つぶやき2024.9.1-9.29
智に働けば角が立つ
情に棹させば流される
意地を通せば窮屈だ
とかくに、人の世は住みにくい
- 草枕(夏目漱石)
アンガーマネジメントとは6秒我慢する前に相手を殺すことだとツトム君(14歳)に教わりました。
スーパー、珈琲豆買いに行ったら豆の量が大幅に減。実質値上げ。
インバウンドっていうけど、海外より日本が貧しいだけだよね。
お金があれば全て解決できることが、お金がないので問題山積である。絶対金持ちの方が人生楽だよな。人生一回こっきりと考えると、あまりに思うようにならなくて、しょうもな。と思う。
アップルのダウンロードが多いと先ほどまで家族会議にかけられました。
人生において果てしなく遠いものとは何か。
給料日までの道のりである。
地球復活の日(給料日)まで7日。
MARCOS VALLEのニューアルバムほちい。
アホかっちゅうくらい新譜が出よる。
欲しいレコード沢山あれどお金無くて買えないこんな世の中じゃポイズン。
おこづかい制なので、月末苦しいと1000円のものも買えない。(ちなみに、奥さんにはそこまでひもぢい思いはさせてない。)
インスタで音楽を検索していて偶然上位に上がってきたのだが、ボカロやってる中国のplemowebって人良い。
mixリスト。ゆるめのmixをしてみました。
CDプレイヤーはない。
ダウンロードだけで済ますには内容良すぎるのでCDおさえといた。アナログ発売になった時もチェックはしてたので買えば良かったと後悔先に立たずだが、CDすら中古市場価格上がってきている。(安めで見つけた)
ちなみにCDプレイヤーはない。
なうすぴにんぐ。
待望のレコードが届いた。本日は在宅勤務。
わたしは何もしていませんが、奥さんが独身時代から使っていた米軍払い下げのキャスターを引き取ってもらいました。
久しぶりにハンバーグ。美味しかった。
#飯テロ
今日は奥さん出かけていたので鯨などを食べました。
人生なんでこんなことになるのかな。ということばかりである。
人生一難さってまた一難というか、隙があったらミルフィーユみたいに重なってくるよね。
果報は寝て待てというが、寝て待ってて良かったことなどほとんど記憶にない。
わたしも何かしらの才能はあるが、欲しい才能があるかというと案外無い。
そう言えば、10年前くらいには宝くじを買っていたように思うのだが、もう全く興味がない。10億円当たるくらいじゃ喜べないというか、人生わりに合わない。
マズローのピラミッドみたいなやつ。うちの奥さんは納得しているのか時々話を引き合いに出されるのだが、わたしは本来人の価値観は人によると思っているので、価値観どころかもっと根源的な欲求というものを階層化して順位づけてこっちの方が高等とかやってること自体が好きになれない。
我が家はカースト制がしかれており、順位は、奥さん、猫、猫、わたし。で、最下層を担当しております。
人類、すぐ天命とか言いたがるが、そんなもんアテにできないし、あってもロクなもんじゃないので。
人間とは、自分がしたくないことにはどこまでも甘えるくせに、他人の甘えは許せない生き物である。
頑張ってるったって、できることや、したいことだけだよね。
したくないことをしているという人もいるかもしれないが、それは我慢できるしたくないことをしているのである。
我慢できないしたくないことをしているのなら、それはそれでどうかと思う。
何度も言うが、多くの人間は、自分が我慢してやっている(或いはやらない)ことを、他人がやらない(或いはやる)のを見ると感情的になるのである。そう言う意味でも、我慢は毒になることがある。
では、我慢をしなければ良いかというと、自分とは違うタイプの人間ばかりの社会で生きていくのは困難になる。
合わない人間をシャットアウトし続ければ最後は1人になるしかないし、我慢ばかりして自分を殺していたら精神を病む。
糞の世の中でタフに生きていくには、気晴らしやガス抜き、つまり自分を誤魔化して深刻化しないようにするのも大事なのである。
力があったら幸せかというと、それはわからない。 ええい、全員首をはねい。とか、力がないから言ってシャレになるのであって、ほんまにその力があったらシャレで済まない。
人にこうした方がいいよ。って、まあ、助言しない方が大抵良いと思うんだけど、したくなっちゃうのも人情なのかねえ。まあ、その助言が、その人の可能性を広げてくことなら感謝されることもあるかもしれないけど、クローズしてくことばっか言ってたら、嫌われてるだけだと思うよ。
社会には色んな人がいるし、生きていたら色んなことがあるので、ちょうどよく生きるのは難しい。が、しかし、ちょうどよく生きようとしなければ、よけいに色々な問題が起こるのである。なので、よい塩梅で暮らすことをこうしておすすめしている。
しかし、何がちょうど良いと思うかは人それぞれである。わたしはこれがちょうど良い感じだという感想は漏らしたとしても、その価値観(絶対的なもの)を押しつける気はさらさらない。
ツイッターの頃から、暇に任せてこうして提示しているのは、こういう考え方もあるよ。という考え方の提示であって。わたしはこんな考え方しますよ。という一つのサンプルである。細かなやり方まで指定する気はないし、こうしなさいと命令する気もない。
だいたいそんなに人に興味がないので、わたしに迷惑をかけない限り勝手にすればいい。金なら欲しい(きっぱり)。
何か上手いこと言おうとしたり、仕事がうまくはこんでいる時ほど、かわいいとこではバッテリーが切れたり。ほんとに嫌がらせかというようなイベントが1日に何べんもあるので、人ならずものか、わたしはこの世界の何ものかにかなり嫌われていると思う。 しかしまあ、日本は多神教で八百万の神さまの文化の中にわたしは生まれたので、捨てる神あれば拾う神ありと、何ものにかは愛されているとも、また感じている。 まあ、みんな勝手に好かれたり嫌われたり、そんなもんだ。どのみち人生は糞ゲーなので、みんな生きやすいように、そんなことくらい都合よく考えたら宜しい。
人間は勝手に期待して勝手にがっかりする生き物である。
人は一生のうち何度歩いているうちにうんちを我慢するのだろう。
ついこの間の昭和まで宿便というものが信じられていたりした訳で、人が常識と信じているものなんていい加減だと思う。
この扉を開けると、あなたは二度と過去には戻れません。 。。。普通の扉やんけ!
