」(実践理性批判)という。
自由の概念3つ 公的な自由、私的な自由、道徳的な自由
公的な自由…古代ギリシアのポリスのうちから出てきた。
古代ギリシアの市民の自由は3つの原則によって確保されていた。それは、イソノミア(法の下の平等)、イセーゴリア(発言の権利)、パレーシア(自分の真理を語る自由)である。
アテナイでは自由と民主政が緊密に結びつき、それがアテナイの力になっていた。
カントはルソーと同じように、市民は共和制の国家を樹立することによってしか、真の自由を享受することはできないと考えていた。
しかしアレクサンドロス大王による征服とヘレニズムの帝国とともに、自由はこのような意味を失っていく。
自由を享受することよりも、ポリスでの活動を強いられないことが重要視されるようになり、どこにも属さない、コスモポリタンが生まれた。自由は公的空間での政治活動への参加をせず、自分の私的な生活を享受できることを意味するようになっていった。
ここで重要なのは、この新たな概念とともに、政治的な活動に参加する権利という側面よりも、自分の生活を律する意志が、大きな役割をはたすようになったということ。
欲望を制限する意志、それがディオゲネスの自由の土台。
「選択」(アリストテレス『ニコマコス倫理学』)がほぼ「意志」に相当する。
選択=意志が、人間の性格を決定づけ、「徳」と最も緊密な関係にある概念。
「欲望は選択意志に反射的に対立することがある」
願望と選択意志は似ているが、異なるのは、選択意志は不可能なことには関わらないが、願望は不死など、「不可能なことにも関わる」
願望は目的に関わることが多く、選択意志は手段の選択に関わることが多い。選択意志は「われわれの力の範囲内にあるもの」のうちから自由に意志して、選択する能力。
プラトン…自由な人(欲望を制御できる)と僭主制的な人(欲望に支配される)。
エピクテトスは、意志は理性とは独立していると説いた。内面の自由の登場。
「私の意志はゼウスにだって征服できない」笑いながら死んでいく自由。
エピクテトスにおいては、意志は理性より強い。そして公的な自由とは関わりなく、自らの意志の力だけで私的な意志の自由を守ることができると考えられた。
パウロ(キリスト教創始者)においては、2つの自由、即ち、罪を犯す自由と神に従う自由。
意志の無力(人間は道徳的な善を目指す意志の自由を備えているのにもかかわらず、そのことを実行できない存在)→悪の源泉
「神はわれわれの悪しき行いの創造者である」(アウグスティヌス)
第二章 批判と自由
カント哲学は批判哲学
批判という方法
批判(クリティーク)は、切り分けるというギリシア語(クリネイン)から来ている。
分解する、腑分ける、区別する。選ぶ、取り出す。裁く。
カントは、哲学というものは、ある知識の体系を学ぶというようなものではないと考えていた。
哲学を学ぶことと、哲学することは違う。
「哲学的に思考するものは誰でも、いわば他人の廃墟の上に自己自身の仕事を構築するもの」
自由に思考することだけが、哲学の営みなのである。
「超越論的なまなざし」
「わたしは、対象そのものを認識するのではなく、アプリオリに可能な限りで、私たちが対象を認識する方法そのものについて考察するすべての認識を、超越論的な認識と呼ぶ」
「人間の魂は実体である」というドグマ。カントはこのドグマそのものを批判するのではなく、実体という概念がどのようにして生まれたのか、その概念は人間を対象を認識するために、どのような意味で役立っているのか、実体のような基本的で純粋な概念こそが、経験を可能にしているのではないか、と問うのです。
「超越論的な自由」自分の意志に従って行動する私的な自由
何が正しいか、正しくないかの判断のうちには、いかに行動すべきかという倫理の問題も含まれる。
自ら法則を定める能力、それが実践理性。
人間の道徳性だけが、人間の自由を証明する。
といいながら、人間は自由であるからこそ、道徳的な存在でありうる。
奇妙な循環がここにある。
