カルダーの記憶 | カルダー:そよぐ、感じる、日本
幅広い階段の白い天井と白い壁、外から陽の光が差し込む、白くて明るいカランとした空間で、ゆっくり揺れる赤い丸と黒いワイヤーと白いなんか。
階段の下から、途中の踊り場、階段を上がり切ったフロアからいろんな位置から、吹き抜けで大きくてゆったりゆらめくモビールを見て「デカいな」と思った。
この記憶が、2001年夏のニューヨークのメトロポリタンだったか、ホイットニーだったか、その年の冬の川村記念美術館だったか、思い出せない。
窓の外は天気が良く、強い日差しで壁が白く光っていたなので、夏のニューヨークだったと思う。吹き抜けの白い四角い大きい空間。
ゆらめくデカいモビールも赤だけのやつだったか、白だけだったか、3〜4色あるやつだったかは定かではなく、記憶の中でデカくゆらめくモビールのシーンを作っちゃっている気がする。
美術館ではたくさん作品を見るし、シンプルな幾何学的シンボルやパターンで構成されている作品はインパクトと雰囲気が脳裏に焼きついてるが、ディテールを覚えていない事が多い。
カルダーだけじゃなく、特に60年代〜70年代のアメリカ現代美術にはそういうタイプ、インパクトと雰囲気に包まれた感で記憶してるもの、が多い気がする。
…よっぽどコレ!と好きな作品だと別だけど、いや、ま、私がザックリなだけかもしれないけど。
2024年の5月末から麻布台ヒルズギャラリーでカルダーの個展をやっていて、20年ちょいぶりにカルダーを見た。
ギャラリーでいろいろな形状や色のもの、デッサン的ペイントを一気に見て、記憶していたものより繊細で、幾何学模様に図案化した自然を立体化して、その動きを再現する実験っぽいなと思った。
いや、もともと、そんな感覚で作品を作られていたのかもしれない。
20年前はニューヨークの美術館をひとりで巡っていた。若かったし、慣れない外国に少し緊張してて、何を見ても大きくて、迫力ある雰囲気に圧倒されてた。どこの景色も、暑い夏の日差しが眩しくて明るく、迫力があって、強い感覚で覚えている。
私の頭の中のカルダーのモビールは、白い天井で大きく大きく、ゆっくり動く巨大生物、「物体」だったんだけど、今回は「小さい宇宙」があった。
自然の風景を構成する要素や、小さい動きを再現する繊細なオブジェ。モノ全体は大きいんだけど、その空間や佇まいをつくる「動き」の小ささに目を留めた。
作品の説明、下書きスケッチ的な絵画や制作風景の動画などの構成や企画意図で「そう見た」かもしれないけど、「物体」としての存在だけでなく、その「宇宙の動き」に気が回るような、ものの見方が変化した自分の20年も感じた。
記憶してるカルダーのモビールをもう一度観に行きたいなぁと思う。観に行っても、多分、最初の記憶のイメージは変わらないし、新しく「名前をつけて保存」するだけだと思うけど。
2001年夏版、冬版、2024年初夏版のカルダー。
何か「作品」に触れると「作品」を見るための自分の間の経験値を実感するし、やっぱり、何か経験するとどこかモノの見方が変わるんだな。