メンタルやばい系とか陰謀系の人は、ちょっとした偶然や、ふと聞こえた言葉尻に、無理から妄想をこじつけて妄想を真実にしたいみたいな真理が働いているように観察されるのだが、それってもともとは、現実がやだってところから派生している気がして、自分でもはっきり確認できていない(と思われる)ことを根拠にこの世が自分の反理想だって偽証を積み上げていく先に幸せがあると思ってるの? 確かなものを信じたいはずなのに、不確かなもので世界を捉えたがっているのでは?
陰謀説にハマる人は、もともとは優しいというか、心があるというか、つまらない言い方をすると正義感のある人なんじゃないかな。もともとは、そんな酷い話あるか、許せない。ってとこからスタートするんじゃないかと思う。けどね。その酷い話自体が嘘なんだよ。ちょっとは真実の出来事を引用していたりして、そこに信憑性を感じてしまうのかもしれないけど、大きいストーリーが大嘘。枝葉に気を取られていると木全体や森の形が見えないというやつ。で、枝葉に取り囲まれているうちに、信じているのは嘘ばかりになる。この言葉を聞いてすら、余計ほんとより嘘を強く信じるのかもしれない。 トランプを応援している人の実に半数が陰謀説を信じていた。とそんな見出しがネットニュースの見出しになる時代だ。ほんとに糞食らえだよ。
わたしも妄想はむっちゃするのだが、妄想を真実として信じない(妄想でものごとを確定しない)ようにしている。妄想は薬にもなるし毒にもなる。つまり創造のために役立たせるも自らの目を見えなくするも自分次第である。
書いてあることをその通りに読めるって人、意外と少ない。連想した私見にひっぱられる人の多いこと。
わたしは青年の頃くらいまでほとんど嘘をついたことがなかったのだが、嘘をついて自分を守る必要のない恵まれた環境(親)の元にいたからだと、歳をとってから思う。
他人に厳しい人ほど自分が成ってない。
だいたい、自己中の人しか権力を持とうとしないし、権力の下にいると楽という性格でもないので、権力構造の中に少なくとも私の幸福はない。
令和のルール。
完全にアウトなのにアウトにならない。
兵庫県知事の話を例にとると、人の自己認識のずれってすごいでしょ?
1ミリのズレも直らないよ。
人間関係は一線を超えたら一生リカバリーできないのが普通です。
不機嫌でコントロールしようとするタイプみると殺したくならない?なるよ。
羽賀研二は懲りなさがネバーエンディングストーリー。
ほんとにいけてない人って、飛んで火に入る夏の虫か?ってくらい、いけてない方へいけてない方へ行くので、そういう人に期待してもストレスが増えるだけだよ。 これは自分でもまさかと思ってたけど、何べん繰り返そうと300%以上の確率でそういうものみたい。 びっくりするよね。例え逃げ道が用意されてても火に飛んでくの。虫。虫なの?
ネイティブ・アメリカンの言葉に、寝たふりをしている人を起こすことはできない(大意)という言葉があるが、聞こうとしていない人に何を言っても無駄だし、見ようとしない人に何を見せても無駄である。すごく優しい言い方をして、その人にはまだ準備ができていない。親族だとか、見捨てたくない人なら、時期が来るのを気長に待つしかないかもしれない。 とにかく、自分が悪いのに、自分が悪いと認められないうちは、何をやっても一切合切駄目というのが、わたしが世界を観察した結果の持論である。
芸能ニュース人を貶めたい呪いが強すぎて読みたくない。
生きててもろくなことないな。と思うのが、この数年間で好きなものがすごい速度で無くなっている。個人的に。
生きるのが
めんどくさいと
弱音吐き
ダダをこねても
やってくる朝
#短歌
どうして人間はどうしたって糞なもんを自分に都合よく解釈するのかね?
わたしは毎年確定申告をしているが、年末調整があるおかげでかなりの手間を省けている。年末調整はありがたい。 河野太郎は果たして自分で確定申告をしたことがあるんだろうか?やったことないから、こんなに国民に負担をかける政策ばかり打ち出すのかね? こういう人が1番政治をしてほしくない。
河野太郎のせいで、90歳を超えた母親のマイナンバー手続きを、わざわざ休みを取って田舎までしにいかなくてはならないようだ。 河野太郎迷惑なことしかしない。
自民党誰が頭になろうと宗教右派系ずっぽしなんでしょ?
高市早苗は、右派なのと、少なくとも数年前まで忍耐力が無かったのが不安要素だろう。
石破さんは、自民党の中ではかなり頭のつくりがマシだが、少々軍事マニア感がある。
自民党の総裁選のニュースばかりだが、一生自民党に投票する気はないので。
高度に発達したドナルドトランプは陰謀説信者と区別がつかない。
高度に発達したイーロンマスクは陰謀説信者と区別がつかない。
人の評判を下げておいて相対的に自分の価値を高めようとするタイプの人間の思考プロセスが馬鹿にしか思えなくてそういうの見るのがほんと嫌い。馬鹿のくせに偉そうだし。まあ幼少期から育ち(教育)がほんとの意味で悪かったんだろうけどね。わし、ほんとの意味で育ち(教育)が良かったから見ててほんとうんざりする。
人格が狂ってる人を要職につけると、大きな地獄を生むし、何年もダメージを引きずるよね。
経済をはじめとして、人格が狂ってる人による損失ってものすごいんだけど(時には命が失われる)、人類全体として、全く懲りてないよねえ。
若い頃は気づいてなかったけど、歳とって感じるのは、世の中人を見る目のない人の方が圧倒的に多くてびっくりする。
人類、これだけ人間の数多いのに、考えることがつまらなすぎてうんざりする(少しはおもろい人いるけどほんま少ないよ。)例えばどう転んだら戦争っつうつまらん発想になんねん。どう転んだら詐欺みたいな発想になんねん。センス悪すぎて人類滅びろと思うわ。
要するに、社会のシステムを、人間とか理だとか面白いこととかわかってない人生の童貞みたいなやつが作っていて、国民はそんなことにも無関心か、不平不満を並べてストレス発散してるだけで、他人なんてほんとはどうでも良くて自分のことにしか興味がないんでしょうなあ。
そりゃ俺も有能な人には素直だよ。
ストレスないもん。ほんとに有能なら性格曲がってないし。
有能そうに見られてて、実はパワハラで人にやらせてるだけ。って人がタチ悪い。その上がそれチェックしてなかったりね。
常識を大事にするか?と言ったらある程度大事にする。 この世界(人間社会)は約束事の上に立っているので、ある程度客観的に信用できる(多くの人にとって違和感のない)約束事がある方が、困ることが少ない。些細なことをいちいち考えなければならなかったら、大切なことにかけられる時間が少なくなるし、逆にたまにしか起こらない有事に法がなかったら、それこそ人は路頭に迷うことになりかねない。 もちろん時代により、約束事とすべき常識は変わっていく。この約束とすべき常識がほんとに常識としていいものか。今より先の社会を明るくするために、常識をよりよくしていく。それが本来の法治国家である。誰かの利権が常識になって良いわけがない。