「自由は確かに道徳的な法則の存在根拠であるが、道徳的な法則は自由の認識根拠なのである」それはこういうことである。
道徳法則が存在する根拠は自由であり、自由がなければ、道徳法則は生まれない。自ら行った行為に責任を持つ自由な存在者がいないところでは、道徳法則など生まれようがない
それが自由が道徳法則の存在根拠であるということ。
しかし人間が実際に自由であることを認識することができるのは、道徳法則が存在するからであり、人間がこの法則を自由に定めて、遵守するという事実のうちにしか、人間の自由は認識できないのである。
これが道徳法則が自由の認識根拠であるということ。
公的な自由の概念は、カントの第三批判である『判断力批判』ならびに政治哲学と歴史哲学の文章の中で展開される。
「啓蒙」とは、「人間が、みずから招いた未成年の状態から抜け出ること」
ドイツ当時の家父長的な国民への配慮のありかたを、カントは批判し、皮肉る。
考えるという仕事を他人が引き受けてくれる。
「公衆を啓蒙するには、自由がありさえすればよいのだ。しかも自由のうちで最も無害な自由、すなわち自分の理性をあらゆるところで公的に使用する自由さえあればよいのだ」
第三章 感性における自由
「感性なしでは対象が与えられないし、知性なしでは対象を思考することができない。内容のない思考は空虚であり、概念のない直感は盲目である」
ロックは、心、知性は鏡のようなもの
カントは、感性にも知性にも、経験に先立ってあるアプリオリなものが存在していて、それが経験を可能にする。
アプリオリな要素。形式。広がりや形。空間。時間。
自己統合意識の自発性
交差、交差配列、キアスム、統覚(アペルケプティオ)、自己統合の意識。
「私が考えるということは、わたしが心のなかで思い描くすべての像に伴うことができるのでなければならない」
自己を意識するときは対象を意識できないし、対象を意識するときは自己を意識できない。
「つねに伴うことができる」わたしの意識の超越論的な統一。
デカルトはコギト(私は考える)を考察する際に、外部の世界のすべてを懐疑の対象にして、存在していることが不確実なものとして切り落としていった。コギトはまったく空虚なものになった。しかしカントの自己統合の意識は、まず外部の対象によって触発されて直観によって知覚し、さらにその知覚する意識そのものに立ち戻って自己を認識するという形になっている。カントの自己統合の意識は、最初から他なるものを含んでいる。
時空間を結びつける役割を自己統合意識は持ち、それによって人間に認識における一定の自由を確保した。自己統合の意識は更に、感性と知性を統合する重要な役割を持っている。
第四章 知性における自由
認識の7つのプロセス
その一 心にある像が与えられる
その二 ある能動的な動きによって、「知覚する」
その三 その知覚した多様なものを「区別する」
その四 切り捨てる
その五 「理解する」=知性によって概念の力を借りて認識する
その六 理性によって「洞察する」
その七 「会得する」
判断を構成するのは概念である。
アプリオリなもの、純粋知性概念、すなわちカテゴリーである。
カテゴリーの特徴 ①カテゴリーは、経験に依拠したものではなく、逆に経験を可能にするもの②カテゴリーは判断を下す知性において働く③カテゴリーは「基本的な概念」④カテゴリーは一つの体系を構築していて、人間の認識のすべての領域をカバーする
カテゴリーの語を最初に使ったのはアリストテレス
「カタ(~に対して)」「アゴレウオー(告発する)」という意味のギリシア語から来ている。
実体のカテゴリー(1)と属性のカテゴリー(2-10)
実体(人間)、属性(量、性質、関係、場所、時、状態、所有、能動、受動)
カテゴリーは純粋でアプリオリ。「外から内」ではなく「内から外へ」という方向で、純粋な知性の概念を導きだす必要がある。その為には人間の判断の形式を考えることで可能になる。
全称判断(すべての人間は死ぬ)、特称判断(一部の人間は死ぬ)、単称判断(この人間は死ぬ)。
