大好きなことばかり集めてみました
どんなにゆったりでも良いとなって、学校や会社の開始時間が遅くなったのだとしても、それが定められている限りバタバタとしてしまう。それが週末の楽しい時間を過ごした後の月曜日なら尚のこと。
ドタドタと階段を降りてきたのは長男の良一、5年生になった。今日着ていくシャツの襟がちゃんと折れていないのは、まあ、いつものことだ。
「お父ちゃん、あんな、今日の課題の発表な、オレ、めっちゃええと思うねん、もしかしたら、オレ、天才かもしれへん」などとつぶらな瞳を輝かせて、声を上ずらせながら言うのはちょっとした興奮状態にあるらしい。
早く寝るように言っているのに遅くまでゴソゴソしているようだったのはそういうことかと合点がいった。
※解説しよう!
時は西暦2035年、何もかもが変わってしまった、あまりにもあっけなく、劇的に、そして、それはやっぱり必然的に。
大量生産大量消費のスパイラルが大量廃棄を生み出し、これ以上続けることは最早不可能、そんな段階を人類が迎えるに至って以来十数年が経過、この状況を打破できるような前向きな議論を阻んでいる銀行や世界的な大企業群とそれらの意見、政策を優先的に、たとえ国民の意見と乖離していようとも推し進める政治家をはじめとする政策決定権者たちだった。
しかし、マスコミやこれらの企業に医者や政治家といった誰もがかつて憧れた職業は嘘つきで、自分たちのことしか考え無い身勝手な人たちと揶揄され、敬遠されるようになった。
それらの洗脳で、必要以上に恐れ、疲弊していた、あるいは、かつての"常識"や"普通"から違和感を感じていた、新しく自然豊かな"まち"で造り、耕し、"消費しなくなった"人たちによって自然発生的に成し遂げられていた。
そして、人々は明治や第二次大戦後のような過ちは繰返さなかった。反省したのだ。つまり、何となく欧米に追いつくことも、軍事的強国を目指し、その次は経済最優先になることも別に何となくそうなっただけのことで、そういうことだと言われたから、人々はそうあろうとした、ただそれだけのことだった。自発的にそうなったのではないのだ。
だから、いったい何が幸せなのか?なるだけ多くの人が同意できる、そんな状態を定義しようということになった。
そして、もちろんそんなことをするには我々の価値観は多様化し過ぎていた。
だが、それでもたったひとつ、まるで最小公約数のように誰もが「これならオッケー!」と言えるものがあるということに最初に気付いたのは誰だっただろうか?
"誰もがあるがままの自分でいられる社会"
何だかこれ以上とても素敵な言葉がないと思われるほど、競わされ、当てはめられ、疲れ果てていた、もしかすると、分断されてもいたのかも。
ともかく、こうして始まった新しい世の中で真っ先にその恩恵を実感したのはかつて労働人口として統計に計上されていた人々かもしれない。
何年、否、何十年もの間、導入が噂されていたベーシックインカムは現実のものとなり、糧を得るために、たとえ意に反するものであっても仕事に従事していた人々にはその必要がなくなった。
ただ同時に"自分らしくあるために果たすべき義務がある。例えば、人が不足していたり作業が滞っている分野への奉仕が求められるというのはあるが、もちろん、自分がしたいこと、興味があることを深めるための時間も持てる。自分らしく自分を大切にしながら、誰もが誰かのためにできることを行なう。何だかお伽話みたいだな。
そうそう、良一のことが忘れられてしまいそうなので我が家の朝の食卓に戻ろう。
「あんた、何調子のええこと言うてんの?」
子供たちの朝ごはんと我々の飲み物をお盆に乗せて運んで来た妻の佳恵が絶妙な間で現れ、ツッコミを入れた。
「ほんまやもん」ムキになって口を尖らせながら良一は言い返すのだ。
彼が今夢中になっているサッカー、幼稚園のとき習っていた野球、これらの歴史、や有名選手の得意技?や戦術などを調べて発表するのだと言う。
「明君はキノコや野草、空手が得意な伸一は瓦5枚割ったるって、張り切っとったでえ」
かつて秋と言えば、運動会があり、必ずあった100メートル走がもう、いやでいやで。
そんなことを思い出すが、今は各自が選んだテーマをとことん調べて、発表する、そんなイベントをやるらしい。
「順位も付けないし、比較もしない、とにかく自分で納得行くまでとことんやるっ、そんな経験を積み重ねて、どんな状況でも自分の力で何とかできる、そんな大人になって欲しいですねぇ」
「もちろん、社会の一員ですから、守るべきルール、果たすべき義務、日本人らしい和の心、そんなことも教えます」
国語、算数、理科、社会。科目分けは撤廃された。どの科目もお互い関連し合ってるという理由で。
そして、教育制度の変更に不安を覚えた保護者たちに新しく着任した校長先生は意気揚々と言ったものだった。聞けばヨーロッパの一部の学校で採用されていた教育方法と伝統的な、ただし、詰め込み教育以前のものを統合するようなイメージで、ということだった。
「もうスマホがあれば、我々が覚えたようなことなんて、覚え込む必要はないわけです」