まあ、不正というのは良くないが。
ちょっとしたズルとか嘘とか。許せないー、キーキー。というのも過敏すぎるのかもしれない。そういうのはたぶん。罪の重さに比べて、反応する人のストレスがすごーく溜まってんのねー。って気がする。全く嘘を許容出来なかったら、世の中で付き合える人、1〜2割と思うし。
一方で、ズルしたり嘘ついたりのコツって、誰にも分からないように完全にやり抜く(女子風に言うなら、騙すなら最後まで騙してよ。というやつ)か、逆に、ズルとか嘘とかみんなわかってんのにそれを上回る何か(例えばユーモア)で欠点をプラスで上回っちゃうことかな。と。
重大な悲劇的なズルや嘘とかはそもそもアウトやろけど。バッドエンドは笑えない。1番嫌いなんは、整合性のとれない嘘をいつまでもつき続けるやつ。人を傷つけてもそれを改めない。その無能ぶりと反省の無さにイライラする。
だいたい、必要があるならその嘘を誰にも告げず墓場まで持ってけるやつしか、本来嘘をつくには向いてない。
ついた嘘をパーフェクトにつきとおせないなら(並の人間にはできないし、シェークスピアの戯曲みたいに嘘が明るみに出る方向のイベントが起こる。この世は意地悪なので。)、正直に生きるのが1番問題がないし、1番簡単である。正直な人って、結局、正直が1番楽だってわかってんだと思う。嘘つく人よりよっぽど大物だし頭いいと俺は思うよ。
落語の世界とか、芸の世界では特に、型を破るのは型をマスターしてからと言われているようだ。 常識を破れ。というのも同じで、常識をわかってはじめて、良い意味で常識を超えていけるのである。 常識を破れ。とは、悪い意味で非常識なことをして、人様に迷惑をかけろ。という意味では決してないので。 今日を超えたより良い明日を掴め。という意味なので。どちらかというと、次の時代のスタンダードを作れという意味なので。 くれぐれも勘違いして良識ある人をこけさせないように。
自分が負けず嫌いかどうか?うーん、どうでしょう。 うちの奥さんは、堅物ではないが、時折仏教の修行僧か?というようなことを言う人で、人に負けるかは気にしないが、自分に負けるのは嫌だという。ポーズで言っているのではなく、これマジのやつである。見てればわかる。 わたしはというと、幼少の頃より、人との勝負ごとには全く関心がなかった。運動会など初めからどうでも良いのである。フォークダンスで好きな子と順番が回ってくるかの方がよっぽど重要である。社会人になっても、人と競争と聞くと、やれやれ下等生物が。と内心思っていた口である。自分に負けるのがどうかというと、これもまた案外どうでもいい。勝つ時もあれば負ける時もあるよね。とどこまでも甘えたい。 が、何だろう。すごくクリティカルな大切なこと。ここは譲れないな。と思うことについては。別に勝たなくてもいいのだが、負けたくない。ってのは、ずっとある。別に引き分けでいいのだが、負けたくない。相手が誰でも、自分でも、それこそ神でも悪魔でも負けたくない。勝たなくても良いのだが、絶対引き分けに持ち込んでやる。と思っている。 まあ、負けず嫌いではあるのかな。
三代目魚武の詩に、女性との恋愛において、俺は引き分けにする方法を知っている(大意)というのがあって、1番好きな詩だったのだが(その割に正確には覚えていない)、あれも、根っこのところで自分と共通するものを勝手に感じた。数十年も前の話だが。
わたしは少なくとも自分にとって当たり前と思うことしか言えない人間なのだが(いや実を言えばそんなこともないのだが当たり前のことを言うべき時に当たり前のことを言いたいだけの人間なのだが)、世間には嘘がはびこり、昔だったら道徳的にやらないような非人道的なことがまかり通る(正確にいうと昔から非人道的なことは同じようにあったのだが、悪い奴らが結託するなどして、ここまでシステマチックに大規模な犯罪をすることはなかったと思う)ようになってしまったので、言わんでもわかるやろ。ではなく、当たり前のことを、改めて、わかりやすく、なぜかという私見も含めて、SNSに言葉を残した方が良いのかなという気もしている。なぜなら、暇だから。
今年のイグノーベル賞はアルゴリズムに贈られるそうです。おめでとうございます。
インターネットの世界を健全化するのは、やろうとすれば案外簡単なのではないのか。 つまり、閲覧数による収入を世界的に一切法律で禁止する。破ったものは罰金。 システムの修正にかかる費用も格安だろう。 そもそも閲覧されただけでなぜ金が入るのか。広告としての品格もない。品格がないから、インチキと偽情報ばかりになるのだ。
全ては愛で繋がっているという人をミュートした。
Xの治安がどうのスレッズの治安がどうの他のSNSはどうのというが、潜在的に分母(人間)は同じなので、あとはアルゴリズムの設定の話になる。
ツイッターにしても、スレッズにしても、SNSで見られるかどうかは、いいこと言ってるかとか面白いかとか言うことよりも、特にこの1,2年はアルゴリズムに引っかかりやすいかが全てになってる感があって、それについてまわる嫌らしさも含めて、イマイチ技術としてまだまだいけてない感を感じる。
将棋がなぜAIにハマっていたかというと、前提となる条件(最初の駒の配置と駒の動かし方)が完全に決まっていることと、学習するための材料(成功例や失敗例のデータ)が膨大にあったからだろう。 プログラムも学習を積み上げたデータの中から勝つ(負けない)確率の高い手を選択し続ければ良いのでシンプルである。 色んな条件がAIにピッタリというか、AIにできること(得意領域)だけで、将棋というゲームは構成されている。 逆に言うと、今の技術では、AIの苦手領域も存在してるんじゃないかな。まあ、その内、違う方法論により克服されるのかもしれないけど。
そう言えば、AIの実用化が検討されていた頃、シンギュラリティという言葉があったが、今現時点においてどういう状況なのか。こういったことは、変化の中にいる当事者にはわからないものである。例えば、戦争はいつ始まったのか。こういったことは、既に変化が起こってしまってから、過去を振り返って、変化の大きかった特異点を見つけて、あの時戦争が始まったのだ。とかやっているのである。それが歴史というものである。
だいたい人間同士が喧嘩するのは、無関心な人同士が喧嘩するのではなく、例えば土地だったり人だったり神だったりを愛していたとして、同じように土地だったり人だったり神だったりを愛している人と喧嘩するのである。わかりやすいのは愛する対象が異なり、他方を愛するものを許せないパターンである。或いは、対象が同じであったとして、愛し方が気に入らない。とやっているのである。まあ言ってみれば、愛し方が偏愛だから問題を起こすのである。
同じ人を同じように愛している同士も、それはそれで喧嘩になったりね。
人類、お疲れ!