この判断では命題の内容は完全に無視されている。「判断一般について、そのすべての内容を無視して知性の単なる形式だけに注目する」ことで、判断における思考の機能を網羅することができる。
そして全ての命題は判断であり、判断=概念によって思考すること、判断の内容を捨象して、その形式に注目することで、基本的で純粋な知性の概念を見出すことができる、カントはと考えた。
アリストテレスはその全てを文で列挙する、と考え、カントはその論理的な形式だけに注目すれば、認識の領域をカバーできると考えた。
量…単一性、多数性、全体性
性質…実在性、否定性、制限性
関係…実体と偶有性、原因と結果、能動的なものと受動的なものの相互作用
様態…可能性と不可能性、現実存在と非存在、必然性と偶然性
カテゴリーは対象の側にあるのではない。
客観的な認識が可能になるためには、像が対象の可能性を作り出すと考える他にはない。
人間が認識するときには、対象を正しく認識して、対象の正確な像を形成しているのではなく、反対に、人間が心のうちに描き出す像によって、対象が作り出される(認識におけるコペルニクス的転回)。
認識しているものは、現象に過ぎない。
人間の認識が他の人々と同じ構造であれば、全ての人が対象を同じように認識することができる。そこに認識の客観的な妥当性が生まれる。
アリストテレス(人間は事物を正しく認識できる)、デカルト(明晰判断に覚知されれば、われわれは決して間違えない)、スピノザ(身体触発は誤謬を含む、多くの相違点や一致点を認識する場合は、明瞭判断を観想する)、ライプニッツ(デカルトの明晰判断を更に推し進め、区分し、単純要素に到達したときに、十全な判断になる)(十全な判断のうち、記号的な認識と直感的な認識を一挙に思惟できれば、それは真理である)などの西洋哲学の人師に木における伝統的な考え方を、カントは転倒した。
ドイツの作家、ハインリヒ・クライストはこの結論に絶望した。
カントは「認識の客観的な実在性」を提案した。
この転回を経たことで、真理の概念はもはや対象と認識の一致という古典的な観点から考えられるのではなく、人間の認識が他者と了解し合う事のできる間主観的で共同的なものとなるのはどのようにしてか、という新たな問いに変わっている。演繹。
根源的な自己統合の意識
超越論的な自己統合の意識
感性的な能力である想像力が、「認識に含まれる多様なものをすべて結合」する役割をはたし、この想像力に自己統合の意識が加わって、「想像力の機能が知的なもの」となり、感性と知性が媒介される。
自己統合の意識こそが、知性と感性を媒介する重要な役割をはたす。自己統合の意識はカテゴリーを可能にする根拠として、更に強い意味で人間の自発性を示すものであり、自由を示すものなのだ。
「(人間には)このような(時間と異なる自己直観としての)自発性があるからこそ、わたしは自分を(現象的な存在者としてではなく)叡智的な主体と名付けるのである」(カント)
第五章 理性の自由
理性の自由、誤謬推論
人間には、自然の因果律にしたがいながらも、みずからの判断で行為する自由があるはず。
超越論的な自由は、人間の実践的な自由の基礎になるもの。
「知性的な自由な選択意志または超越論的な自由な選択意志」である「自由」
二律背反(アンチノミー)、四つの命題
その一 時間と空間の限界
その二 世界には単純なものは存在するか、合成されたものしか存在しないか
その三 世界には因果律以外に自由意志が存在するか
その四 世界の内部もしくは外部には絶対的な存在者(神)が存在するか
ライプニッツ・クラーク(ニュートン)論争
ライプニッツは「時間と空間は無限」と主張(反定立命題)
クラークは「空間は無限であるが、世界は有限」(定立命題)
ライプニッツ「世界に単純なものはない」
ライプニッツ「我々は神の作った時計であり、神の意図のままに動いているのではないか」
カント「人間には二つの自由、実践的自由と超越論的自由があり」著者「道徳的な行為において人間が感性の衝動を抑えて行動することが可能であるためには、自然の原因に抵抗して自発的に行為する超越論的な自由が存在している必要がある」