ソンナジカンハムダデス。言外にそんなニュアンスを含めながらも、ただしと仰々しく彼は続けた。
「歴史や文化、人類が成し遂げて来たことや逆に犯した過ち、これらはきちんと整理され、後世に伝えられなければならないわけです」
さらに「自分をきちんと愛し、同じように他人をも愛す、我々は長らく愛について教わることも考えることもなかった。今でも何となく照れ臭い気がする。だけどこの、人類が人類たる所以であるこの愛を学ばずして、教育と言えるでしょうか?」
口角に白いものを溢れさせながら彼の力説は日付が変わる寸前まで続けられたものだった。
結局、どの分野においても"東洋と西洋の融合"というのがキーワードだったのだと思う。
自らが住む星を何度も破滅させるほどのテクノロジーを持ちながら、それらを運用している我々の精神性の未熟さと言ったら、目も当てられないくらいだった。
そして、そのため、つまり、物質的な発達に値する精神性を築くためにキリスト教や仏教、あるいは儒教などの教えが採用されたのはある意味当然の帰結とも言えたが、いずれも長年に渡って、ビジネス化し、曲解されたもの(と解釈されたから)ではなく、それらが成立した頃の原始的なものが求められており、新たな研究が始まろうとしている。
顕著なのは医療で、これまでの西洋一辺倒から、東洋医学も同等に重視することが突然発表された。
「なぜ熱が出るのか?それは身体の中のシステムが侵入したウイルスやばい菌を熱でやっつけようとしているんです。ところが、熱が出たということを忌嫌い、熱を冷まそうと薬を飲んだり、注射したりと変なことをする。そりゃあ、体調悪くなりますよ」
医を志すものたちはツボや鍼といった東洋医学の知識も必須となった。
娘の友紀子もそのひとりである。いまやその虜となり、カリキュラムで練習しているヨガにもハマってしまった。中国武術や気功もやってみたいのだとか。
いつもより少し遅れ気味なのは前髪のセットに戸惑っていたらしい。この世代は前代の詰め込み教育と今のを両方知っている、ある意味劇的な世代となった。
「あの暗記ばかりしていたあの時間を返して欲しいわ」などとたまに言っている。
とか言いながら「お母さん、今日のおやつ何?」とも言う。
そう、だが「あんな、今日の当番お父さんやねん、何かリクエストあるか?」
子供たちは二人揃って「ええー」とブーイングの声を上げた。家事も分担なのだ。
同輩たちよ、長らくおやつとはスーパーで並んでいるのを買うものだった。それが今や手作りで子供たちに食べさせてあげる、そんな余裕が、時間がやっと手に入ったわけである。
「そうや、お父ちゃんが食品関係で働いていたからか、分からんけど、来月の報仕作業、冷凍庫での検品とかやって、もう、嫌やなあ」
「大変やけど、まあ何でも経験や」適当なこと言ってもたなあ。
スーパーで売られている食品、いや、そもそも大手スーパーやそこに納品するメーカーたちが軒並み姿を消して行った中、主流となっているのはかつての市場のように各自が得意なものを作って販売する形態だ。
全国どこでも同じ味だなんておかしいし、そのために添加物とか農薬だなんてもうおかし過ぎて言葉が見つからないほどだ。それらを販売、使用するには厳しい検査が義務付けられ、おかげでほとんど販売禁止となり、姿を消した。やっぱり袋の裏にある原料にあった変なカタカナの物質は毒だったというわけだ。
食べ物のことでもう一つ、かつて肩身の狭い思いをしていた和食の職人さんたちが、このような動きの一環で和食が見直され、活気を取り戻したことも伝えておこう。
家を出て、報仕作業の現場に着いた。かつての住宅街を整備して、何とか農地として活用できないか?そのための準備作業に借り出されている。
本日指揮を取るのは以前は市役所の都市計画課で設計をしていた元役人の方だった。
「元々日本人はコンパクトなものを作るのが得意だけど、前はもう1軒でも多く建てて、儲けようと、お隣同士がキツキツの状態やったけどねぇ、そういう意味ではちょっと余裕を持って設計するようになってきたねぇ、住宅街。子供が遊ぶようなところには車は入れないし、ええねぇ」
お互い安全第一で行った作業は経験者も多くいてスムーズだった。まだ早い時間なのに薄暗くなろうとしている。秋は始まったばかりだが、冬がすぐそこまで来ていることも実感できた。
さぁ、帰って子供たちのおやつを作らなければ。
とまあ、今あらゆる分野で自分が良いと思うもので固めてみました。で、幸せで毎日楽しく暮らしている人でいっぱいのまちの一旦を描いてみたかったのであります。
これら自分が良いと思っているものはいずれも個人にそう思うということですので、絶対こうでなければという思いではないと思っていることをご理解いただけると幸いです。
ただ、「今あるそのままで良いと思える社会」という部分は十分全ての人が等しく頷いていただける価値観だとは思っております。
そう言えば、ビーガンの僕に「卵は?牛乳は?」って聞いて来る、まるで土足で人の家に上がりこんで来るような人って結構多いからなぁー。
思いがけず長文となってしまいました。最後までお読みいただきありがとうございました。