インターネットは役に立ったか? 役に立ったのだろう。 インターネットは有害だったか? 有害だったのだろう。 技術革新とはそんなものだ。 AIだって何だって同じだろう。 程度の問題である。 それこそAIがAIを使うのなら話はまた変わってくるのかもしれないが、使うのが人間だもの。 いいやつもいれば悪いやつもいる人間が使うのだから どうしたってそういうことになる。
レベルの低いところでは、子どもを産まない人は。。。が典型的であるが、頭の悪い人と生産性の話をしても話すだけ無駄である。彼らには難しいことを理解する知能がそもそもないので。
真面目に生きるのはいいと思う。 真面目じゃないのに真面目なふりするのがちょっとね。 真面目なのに真面目じゃないふりする方がよっぽどいい。
もっと大変な人がいる。で黙らんでよろしい。
何か悩みを抱えた時は話をめっちゃデフォルメすると考えに整理がつく。
例えば現代にキリストが現れ世界の人々の罪を一身に引き受けたとしよう。君はキリストが大変な目にあっているのだから給料ゼロで働けと言われてただ働きするのか?する人もいるミラクルがあったらゴメンだがお前はアホか?と言うのが多数ではないだろうか。
大変な思いをしていてその人が苦労に感じるのも案外大丈夫と感じるのもその人の問題である。それぞれの人の課題である。課題の分離をしろとアドラーさんも言っとる。スポーツ界など連帯責任大好き集団もいるがスポーツマンシップほど犬も食えないものはない。喜びも怒りも哀しみも楽しいも主観であり、苦しみもまたその人のものである。自分で表現せい。もちろんその人の感情や苦しみに寄り添い共感しても良いのだが共感も強要されてするものではない。同調圧力かけるやつには殺すぞと圧をかけるくらいのメンタルでぜんぜん良い。知らんけど。
とにかく君が苦しいことに寄り添いもしない奴等の機嫌に付き合って苦しいのに苦しいと言えないような目に合う必要は全く無いのであーる。
同調圧力に屈する方が楽なの。という人にまでどうこう言うつもりも、また無い。自分の人生、自分に裁量があることくらい好きにせえ。裁量ないならそこは幸福から遠い場所なのかも。
結局、自分の軸がしっかりしてないと、他人や時代に流されて、つまらないものをつかまされるだけのつまらない人生になるし、その軸も構成要素を新陳代謝していかないと、凝り固まって錆びついて、時代においていかれた廃棄物みたいな人生になるのだろう。 温故知新ね。ライクアローリングストーンね。人間も、生きてる間は、ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらずじゃなきゃね。ま、最後は完全な安定状態(死)に至るんだけど、生きてる間は安定というより、ずっとバランスとりながら動き続ける感じね。
すごく個人的な見解を言えば、私が嘘を見抜いていた場合、その嘘を許容するか拒絶したくなるかは、その嘘の目的が、他者を救うためのものか、他者を落とし入れるためのものかが判断基準であることがほとんどである。まあ、その相手のことが好きかどうかで(何回かまでは)目を瞑ることもあり、判断基準はファジーなものであるが。それが嘘ではなく、真実の言葉であるにしても、他者を落とし入れる目的というのはいただけない。自分の保身やエゴのために(相手がしてもいない悪いことをしていたとか、その手の)相手のイメージを悪くするための嘘をつくやつが、夏目漱石の坊ちゃん的に私は嫌いであり、昔から坊ちゃん並に損をしてでもそんな奴には迎合しないので、この腐った世界ではなかなかにわたしも生きづらいところがあるのである。年齢で多少丸くなったが、性分というのは抗えないとこがあるから性分というのである。
まあ、うちの奥さんは、そんな人のこと、どうでもいいじゃないか。気にしているだけ、自分が損。それより日々のことに気を向けた方がいい。という人で、このイシューについては、数段奥さんの方が上手である。
うちの母親はといえば、長年先生をしていたからかもしれないが、そんな相手でもむしろおだてたり褒めたりして相手を自分のファンにしてしまうようなところがある気がする。もちろん、こちらもわたしより上手である。
このイシューについては、完全にわたしは巧者ではなく、頭脳的というより感情でつまらない手を打ってしまっているとも言えよう。
まあ言うてみたら、しょうもない人間に対し、奥さんも母親も違うステージにそれとなく立って自分からうまく切り離すのだが、わたしはつい同じ土俵に立っちゃうから良くないのである。
正確に言うと、わたしも物理的にはその土俵からすぐに離れる(つまり相手を無視する)のだが、感情をその土俵に残していつまでも腹を立てているものだから、一人相撲をしている相手を見ては、またイライラが想起されてしまうのである。
みたいなんをずっと引きずってしまう。
そういう人って、執着心が強いタイプが多いので、無視が火に油になることもあるしね。ほんまめんどくさい。
めんどくさい相手こそ、おだてたりした方がその場の対処がうまくいくのはわたしもわかっている。結局、そういう相手は自己愛や承認欲求が強いので。 しかし、そういう相手は、自分が難を切り抜けたとして、別の獲物を探そうとするので、ここで相手の情念から滅してやろうとして、結局自分がはまってしまったりラジバンダリ。 まあ、いらんもんは無責任に捨てる方がいい。時間やらもったいない。
お月見の団子って関西では、白い団子に餡子乗せたのがスタンダードなのかな。続けて2回見たけど。
月が話題ですが、今日の仕事帰りに月が出ているかな?と四方を見渡してみたのですが、ビルの隙間に隠れているのか、全く見当たりませんでした。 以上、ツキの無い話でした。 とは言え、中秋の名月。マンションの窓から見えるかな?と思って見たのですが、そこに月はありませんでした。 以上、ツキの無い話をもう一度してみました。 月って結構移動速度が速いので、今マンションの外に出たら、きっと大きな月が見えるのでしょうが、めんどくさくて、まあいっかと。人生長いんで、そこまで活力わかないですね。あんまり良いことじゃないですが。 これを、オチの無い話といいます。 あんまりオチの無い話ばかりしてると、嫌われるぞ。 じゃ、この辺で。
十五夜と中古屋で韻が踏める。
桃栗三年柿八年とももクロ残念客8人で韻を踏める。
白鳥の湖と学長の魚住で韻を踏める。
暖簾に腕押しとソ連にピロシキで韻を踏めないこともない。
諸葛孔明や鴨長明 は語感がshake it up, baby
ドラキュラが大阪に生まれていたら、やはり、血ィ吸うたろか?と言ったと思う。