定立命題と反定立命題は、同一事象を二つの異なる観点から眺めているものであり、どちらも正しいことがありうる。
人間は現象であるとともに物自体(純粋に叡智的な対象)である。
悪は必然ではなく、「理性をひとつの原因とみなす」ことで、非難する。ここでは理性が間違ったのである。
理性は必ずしも道徳的な行為だけを選択するわけではない。
理性の働きは、欲望の追求のために使われることもある。
夕食にお酒を飲みたいと思っても、それが有害であるとの見通しが立てば、これを控える。これは自由な選択意志。
理性は悪に近いことを選択するかもしれない。その意味でも、人間は神の時計ではない。
「自然の歴史は善から始まる。それは神の業だからである。しかし自由の歴史は悪から始まる。それは人間の業だからである」
感性は「したい」と望む
理性は「すべき」と語る
自己統合の意識の落とし穴。感性界と叡智界という区別は、カントの理論体系の根っこであるが、同時に最大の弱点でもある。この二つの世界は、カントは単なるアスペクト(観点)の違いであると繰り返し言うが、これら二つが実体化してしまう危険性が常に超越論的な客体や対象Xは、物自体や叡智的存在の別の顔だと考えることができる。そして超越論的な自己統合の意識は、この物自体につながる道となりうる。
フィヒテはカントの足らなさを批判し、カントと違い、人間には物自体を認識することのできる知的直観が備わっており、この知的直観は、純粋統覚。「知識学は知的直観から、即ち自我の絶対的自己活動性の直観から出発する」と主張する。このようにすればカントのように現象と物自体を分ける必要なはなくなり、人間は常に物自体として行動することになる。
フィヒテはモノローグ的な自由の哲学。しかしカントは他者に開かれた哲学。『純粋理性批判』では、超越論的な自由の概念を示すことで、人間の自由の可能性だけを確保することに努めた。人間が真の意味で自由になるには、この認識の場面ではなく、実践的な道徳の場面であるとカントとは考えたのである。
第六章 幸福と自由
人間は、超越論的な自由のもとで、実践的な自由を備えているとカントは考えた。実践的な自由とは、理性の命令のもとで、感性的な刺激に抵抗して行動する自由のこと。
この理性の命令には二種類のものが考えられる。実用的な法則と、道徳的な法則である。
実用的な法則では、人間が幸福になることを目指し、道徳的な法則では、人間が善になることを目指している。
実用的な法則のもとでは、理性は悪しき欲望の実現にも手を化す可能性がある。
道徳的な法則は、アプリオリに規定される純粋な法則。「幸福になるに値すること」
道徳的に正しく行動する世界、道徳的な世界。自己の自由と他者の自由と、あまねく体系的な統一を形成する、世界。
このような世界が成立するためには二つの条件が必要。①神が全てを統治する世界②人間の霊魂が不滅であること、すなわち来世が存在すること。
カントはこの来世をライプニッツに倣って「自然の王国」に対比して「恩寵の王国」と呼ぶ。
「幸福だけが、叡智的な世界の最高善」
『純粋理性批判』の段階では、霊魂の不滅と神の存在は、たんに目的の王国が実現するために必要な条件にすぎない。自由はたんに可能であるだけで、理念のままであって、客観的な実在性を持たない。カントにとって神と彼岸の永遠性が「おそるべき威厳をもって、絶えずわたしたちの目の前に存在する」ようになるのは、『実践理性批判』において、自由が確証されるようになってからのことである。
『道徳形而上学の基礎づけ』で、幸福と道徳を明確に分離する。
自由の根本的な能力は、自らに法則を定めることのできる自律にあるとされる。
仮言命法(実用的)と定言命法(道徳的)
実用的な法則は経験的な性格
道徳的な法則は経験からまったく独立している
実用的な法則→熟練命法→抜け目のなさ命法→想像力
道徳的な法則→絶対に必然的な形→理性
「べき」と「欲する」
定言命法とは「いかなる条件にも制限されず、実践的な意味で必然的であるだけでなく、絶対的な意味で必然である」もの。
