魚を締める広告マン

 お久しぶりです。片山順一です。今回は先日のNHKの番組から。

 今バズってる、この記事で紹介された方の、ひとつ前の放送で取り上げられた人です。

 プロフェッショナルという番組

 プロフェッショナルという番組があります。様々な仕事をしている人を取り上げ、その人の経歴や人となり、仕事ぶりなどをまとめて放送するドキュメンタリーです。わりと以前からやっている番組で、プロジェクトXの流れで現れたような気がするのですが。

 そこに、魚の仲買人をしているという人が出てきました。

 仲買人という仕事は、私もよくわからないのですが、どうやら卸売市場で、漁師さんがとってきた魚を目利きして買い取り、それを魚屋さんやスーパー、付き合いのある飲食店のシェフなんかに卸す仕事のようです。

 生鮮食品の流通ルートはいろいろありますが、地方ごとの大きな卸売市場に集められ、そこで仲買人に売られ、仲買人から小売店や飲食店に卸され、小売店や飲食店の店頭で私たちに売られるというのが一般的です。

 ちなみにここのルートを変える場合もあります。道の駅の野菜は作った人が小売りに出しているし、漁師町の産直市場に並んでいる魚は、漁師さんが直接売っている場合があります。スーパーや飲食店が直接買い付けている場合もありますね。

 この方は少々変わった卸し方をしています。あまり取引がなく、値段が安くて乱雑に扱われている魚を丁寧に絞め、一流シェフが驚くほどの商品に変えてしまうことで有名だそうです。彼の魚を仕入れたいという飲食店関係者はたくさん居て、引く手あまただとか。

その人の人生


 四十代の男性のその方は、小さい頃から海や魚がとても好きでした。普通の大学に入学したのですが、一年休学して長崎の漁師さんのところに弟子入りするほどです。毎日海に潜って魚を採る生活を続けたそうです。

 ただ、キャリアプランで考えることがあったのか、卒業後は漁師にならず東京で広告代理店に勤め、営業職を一直線。体力とバイタリティを活かして次々仕事を取ってきて、二十代で年収一千万まで到達されたそうです。

 ところが、しばらくして、広告の仕事に行き詰まりというか、人間が食べる魚のような現実に必要なものを動かしていない感覚に耐えられなくなります。連日夜中まで飲みにケーションを繰り返して、盛り上がった感覚のまま、勢いだけで大きな契約を動かす生活にも違和感があったようでした。

 そこで、仕事を介して知り合った方に、仲買の仕事を紹介してもらい、広告業とのダブルワークを始めたのです。
 仲買としての彼の仕事はシンプルで、魚に対する深い愛情に裏打ちされた、丁寧な下処理と、ときには漁師さんの船に乗り、ほかの仲買人が注目していない魚のおいしさを見出すことです。さらに、魚を必ず、ある程度の価格で買い取り、買いたたかないことです。これは魚の価値を下げないため。

 ただ、そのスタンスは既存の仲買人や漁師からは、奇異なものに映ったようです。値が付かない魚や、たくさん取れすぎて価格が落ちている魚をわざわざ高く買うやり方は、ごみをわざわざ買うようだからか、『ゴミ屋』と陰口をたたかれました。

 もっとも、彼はそんな陰口に負けず、買い取った魚を丁寧に下処理し、売値に納得する人を探してきちんと売るだけなのですが。それは、三十八歳で広告業を完全に辞めて、仲買人となり、以降五年、船に乗り、市場で魚を整え、休暇には南の海で魚を獲るという生活になっても変わりません。

海が好きということ

 私はこの彼について、凄腕の商売人、という印象は受けませんでした。

 むしろ、魚と海が好きで好きでしょうがない人なんだろうな、と思いました。

 番組の最後が、休みを取って長崎の海に行き、かつての師匠の船に乗せてもらって潜り、魚を突くところなんですよね。彼はスケジュールを調整し、仕事の休みをまとめて取り、関東から長崎まで車を飛ばすのです。連日六時間以上も海に潜り、仕留めた魚を絞めてさばく彼の声や仕草。まるで海のすべてを愛する神様かなにかに見えたのです。

 海から獲ったばかりの魚は内臓がはっきりと分かれていて、綺麗です。彼は船の上で取り出した、拍動を続ける魚の心臓を食べ、感謝の言葉を述べます。命を奪う行為そのものが、感謝と神聖さに彩られています。魚というもの、海というものへの純粋で美しい信仰すら見えるようでした。

 これほどに愛しているものが、経済という需要と供給の残酷さにさらされ、ごみ扱いされるのは耐えられない。それが彼の行動原理なのでしょう。魚を愛したことの結果が、仲買人という天職だったと。

魚をさばく広告マン

 興味深いのは、彼自身が、ないものをあるように見せかけるという不満を口にした、広告業の手法を結果的に使っていることです。
 というのも、仲買人としての彼の仕事で、それまで価値がないとされていた魚が、次々に評価され大切に扱われるようになっているわけで。
 評価されていなかったものに、価値を創造するというのは、まさに広告業が果たす正の側面ではないでしょうか。消費者に選択肢を提示し、選ぶよう呼びかける。その結果、選択が変われば、評価も変わっていきますから。

 これはいい、素晴らしい、なのにみんなは評価していない。
 これほど悔しいことはありません。

 それが、もしも自分の仕事で多くの人の評価を変えることができたのなら。あるいは、評価が変わることを通じて、社会まで変えられたのなら。

 広告マンの喜びの瞬間があるのでしょうね。

 もっとも、凄腕の広告マンだった彼は、価値のないものに評価を作り出すこと自体には魅力を感じなかったから、愛する海に戻っていったのでしょう。

 ただその海を愛する仕事として彼が行っているのは、彼の愛する魚のための広告業、なのかも知れません。あくまで結果的に、ですけど。こんな風に言ったら怒られてしまいそうな気もします。

 ただ思うのです。好きなことに打ち込む前に、できることを全力で行ってみる。それは案外、徒労じゃないのかも知れません。

 もし、今やってることが無駄に思える方が居たら、後に役立つ可能性もあるかもしれないと思ってみてもいいでしょう。

 この彼のように。

 などと、なにひとつ、極められてもいない中年ワナビが言ってみます。
 学歴中途半端、仕事のキャリアなし、小説のキャリアなし、か……。


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