考えてみると、頼りがいがある。って言葉。頼った上に品定めしてて、人間の傲慢さはすごいな。
単なる思いつきだが、例えばブレードランナー的な映画を、人間は人間、レプリカントをAIで撮ったら妙なリアリティが出たりしないだろうか。 まだAIが作る映像が生きたもののそれではない今こそ撮れるものかもしれないが。
散歩していてプレミア焼酎を売っている店を見つけたが、今日のところはスーパーで約1000円の。いも焼酎は以前よく飲んでいたが久しぶり。値段考えたら充分満足の味。
KITTE大阪に行ってきました。地域の物産展て面白いよね。〆張鶴うまい。1000円てありがたい。
続きまして。基本(定番)ですが美味しい。
お次の日本酒を仕入れました。
わたしは自分でわりと目利きがきく方だと思っている。まあ、あまりお金をかけずに良いものを楽しんではいるのだが、良さがわかっているのに全く手が出ない品もあって。良し悪しある。
人生も中年くらいになったら、編集者とかプロデューサー的な物事の処理の仕方を覚えた方が、金儲けになるかどうかはおいといて、生活を楽しめるんじゃないかな。
誰かわしに再発するレコード選ばしてほしい。
とりあえず5枚でええから。
キリスト教徒の体制批判
「このバチカン(バカチン)が。」
僕なんか。って人は自意識が過剰なのである。
自意識が高くて理想が高いから、卑屈に現状を素直に受け入れられないのである。ぶっちゃけ神やスーパースターになりたいと思っている人だっているかもしれない。
まあ、否定されてきたとかあるかもしれないが。
他人が自分のことを気に入らないという他人の価値観をそのまま受け身で受け入れてしまって、他人の価値観なのに自分で自分を否定する呪いにかかっているのかもしれない。
根っこはあれだが、それだって、自分がいっぱしでないと許せない自意識があるからハマるのである。認められる自分でないと許せない自意識があるからハマるのである。
どうせ自意識が高いなら、より良い建設的で役に立つ価値観にアップデートした方がいいし、そんなに何年も治らないような欠点ならそもそも向いてない治らない領域かもしれないので、他の長所で自分の価値観を高めた方がいい。要は、近視的なのである。自意識が高いから、近視的になる。要は自分の中だけでぐるぐるしているのである。正直多くの人にぶつかるのが1番良いショック療法なのだが。自慰の方がお好きなんでしょう?わかります。
ま、1番タチが悪いのは、そうした他人に押し付けられて自分に巣食った価値観で、他人にまでその価値観を押し付けて許せないと言ってるゾンビです。
他人が自分と同じように苦しんでないと許せないやつ。
成仏せいっちゅう話である。迷惑だから。
前にも言ったかもしれないが、他人と比べて不幸を感じるタイプは、言ってしまえば、自意識がまだボーイ(ガール)なのである。
・人生経験として、自分は自分、他人は他人ということが消化できていない。
・実はプライドが高く、他人に負けるのが(無意識かもしれないが)許せない。
他人との比較の中に、良質な幸せはないと思うよ。
綺麗事言う気はないけど、幸せも自信も主観で、主観は本来1人1人違うんで、自分自身がほんとに楽しいことを知ってる人には、それやってるうちは勝てないよ。ま、勝たなくていいんだけど、勝たなくていいやって思えないうちは、人生に負けてんだろうね。
まあ、全然自信なくて、他人の真似してるだけって人もいるのかもしれないが。まあ、そのうちクソつまんなくなってくると思うから放っておきます。
例えば人に同意しようとする時に、自分に軸がない人は自分の気持ちや考えを殺して相手に合わせようとする。柔軟な人は自分も相手も殺さずお互いにちょうど良いところを見つけるのである。
アカンやろ
いけないことは
いけないと
届かぬとこで
言ったところで
#短歌
やらない言い訳を探してるうちは、人生は開けないかもしれない。正直。 結局、やらない方に、楽とかのメリットも感じていて、やることに対する大変さとか覚悟とか不安とかめんどくささに立ち向かうより、やらないことを選んでいるのだろう。現状には慣れるので、我慢さえすればすむ話だと。 チーズはどこに消えた?じゃないが、変化しようとしなかったら、よくて現状維持だし、そこにエサが無くなってきているのであれば、やがてそこにエサは無くなるのかもしれない。もちろん、エサのない場所にいつづけて、飢えるのも自由である。自由とは決して甘いものじゃない。 まあ、ご無体な話かもしれないが、そもそも人生とはご無体な話なのである。子供の頃、安心してくらしてたなら、親が守ってくれてたのである。 ついてる人もいれば、ついていない人もいる。この世界は公平なフリをするのが好きだが、ちっとも公平じゃないのである。等しく同じなのは、物理法則と死くらいか。
わたしは言ってみれば頭脳職をしているのだが、人間なのですごく集中できる時もあれば全然集中できない時もある。よほど知恵を絞らなければできない仕事は集中力が高まった時しかパフォーマンスできないものである。集中できない時はあまり頭は使わなくて済む(がしなければならない)作業系の仕事に回す。案外頭が回らなくても機械的に作業をこなすのはかえって無になれるので苦でもない。やってるうちに集中力も整ってくるので。
こうしたい。ということは、お金や時間がかかることもあるので、そりゃ無理ということもあるし、人様にトゥーマッチな迷惑をかけることなら、しない方が良いこともある。つまり、こうしたいをすべきかどうかはケースバイケースだ。どう見てもやった方が良いことで物理的制約が無いなら邪魔をしているのは自分のめんどくささだけだったりするのかもしれない。 これに対し、こうなりたい。っていうのは、犯罪者になりたいとか、例えば法にふれることでなければ自由度が高い。対象とする素材は自分オンリーなので。もちろん、誰かになりたいとか物理的に不可能なことは論外だが、こういう人間になりたいという話なら、今すぐにでも変化を起こしはじめることはほんとはできるはずだ。多くは自分1人で始められることだし。めんどくさいとか、勇気がないとかで、やらない言い訳を探して自分でごまかしているだけで、ほんとになりたいなら今すぐ秒で変化を起こしはじめられるはずである。人は自分で自分に呪いをかける。できない呪いをかける。人の言葉で気づきはあったとしても、自分にかかった呪いは自分で解くしかない気がしている。
こうなりたい。が、そもそも人様を犠牲にして成り立つようなことしか考えられないTakerは自分の喉をかき切って死ねよって話で、そういう人には言ってない。