定言命法が表現するのは、人間の自己支配としての自律であり、それが完全な自由だとカントは考える。
他律の原理は、道徳の原理にはなり得ない。
自然な感情に基づく他律の原理。有徳動因と悪徳動因を同じものとして扱い、これら動因の種的な違いをまったく消滅させてしまう、道徳性の確立には貢献できない。
道徳的な感情に基づく他律の原理。感情を原理として認めることはできない。
人間の完全性の原理。循環話法に陥ってしまっている。
神の完全性の原理。これも同じく循環話法に陥ってしまっている。
命法は、法則と行動原理で構成される。
法則とは、すべての理性的な存在者に妥当する客観的な原理。
行動原理とは、この客観的な原理に従って行動する際に遵守する主観的な原理。
定言命法定式1「君は、君の行動原理が同時に普遍的な法則となることを欲することができるような、行動原理にだけ従って行動せよ」
人格は目的そのもの。客観的な目的。
定言命法定式2「君は、自らの人格と他のすべての人格のうちに存在する人間性を、いつでも、同時に目的として使用しなければならず、いかなる場合にも単に手段として使用してはならない」
定言命法定式その3「自らを普遍的に立法するものとみなすことのできるような意志の行動原理に従って行為せよ」
自律とは、自らの意志において、自らに法則を与え、自ら立法した法則に自ら従うこと。これにより義務は内的なものとなる。この義務は、ルソーの社会契約と同じ性格のもの。
目的の国「この国では理性的な存在者は、誰もが自分自身と他者を決して単なる手段としてだけではなく、むしろ同時に目的そのものとして扱うべきであるという法則に服従することによって、統一した集合体を形成する」
善き意志を持つもの
『実践理性批判』では、人間の自由が単なる理念ではなく、事実として認められるようになる。カントはこの自由を、『純粋理性批判』のように超越論的な自由として提示するのではなく、道徳的な判断を下す実践的な自由として確立する。『純粋理性批判』では超越論的な自由が実践的な自由を根拠づけるとされているが、『実践理性批判』では反対に、実践的な自由が超越論的な自由を根拠付けることになる。
第七章 人間の道徳と自由
倫理学におけるコペルニクス的転回
「われわれは物を善と判断するがゆえに欲するのではなく、反対にわれわれの欲する物を善と呼ぶ」
自由は「道徳的な法則の存在根拠」
「道徳的な法則は自由の認識根拠」
自由と道徳が存在根拠と認識根拠となって、たがいに根拠づける。
道徳的な法則がまず登場し、それによって初めて、自由が認識される。
意志の、遵守の自由と自律の自由。
定言命法修正「君の意志の採用する行動原理が、常に同時に普遍的な法則を定める原理としても妥当しうるように行動せよ」(『実践理性批判』)
二つの理性の自由。①欲望の対象に依存せず、意志が決定する消極的な自由②実践的な理性が自ら法則を定める積極的な自由
この理性の自由のもとで、道徳的な法則は人間にとって「経験的な事実ではなく、純粋理性にとって独特な一つの事実」として現れるとカントは強調する。
これが「理性の事実」。自己立法する実践理性の意志の自由は「事実」として認めるしかないものだから。
ヌーメノン(叡智界)とフェノメノン(感性界)を同時に生きている。
「神の時計」(ライプニッツ)「ネジを巻いて動く操り人形」「思考する自動機械」をカントは明確に否定する。
人格性の存在。尊敬と聖なる法則。義務。
義務が「崇高で偉大」であるのは、「聖なる」道徳法則への服従を命じることによって、人間が自らと他者の人格性を目的として扱うようにさせるからである。
「何時の隣人を愛せよ」この掟が命じているのは、「愛すること」ではなくて「愛を命じる法則への尊敬を求める」ことだけ。
義務こそ「あらゆる傲慢さと、虚栄心の強い自らへの好意を打ち砕く」もの。実践的な純粋理性はこの「義務の思想を、人間におけるすべての道徳性の最高の生命原理とするように命じる」。カントはこの義務の思想こそが、人々の誤謬を正すために役立つと考える。
道徳的な法則を尊敬するということは、「わたしたちは自分の価値のなさ冷酷につきつけられる」という不愉快なこと。自由と隷属の奇妙な逆説がそこにある。
最高善とは、「最上であること」「完全であること」
「わたしたちの人格における人間性は、わたしたち自身にとっても神聖なもの」人間の自由な意志こそが、人間を神聖なものとする。これが『実践理性批判』の結論である。
第八章 人間の判断力と自由
「自然の根底に存する超感性的なものと、自由概念が実践的なものとして含んでいるところのものとの統一の根拠が必ずや存在しなければならない」それが、知性と理性を「つなぐ中間項」としての判断力である。
二つの判断力
規定的な判断力…普遍に特殊を包摂する
反省的な判断力…特殊だけが与えられ、判断力がこの特殊に対して普遍を見出す
自然は極めて多様であり、そこには質的な法則が存在している。判断力の役割は、自然の統一と秩序を、知性が認識できるための超越論的な条件を考察することと言える。
判断力の二つのアプリオリな原理
自然の目的、快と不快の感情、合目性の概念
目的とは、「ある対象の概念が、同時にその対象の現実性の根拠を含む」こと
アリストテレスのエンテレケイア(完成態、完全現実態)の概念に近い
判断は合目性を原理とする。
『判断力批判』の二つの構成
美学的判断力と目的論的判断力
内的な合目性と相対的な合目性
判断力と自由の結びつき
三つの適意(快不快)の判断
快適さの適意、善の適意、美の適意
美的な判断は「無関心的でかつ自由な唯一の適意」
美は人間の自由を象徴する判断
普遍性。ほとんどすべての人に共通する快適さは存在する。しかしそれは相対的な共通性にすぎず、人々が経験によって獲得するような「一般的な規則」にすぎない。
善は有用性によって判断される。野菜は人間に不可欠な栄養素をもたらしてくれるもので、健康にとって善である。これは普遍的に妥当する。
美を感受するするときには、想像力と知性が自由に戯れていることが絶対に必要。ここに美と自由の結びつきがある。これは趣味判断における量のカテゴリーでの結びつき。
目的のない合目的性「自由にかつそれ自体だけでわれわれに快い」これは趣味判断における関係のカテゴリーでの結びつき。
カントの共通感覚
思考の三つの主観的な原理
第一が自分自身で考えること、第二が自分自身を他者の立場において考えること、第三がつねに自分自身と一致して考えること。
他者との自由なコミュニケーション
「この花は美しい」という時、
第一に、他者にこの花が美しいということについて同意を求めている。
第二に、自分が共同体の共通感覚を有していることを他者に示している。
第三に、自分が利己的な利害を離れた判断をすることができる洗練された人物であることを他者に伝播し、他者とともに、この洗練された文化の世界を構築することを呼びかけている。
第四に、自分が自律的な判断を下す自由な人間であることを他者に誇示している。この判断を下す自分が個人的な利害から自由であり、共同体の中で他者とのコミュニケーションを楽しむ自由な人間であることを示しているのである。
これは様態のカテゴリーに結びついたもの。
プラトンは美しいものは美のイデアがあるから美しいと考え、美は人間の主観性とは独立したものであった。美学という言葉を作ったバウムガルテンですら、美というものは素材の持つ美的な完全性と主体の側の美的な鑑賞能力の完全性の両方が備わったときに感受されるものだと考えた。
これに対してカントは、美というものがそれを感受する人間の側にあるものであること、社会の共通感覚が人間に美という感覚を生み出させるものであることを明確に示した。
崇高さ。力学的な崇高さと数学的な崇高さ。
カントは地震などの天変地異を崇高なもののひとつに上げている。
「凄まじい破壊力を存分に振るう火山、通過したあとに惨憺たる荒廃を残していく暴風、怒涛の逆巻く際限のない大洋、おびただしい水量をもって中空に懸かる瀑布」は「人間のこころの力を日常の平凡なあり方を超えて高揚させ、まったく別種の抵抗力をわれわれのうちに顕わにする。そしてそのことがわれわれに、みるからに絶大な自然力に挑む勇気を与える」ものとなる。