人間は長ければ100年ほど生きるようですが、生きている間に大きくみて二つのことしかしない人もいるようです。
一つは自分の正当化で、一つは他人の否定です。
人は、社会的に関わる人には、安心感を求めるものである。安定して60〜70点を出せる人は(それなりに)評価されるだろう。助かるもの。
若い時に、あなたは0か100かだと言われたことがある。100点(以上)を取りたいと思う性格(?)で、なにかにつけてそうなので、どこかで無理が生じて全く手が回らないことも多くなる。 歳をとってからは、この辺の塩梅が良くなってきた。だいたいのことは60〜70点でも合格なのである。というか、あらゆることで60〜70点とれたら、とても優秀である。そのあたりの点数で自分も他人も許せるようになった。 何か芸術作品を作っているだとか、製品を作っているだとかは、もちろん妥協しないで100点(以上)を目指すのは望ましいが、日常のことは、ポイントというか、おさえるべきとこだけしっかりとおさえていたら、それで充分と割り切った方が全体がうまくいく。人にも何から何まで完璧は求めないことである。肝だけちゃんとしてねと。
躁というかハイになっていると、案外100点取れたりする落とし穴があるが、いずれ無理はきかなくなり、鬱になり0点生活に陥ったりする。しかもダメになる期間の方が長くなったりする。 完璧主義というのは、逆に物事を見る目が近視的になりやすい。繰り返しになるが、ほんとに大切なことだけしっかりやって、全体感としてまずまず(心地悪くない程度)というところを合格ラインとした方が、長続きする。
100点を取るより、全てに60〜70点取れる方が役に立つという話を前にしたが、若いうちに100点を取った経験もまた無駄ではない。 100点の取り方や、100点がどんなもんかを知っているかどうかも役に立つ。60〜70点を目指してその点数を取るのと、100点がどんなものかわかった上でその点数を取るのとでは、実際のところ質が変わるだろう。いざ100点を取らねばならない時も、やり方がわかるということでもあるし。 100点をとる虎の巻もまた、生きていく上でのツールになるのだ。
わたしが若いうちはまあこんがらがったことを考えていたものだが、こんなややこしい脳みそが整理されるのに非常に役に立ったのは、 ・アドラーの考え方 ・リスクマネジメントの規格(ISO 14971、ただし、最近はちょっと難解な規格になった) ・老子の思想 である。昔上司に大切なポイントは3つ挙げるとそれっぽいと言われたので3つ挙げた。 もちろん他にも役に立つものはあるが、上記3つにより私自身の思考プロセスが整理されたのがめちゃくちゃ大きい。つまり自分の中で思考がとてもすっきりした。
わたしは完全に自己完結型の人間なので、独身時代など、気がつくと一日誰とも話さないなんてこともざらだったのだが、寂しさがどうとかいうより、他者の考え方とか新しいインプットを入れないと、自分の中に既にあるものだけで考えをぐるぐるし続けるだけで自分がリフレッシュしていかないので、流れのない水は腐りやすいという意味で人と話すことも疎かにしてはいけないな。と思う。
人は誰しも思想家である。 同様に、人は誰しも芸術家である。 それとして認められるかどうかは付随してくるものであって、思想や芸術は何も特別な行為ではないのだ。
昔のことを思い出してうわーっってなるエネルギーで発電できないものだろうか。
フィフティフィフティと聞いて、五分五分よりも、50本塁打50盗塁を連想してしまうのだから、大谷さんすごい。
散歩のついでに酒屋をハシゴしたのだが、シングルモルトのスコッチは軒並み買ってた時の5割増しの値段になってるな。あと、焼酎やら全体的に品揃えが良い酒屋見つけた。今日は何も買ってないけど。
nhkが長寿だなんだやってるみたいだが。 今90歳以上のお年寄りが長生きしているのは、そういう生活習慣だったからである。下の世代は、生活習慣全然違うだろう。下の世代は、これからバタバタ死んでいくよ。
人はパンのみに生きるにあらず。 って、パン屋に言えるか? アンパンマンに言えるのか? くらいのことまで頭回さないと(例えばだけど)全然自分の役に立たないよ。
音楽は好きだが、BGMのない空間の方が好きだったりする。
ベッドのマットレスを裏返したら寝心地が快適になった。
無茶苦茶快適。背筋が伸びる。気持ちいい。
わたしは子供の頃から感受性が強かったのでもちろん空気は読めるのだが、その空気にあまり馴染めない思いをしてきたので、例えば、全く空気に気づいてないふりをしたり、空気を読んだ上で、良くないと思えば空気の破壊工作をするし、空気で動くよりしっかり確認すべきと思えば口にして尋ねるし、良いと思った場合も、空気に乗っかってさりげなくやるのがスマートと思えば忖度してフォローしておくし、親しい相手なら〇〇の空気感出してますねと半ばジョーク混じりに空気をディスりつつやることだけはやったりと。 つまり、前にも書いたが、空気を読めた方がいいのは、その方が打ち手が広がるからであって、同調圧力みたいに打ち手を限定するような空気に乗らないこともできるからである。
枝分かれして体験できなかった方の未来を見る能力欲しい。でも怖かったり羨ましかったりしちゃって結果破滅しそう。 というスレッドを見たが、漫画では手塚治虫がずっと昔にザ・クレーターという作品群の中で描いてる。実際にもう一つの人生をやり直すストーリーだが。
関係ないけど、岩崎宏美、学生ん時地下鉄で見たことある。マネージャーみたいな人と話してた。
関係ないけど、学生ん時、神楽坂歩いてたら、ふらふらという感じで野坂昭如が下りてきた。
関係ないけど、関根勤と小堺一機セットで見たことある。
関係ないけど、昔近所にプロレスのジムがあって、コンビニでマサ斉藤がソフトクリーム舐めてた。
関係ないけど、昔飛行場かどこか歩いてたら、向こうからすごい形相した織田無道が歩いてきた。
関係ないけど、小西康陽さんは神戸のレコ屋で昔何度も遭遇している。
関係ないけど、UAは、クラブの2階で見たことある。ミュージャンは昔クラブやライブに行くとよく見かけたが8割がた忘れてる気がする。
たしか田島貴男さんもクラブで見たことあるな。
関係ないけど、わたしの記憶がたしかならば、昔ランキンタクシーのイベント(たしか池袋)に行ったら、スチャダラパーが3人並んで踊ってた。
関係ないけど、大阪で脱線トリオ観たことあるのだが、ラップより、象の花子の話面白かったな。あれ、デラソウルのライブだったか?