自らが原因であり結果であるということは、自己を再生産しているということ。自然も再生産を繰り返す。
生物の最終目的は、種の保存と再生産である。
何のために生物が存在しているか。「かかる自然的存在者が実在する目的は、この存在者のうちにある」「自然の究極の目的はこの自然的存在者の外にあるところの別の自然的存在者のうちにある。換言すればこの存在者はなるほど目的に適ったものとして実在するが、しかし究極の目的としてではなくて、同時に必然的に手段として実在する」
人間の目的。それが幸福にあるとは考えられない。自由な心的な適性を作り出すこと、心の開発が人間の目的となると考える。
熟練の道と訓育の道
「自然は人間に次のことを望んでいる。即ち人間は動物としてのあり方を定める生物学的な配慮に含まれないすべてのものを自ら作り出すこと、そして本能とはかかわりなく、自らの理性によって獲得できる幸福さや完璧さだけを目指すことである」
カントは人間が完璧さに向かって進歩するのは、この「互いに妬み、争いを求める嫉妬心」に動かされた非社交的社交性の力であると指摘する。これは、ルソー『人間不平等起源説』を裏返した主張。
ルソーはこの妬みのようなものは、人間の利己愛から生まれるものであり、これが文明の発達に寄与したのは確かだとしても、同時に文明のもたらす害の原因になったと主張した。
カントはこれが悪の原因であることを認めた上で、それが人間が完璧な存在に近づくための鍵となったと考える。カントは「ここから多くの悪が生まれる一方で、これが様々な力を新たに刺激して、自然の素質がますます発展するようにしているのである」と指摘する。
これは「賢き創造主がこのように手配してくれた」のであって、自然の配慮なのである。
利己愛が人間の進歩を促すという考え方は、カントにおいて初めて姿を示したものであり、後にヘーゲルはこれを「理性の狡智」と呼ぶようになる。
アーレントはカントの政治的な文章よりも『判断力批判』こそ、カントの政治哲学が展開された重要な書物であると指摘している。
第九章 カントの宗教哲学─悪と自由
カントの宗教哲学
リスボン地震までは、西洋思想界で主流だったのは、ライプニッツのオプティニズム、世界は善であるという考え方。
ヴォルテールはこの風潮に反発する。「地上には悪が存在する」
ルソーの反論「すべては善であるとは言えないにしても、すべては全体にとって善である」
悪は、利己愛から来る。
行動原理の選択という人間の自由のうちに、悪の起源がある。
カントにとって興味があるのは、悪人ではなく、善人であるように見えながら、ほんとうの意味では善人とは言えない人たちなのである。
悪の吟味
根源悪
脆さ、不順、腐敗
困難な「心構えの革命」
キリスト教における、神のへりくだりとしての受肉、奇跡、償い
自由な信仰を自由に語ることによってしか、倫理的な公共体は実現できないというのが、カントの宗教論の結論。
第十章 カントの政治哲学
人間は悪でありながら、国家を形成することができる「悪魔の国家」の比喩
人間の間には、個々人の道徳的心情や反道徳的な打算などからは独立した「自然のメカニズム」が働く。
人類の歴史にはひとつの規則性が存在している。
「自然の意図」
アダム・スミス「神の見えざる手」を想起させるような「自然の意図」
ヘーゲルはこの概念を受け継いで、「理性の狡智」という概念を提示する。
「被造物のすべての自然な素質は、いつかその目的にふさわしい形で完全に発達するように定められている」「かかる種類の被造物が損傷をこうむった場合には、自然の自己救済が行われる」
人間の自然的な発展の思想。「秩序と規則を与える」仕事を、自然に任せるべき(ルソー)。
「自然の節約」(カント)。自然は、動物には様々な道具(牙や角など)を与えたが、人間には節約して、ただ理性だけしか与えなかった。人間が本能ではなく理性を働かせることで、「内的な思考が完璧なものとなり、これによって地上で可能なかぎりもっとも幸福な状態に高められること」を望んだ、という。
そのためには人間は、類としてこの目的を実現するにすぎず、一個人では不可能。しかも「幸福を享受するのは、ずっと後の世代になってからであり、それまでの幾世代もの人々は、その意図はないとしても、この計画を進めるために働き続けるだけで、自分たちが準備した幸福のかけらも享受できない」。
人間には社会を形成しようという傾向が備わっている。
「人間は生まれながらにポリスのうちで生きる動物」(アリストテレス)
同時に人間は反社会的な傾向を備えている。
孤独を求めようとする、他者を支配しようとする、他者よりも優越しようとする欲望を持つ、富を所有、独り占めしようとする欲望。
「すべての悪習は、才能の差別と徳の堕落によって人間の間に導き入れれた呪うべき不平等から生まれる」(ルソー)
カントは、この支配欲のようなものが不可欠と考える。これは自然が人間のうちに植え付けておいたもの。これは社会的な進歩のための必須条件なのである。
「人類が自然によって解決することを迫られている最大の問題は、普遍的な形で法を施行する市民社会を設立することである」これが国家の樹立であり、自然の目的である。
小さい悪魔たちは常に他者からの攻撃に怯えていなければならない。故に人民は公的な共同体の内で自由を享受するために、それまでの無法則な自由を放棄したのである。
カントは自由の放棄と再受領に重点を置いている一方で、ルソーは人格と財産の保護に重点を置いている。
カントの考える国家。国民主権。三権(統治権、執行権、司法権)分立。
公民的な自由、平等、独立が国民の本質的な特徴。
カント・ルソー「(立法者である)人民の統治者は、同時に元首であることができない」
元首は法則のもとに立ち、この法則によってある他者、つまり主権者によって義務を課せられるからである」(カント)
「この権力は個別な行為にだけ関わるものだからであり、個別な行為は法律の規定する範囲にはないし、主権者の権限の範囲ににもない」
「政府は主権者ではなく、主権者の召使いにすぎない」(ルソー)
政体論。ルソーはその執行権を占める人の数で古来の伝統に則って区別する。曰く、国民の全体が執行権を持つときは民主政、一部の少数が持つときは貴族制、個人が持つときは王政。カントは統治方法で区別する。曰く、統治権が立法権と分離されている共和制と、国家自らが独断で執行する専制。
共和制の国家は正義の国家であるべきである(カント)。
カントは革命を三つの留保で否定し、国家が自然状態に戻ることを防ぐ。
人民の消極的な抵抗から革命へ発展する。
カントが肯定しないのは、元首の処罰。
「人類の歴史の全体は、自然の隠された計画が実現されるプロセスと見ることができる。自然が計画しているのは、外的に完全な国家体制を樹立することであり、しかもこの目的のために外的にも完全な国家体制を樹立し、これを人間のすべての素質が完全に転回される唯一の状態にすることである」
「完全な市民的な体制を設立するという課題は、諸国家の対外的な関係を合法的なものとするという課題を実現できるかどうかにかかっている」
自然状態の元にある国家(非社交性にもとづく)はどうなるか。戦争状態になる。
戦争は人類に悪をもたらす。まず、人類の目的を害する。そして戦争は人格を否定する。そして判断の審級を持たない国家は、その勝敗に、暴力に隷属する。
しかし、逆説的に、戦争の悪は必要悪であると言える。戦争の予期せざる効果として、文明の多様性が生まれた。また、国際的な連合を作り出すための基盤となる。そして国家の自由を維持する(強力な世界王国の統一では、魂のない先制政治が生まれ、法が無力化する)。
戦争はいわば、弁証法的な働きをすることになる。
国内の市民的な体制は、必然的に世界市民的な体制を要請する。
自由の抑圧は産業の不振につながる。
啓蒙の重要性
啓蒙は国内に自由な精神の広がりを保証するだけでなく、抑圧的な国にまで広がって、その国において人々の自由を拡張し、やがては世界市民体制への歩みを進めるために役立つはず。
よろしければサポートお願いいたします!更に質の高い内容をアップできるよう精進いたします!