関係ないけど、なんかのライブの2階席で、小沢健二と渡辺麻里奈が仲良くライブ観てた。(時効)
関係ないけど、野音かなんかのライブにユナイテッドフューチャーオーガニゼーションが呼ばれてて、ラウドマイノリティのレコードをただ1曲かけたのに遭遇している。
関係ないけど、たしかトニーハンフリーズと握手したことある。ノーマンジェイのかけてるレコード覗いたら嫌な顔されたことある。
関係ないけど、わたしの記憶が確かならば、たしかECDも出てたイベントで、石野卓球が明日のジョーをサンプリングしたトラックでラップしてた。
関係ないけど、ビブラストーンのライブには10回以上行ったと思うが、いつもいる人いた。ナンシー関さんも見かけたと思う。
関係ないけど、東京スカパラダイスオーケストラ、路上でライブしてるの観たような気がするのだが、ほんとにそうだったか覚えてない。あと、ギムラいる頃にライブ観たことある気がするのだが、これも記憶が定かでない。
関係ないけど、ギルスコットヘロンのライブ、隣にいたの荏開津広さんやった。たぶん奥さん同伴。
関係ないけど、法政大学にフールズのライブを見に行ったら、天安門事件の映像が流れて衝撃やった。
関係ないけど、森高千里のライブ(名古屋大学の学園祭?)に行ったら、途中でヒール?をスニーカーに履き替えるサービスタイムに遭遇した。
関係ないけど、坂本龍一のライブで、生で観るアートリンゼイのギター衝撃やった。
関係ないけど、ミックジャガーの初来日ライブ観に行って、もう観ることないんかなと思ってたら、スティールホイールズで今度はストーンズとして観れて良かったです。
関係ないけど、デビッドボウイもライブ観てるな。
関係ないけど、桐島カレンの頃のサディスティックミカバンドや、ボガンボスも生で観た。
関係ないけど、高校の友達とRCサクセションのライブに行って、全曲大きな声で一緒に歌った。周りの人ごめんなさい。
関係ないけど、チャボのライブむっちゃ良かった。終盤、後ろ髪を引かれるといいながら何度かアンコールに応えたような?
関係ないけど、スクリーミングジェイホーキンスのライブに遅刻して行ったら、アイプットアスペルオンユー既に演奏済だったがっかりをまだ覚えてる。
関係ないけど、奥さんに誘われてわりと初期に小バコでCKBのライブ観れて良かった。奥さんと行ったの、あとはブライアンセッツァーオーケストラくらいだったかなあ?あ。あと、こんがり音楽祭行ってる。スチャダラ出てたの。
関係ないけど、奥さんと言えば、シティボーイズのライブ連れてったことあるな。お笑いの。あと、DVD貸して布団祭ウケてた。そのDVD紛失したが。
関係ないけど、大阪でわりとフリーソウルのパーティ行ったな。行った数でいうと、あとはデシネの丸山さんの。次、UFOか沖野さん?
大阪来る少し前からオルガンバーできてたんだけど、アレ行かなかったのが最大の後悔。
外国のDJイベントもわりと行ってる。マスターズアットワークのケニードープの方だったか?あと、MURKとかハウス系も。なにより、GOLDのラリーレヴァン行ってる。あれでクラブミュージックにのめり込んだのよね。
関係ないけど、昔、昭和天皇がうちの田舎の方にやってきたとき、ボーイスカウト的な全身緑色の洋服を着させられて、何だったかにかりだされた。
こうしてみると、20代の頃けっこうライブ行ってるな。今よりお金の絶対額は少なかったはずだが、今より豊かな暮らしをしていた気がするのはどういうわけだ。
音楽に関しては、見た目が良いからで曲を好んだことないと思う。
ラジオと言えば、その昔、ノーマン・ジェイが1980年代はじめに、海賊放送(Kiss FM )に参加したことが有名(知ってる人は知ってる)だが。
mixcloudが無料でアップロード制限されるなら、いっそmixをラジオで海賊放送的に流してしまおうか。と、少しわくわくしてアプリをちょっと調べてみたが、ハマるの無さそうね。つまんないの。
ポッドキャストも、ラジオつったらしゃべるしか発想がないのよね。貧困。金をくれ。
なぜそんな質の低いものを世に出して平気なのか?と目利きがきいたりセンスのある人はイライラしたりゲンナリすると思うのですが、世の中、そういうことがわからないとか、感性のセンサーに引っかからない(鈍い)人の方が多いので、それで成り立っちゃってるのです。自分の周りだけ良いもので整えてくくらいしか、争ってもどないもなりませんね。
何だか中庸という考え方が見直されてる気配を感じますが、10年以上前から中庸というものを体現しようとしていた私から、結論めいたことを言っちゃいますと、中庸という考え、そのものに対しても中庸であるべきですね。中庸を試す前から何年も試してからわかるようなこと言っちゃってごめんですけど。時代の変化が早いので、先にインプットしときました。
ただの中庸やってるうちに何年も過ぎちゃうと思いますのでね。老婆心ですね。お節介かもしれませんが。
今の時代、正しいってことが必要以上に否定されているようだけど。人に嫌われてる正しさって、例えば最適解みたいな、全体最適された知恵のようなものじゃなくて、特定の誰かにとってだけの正義みたいな、誰かを傷つけてでも我を通すみたいな、そういうもんに拒絶反応が出ているだけだと思う。それって本来正しさとは言わないから。正論も同じ。みんなが嫌っているのは、本来の正論としての質を備えてないから。 正しい。って言葉をもうちょっと丁寧に使おうよ。
まあ人間、自分を正当化したいことはある。そもそも自分の尊厳は誰にでも大切なので。もし尊厳を傷つけられている状況なら、頑なに自分を守ろうとするのが人情だろう。で、ほんとに自分が正しい行いをしているという自負があるのであれば、なおさら感情は強くなるかもしれない。 しかしまあ、何度も言っているようにこの世界は意地悪なので、こんな風に正当化に夢中になっている時ほど落とし穴にはまりやすい。つまり、必死こいて正当化に夢中になるものだから、視野が狭くなり全体に目が配れなくなる。だいたい人間は陶酔している時ほど致命的なミスを犯すものである。正当化に夢中になるあまり、本来大切な人間関係を疎かにしたりね。自分を守るはずが、よく見渡せば取り返しがつかないほどもっと状況が悪くなっていたり。 人間ハイになってる時ほど注意が必要なのである。まあ、難しいゲームだね。ルサンチマン系は課題を克服するの大変。真面目な人の方がハマったりね。
たぶん自分が欠けていることを素直に認めて、他人の欠けも気にしない人同士が、人間関係ってスムーズなのだと思う。 自分の欠けを許せないとか、直さなきゃってのが過ぎると、自分も窮屈だし人も窮屈にさせるだろう。ましてや、ヒトの欠けが許せないとなると、自分が地獄を生み出してるかもよ。そして、そういうのって連鎖するからね。親子とか。
わたしもつい人に期待しない方がいいとか言っちゃいますが、損得の話で。がっかりする方が多いよ。という備えの話なんですが。そもそも、誰かに期待するというのは主観の話なんで、喜びもがっかりも含めて勝手にしてください。逆に、期待された方がどう思うかは期待された方の主観なんで、嬉しいもやだなもその人の課題ですが、そもそも期待するのは期待する人の課題なので、究極知らんけど。で良いのだと思います。まあ、目上の人に「期待してるよ」と言われて、「知らんけど」ってリアで答えるのは、逆によほどの信頼関係がないとやらない方がいいし、まあ、やる必要も特にないですね。心の中で思っていればよろしい。なんてどうでもよいこと、思いつきでいくらでも書けます。お金にならないんでしょうか。なりませんね。
若い頃に比べれば朝早く起きるのもそれ程苦ではなくなったのだが、未だに休日の朝など、目が覚めかけていてもそこからいっこうに何十分も起き上がれない日もある。眠っている間死んでいて、生命が復活するにはまだ呪文だか魔法のアイテムが足りない感じで力が湧き上がらない。眠りを1つの死と捉える人がいたのも感覚としてわかる朝である。おはようございます。
人に助けられる人は助けられる生き方をしている。 わしなどそうではないので、びっくりするくらい助けてもらえない。(家族は除く。) 結構、この世界はえげつないぞ。 あーだこーだ言っても、わたしみたいな人は、自分でやることやって自分で片付けてくしかないのである。 ハードボイルドなんが嫌だったら、人との関係を大事にするこっちゃ。情けは人の為ならずじゃ。
まあ、わたしは親には甘えん坊の子供だったのだが、ずっと他人に頼るのは下手だった。今でもうまくない。奥さんにも、頼るというより、してくれることに甘えている感じである。
過保護できたので、愛情というのが頼まなくてもそこにあって、自ら人にお願いごとをして自分の欲求を叶えるというやり方がよくわからなかったのかもしれない。下手に器用なとこがあるので、人に頼まなくても大概のことは自分でできちゃうし。
しかしまあ、仕事は自分1人でするよりも人の知恵を集めた方が仕上がりが良くなるので、独りよがりな仕事はしなくなったかな。
あんまり他人に助けられる人生でもなかったのだが、これも時々人が言ってることだが、人に頼ることをしない人を手助けしにくいのも真理的に自然かもしれないし、人には人間関係に優先順位があるので、近しい人というか普段助け合ってる人から助けるのがまあ当たり前である。
要は、誰も助けてくれない人生を歩んでいる人は、その人がいい人か悪い人かなんてことよりも、人に助けられにくいパターンの生活習慣で日々を送っているというだけなのだろう。
幼少期に充分甘えることができると、人生の途中でもう一生分が足りるというか、残りの人生甘えなくても全然平気ってなっちゃうとこもある気がする。
自信とか自己肯定感も同様。
しかし、これが老後の人生ということを考えると、また、人を頼りにできるとか、助けられるパーソナリティというのが、また重要みを帯びてくるのである。
感謝して生きろみたいなこと言う人いるけど。 まあ基本、ありがたいことには感謝してんだけど。 何かにつけ気に食わないことには気に食わないってずっと言いながら死んでくんでしょうかねえ、わたしは。
自分が傷つくことのない、苦しみのない、楽しいことばかりの、希望と愛に満ちた生活を送りたい。と思ったところで、人間は人を傷つけてばかりで、苦しみに執着し、他人が楽しむことに嫉妬して、絶望し呪い自堕落に甘んじた生活を送る人の方が多いんだから、無理だろうね!(きっぱり)
外海に出ると船酔いしそうなので、俺は海賊王にはなれそうもない。
絶対に負けられない戦いがありますか? そこになければ無いですね。